幽霊が出る深夜病棟へラジオが招く怪異
医学生時代ふさふさだった髪が、本日も帰宅の目処がない出張をする。
「はあ」
育毛剤を過剰なほど使っても抜け毛が止まらない。この分だと結婚どころか、まともな女性と出会う前に、ハゲてしまうのだろうか?
「ナースコールはオモチャじゃないんです!
山田さんさっさと成仏してくださいね!
私たちは暇人じゃないんですから!」
今夜も夜番の婦長が空室の病室で怒鳴っているのが聞こえる。
五十代独身女性がアレ。四十代独身女性の看護士はというと、俺を泊まりのプチ旅行へ誘い、俺に紙袋が破けそうなほどのBLな薄い本の荷物持ちをさせて本屋を梯子する鬼。三十代独身女性と二十代独身女性の医療事務と薬剤師は、俺のような下っぱ医師にホストクラブ代の支払いをさせる悪魔。
ついでに先週。院長の愛人をしていた派遣の医療事務の美女がスーパーの店員と結婚したので、院長が脱け殻となってしまい。院長の妻がオナベなイケメン集団を自宅で侍らせて、同居中の孫娘というか俺の従姉妹達の性癖をねじ曲げたらしい。
とまあ、この界隈まともな独身女性がいない。
ついでに派遣美女の医療事務と婦長と祖母以外は元研修医で、数時間かかる手術を一時間休憩挟んで二日間以上連続してこなす通常業務にキレて転職した過去がある。
当病院では救急はやってないんですよ。やってないのに搬送されるんですよ。
「佐藤さん、広崎さん、東能代さん、国司さん。何十年麻雀しているのですか!
いい加減成仏するかICUから出ていってください!
今捨てようとしている国司さんのイーピンで、広崎さんが和了れます!」
婦長強すぎ。どんだけ大声出しているのだか。
誰もICUに入っていないけど。
「お疲れ様」
婦長へ、イケオジな木村理学療法士からもらったウナギパイを添えて昆布茶を淹れたところジロリと睨まれた。恐い。
「お疲れ様じゃないですよ。あと5分で多分405号室で磯田さんの呼吸停止あります。さっさと行ってください。じゃないと耳にタコなおねしょ話しますよ」
「止めてください。婚期が遠退く」
これだから院長の血族をしているのが嫌になる。四十代独身看護士の鬼が、俺の叔母という立場を利用して俺の個人情報をベラベラ流すので、そのうち刺されてしまえばよい。エロい意味で。
私は婦長にむいてないとか、あいつ先輩を奴隷だと思ってるとか、医者に復職しないなら婦長やれとかブツブツ言ってる婦長が恐いので、トランプカード大の小さなイヤホン付きラジオを持って廊下へ出た。
『そもそもシメジとエノキの話の怖さが足りてなかったの。反省するならそこね。
岩内さんが心筋梗塞で死んだのは運命だから仕方ないわ』
婦長と母のそんな頭の中で響く言葉を消すように、女性病室階なのに男のうめき声が漏れる暗い廊下を歩きながら、スイッチを入れたラジオに巻き付けていたイヤホンを伸ばして耳に押し入れる。
糖尿病の合併症を表す『シメジ』と『エノキ』。岩内さんがその『エノキ』の『の』である『脳梗塞』で死亡したのは、こんな巡回したらなかなか戻ってこないイケメンではない方の看護士の木村が、元アイドルの飯田さんとエロい行為をしている先月の夜だったな。
よくやるわ。いくら人工巨乳の後天性美女でも飯田さんは俺の同級生や後輩の父親だぞ。
飯田さんの粘つくような視線を思い出して、鳥肌立った白衣の下の腕をさする。
「巡回ですか?」
「いいえ、婦長に患者の様子を見に行けと言われまして」
にこやかな気配で浮かび上がり、俺の隣に浮かぶ白いモヤな人影は、ラジオのノイズを大きくする。
「大変ですね」
「そうでもありませんよ。加々美のお姉さんが守っていてくれますから」
「あらあら」
この白い幽霊である加々美のお姉さんは、いつも優しい。俺が生まれるより前に亡くなっていなければ、プロポーズしたい。
そう言った時の母と叔母と婦長の驚いた時の顔が頭を掠める。『あんた女を見る目ないわ』。どういう意味だ?
「そのラジオ気をつけてくださいね。患者さんに聞かせたらダメですよ」
「大丈夫ですよ。イヤホンしてますので」
『お待たせしました! 昭和歌謡の時間です』
タレントらしいインテリが売りの女性ラジオパーソナリティーが、この時間に聞いたら「うるせぇ」と文句を言いたくなるテンションで、昭和のレジェンド歌姫を知らないと言いきって非常識なライブパフォーマンスが売りのゲストの男性ミュージシャンを絶句させる。
「心配だわ。ではまたね。岩内さんによろしく」
「あ、はい。霊感ないけど会えたら伝えておきます」
手をヒラヒラ振って、加々美さんと別れる。飯田さんと最年少看護士の木村がヤっている患者が洗濯物を乾かすのに使う乾燥室の壁の中へ、幽霊の加々美さんが消え失せる。やっぱりイイ人だな。親父とお袋と迷惑な恋愛してたのが嘘みたい。
ことごとくカップルの間に乱入して両方と関係持とうとするマジ迷惑な人だったって、婦長がどんよりする人だけど、加々美さんは天使な人。
暗い廊下を足早に歩く。
『えー単なる死んだおばあちゃんですよ』
『お前、いい加減にしろよあの方のファンは未だに多いんだし』
『でもでもアサシンミュージックの社長とアタシラブラブだし。アタシが歌った方が売れますってぇ』
『おま、そういう冗談やめとけよ。
冗談だからいいけど、不倫バレしたら大変なんだぞ。マジで』
飯田弟。破天荒なイカレサイコパスキャラはどうした?
あと、お前と飯田さんが父子って芸能界では秘密だったよな?
『冗談じゃないですよぉ。スマフォの待ち受けにしているハメ撮り見てくださいよ』
飯田弟。大声でいきなり南国の王様な童謡をオペラ発声で歌うな。飯田弟が出しているデスボイスで唸ってるか叫んでいるだけの曲よりも上手で綺麗に歌えているが、ハメ撮りが誤魔化せてない。
恐いラジオ番組だな。これ。
女性パーソナリティーが、大鎌を振り上げたスケルトン刺青を背負う芸能事務所社長に殺されるんじゃないか?
あの社長の『イボ痔再発してなければいいけど』って朝食の時、大腸ポリープの手術の手伝いをした時に執刀医だった母が心配してたな。そういえば。
何気なく暗い四階の窓を見たらあり得ないモノが、ガラス窓に貼り付いていて一瞬固まる。
窓にはニタリと笑う男の顔。
幽霊かと思って一瞬ビクッとしたが、少し前に婦長から怒鳴られていた麻雀四人組の1人である広崎さんが、病室衣の前を広げ、下も下ろしてモザイク処理をかけないといけない部分をガラス窓に押し当てていた。
なんだ変態か。
ホッとした。
「広崎さん。ウチの病院には泌尿器科があるのですから、夜中にそういう行為をしても広崎さんが求める反応は反ってきませんよ。
大事なモノは消臭除菌スプレー除霊される前にしまいましょうね」
広崎さんは死人そのものな土気色の顔の目を大きく見開き、いじめられっ子のような表情をする。
いや、いじめてないから。泣かせたいわけでもないし。
ただ業務中の泌尿器科経験ある看護士がそんなモノを見たって、業務中でしかない反応だから。
「いや、その。泣かないでくれるかな?
そういう大事なモノはしまっておきましょうね?」
窓をすり抜けて入って来た広崎さんは、コクコク頷くと、病室衣の上着をエリマキトカゲのように広げて立ち去ろうとして、転んで消え去った。
死んだ後だと、ズボン下ろしたままだと転びやすい事を忘れるのだろうか?
なんとなくため息が出た。
イヤホンからは、飯田弟が早口で昭和の有名な曲名をいくつも喋る中。『離しなさいよ!』と怒る女性パーソナリティーの声がカオスだった。
頑張れ飯田弟。
君の兄貴は、飯田さんの不倫や性転換でグレた時、コンビニ前で仲良くなった不良な先輩達を引き連れてごみ拾いや、公園遊具の修繕とか、盗癖の人が万引きした商品を店から出る前に取り上げて返品したりと、好き勝手やって何度も表彰された中学高校生を送っていたぞ。
そんな昔を思い出したせいか気が緩んでしまう。
「磯田さん」
ヒョコっと六人部屋である405号室を覗くと、眠っている磯田さんの枕元の隣に置いているワゴンに乗せた生体反応モニターが規則正しい音を立てていて、安心する。
婦長の予言はかなり当たるし、先月磯田さんの隣のベッドで亡くなった岩内さんがガッツポーズで応援してくれているからこれからが正念場なのだろう。
「気合い入れないとな」
ベッド周りのカーテンを閉じて枕元の照明を着ける。
生体反応モニターが乗っているワゴンの直ぐ下の段からゴム手袋をボックステイッシュのように引き抜いて取り出し、両手にはめる。
心停止になったら使うタオルと、AEDの用意をしておく。
もし幽霊が出たとしたら恐いけど、岩内さんが応援してくれているから頑張れる。
20代巨乳女性の応援尊い。
でもまあ。岩内さん、インスリン皮下注射使っても血糖値が健常者の5倍以上もあるのに毎日ケーキのホール食いとそのデザートに角砂糖乗せた牛丼特盛を鬼の形相で掻き込んでいて、担当者全員を毎日激怒させてたっけ。
多分覚醒剤中毒者でも、あんな必死さで覚醒剤を求めないよな。
多分。
カレーライスに使うスプーンを握りしめ。柔らかな茶色い瞳を濁った青にして、瞳の上をクッキリ白眼にした上三白眼でケーキや牛丼を鋭い眼光でロックオンする岩内さん。
親の敵とかそんな温いモノではない殺意を込めたかのように、ケーキや牛丼に突き刺さるスプーン。
にんまりと生身の人間を食った山姥のように吊り上げる唇。
ハリウッド映画のワンシーンや有名週刊少年漫画誌のアニメ化したバトルモノの主人公の高速連続打撃のように繰り出されるスプーン。
……ちょっと恐くなった。
婦長も鬼な叔母も母もこの病院は、幽霊が出るって恐い事をよく言うし。
『これらの曲を連続でどうぞ!』
飯田弟!
お前なんてタイミングで息切れしながらも口調を変えやがる!
怖かったじゃねーか!
その時、生体反応モニターが細かい非常音を鳴らした。
「磯田さん。磯田さん。聞こえてますか?」
苦しそうに磯田さんの手が、胸元へと動く。
「磯田さん。胸を開けますね。失礼します」
その時、磯田さんの指がラジオのイヤホンコードに引っ掛かり、プツリとラジオからイヤホンが抜けた。
前奏の導入部分が終わり女性二人の声が曲のタイトルを告げて、大きな音量で軽快で踊り重視な前奏が病室内に流れた。
カッと見開かれたのは、磯田さんの両目。
ラジオの前奏に合わせて、腕組みした磯田さんの腕と肩が動いているし、周りでギシギシと音がする。
何事かと思い、磯田さんのベッドを囲むカーテンを開くと、そこには、ベッドの上で立っている5人のヨボヨボな年頃の女性入院患者がいた。
「あの、まだ夜中の2時ですよ」
磯田さんのバイタル音は落ち着いてきてはいるが、俺の心臓は細かくビートを刻む。
ズルリと磯田さんもベッドへ立ち上がった。
「磯田さん!」
あわてて落ちそうになる三桁万円の生体反応モニターを抑え、もう片方の手でコードをつかみ磯田さんの胸に貼り付けている電極パッドを引き抜く。
早く洗濯ばさみのように指先にはめたパルスオキシメーターと、腕に巻いた血圧計の帯を外さないと、生体反応モニターが本当に落ちて破壊される!
婦長と経理の伯父と院長夫人であり理事長な祖母がめちゃくちゃ怒る!
絶対ハゲる!
三桁万円弁償したくない!
涼やかだったり、極寒だったりする風が吹き抜けるツルピカな頭皮の未来の俺!
俺、外見が並みというか、この病院で調理師と医療事務をしている、細身な美青年俳優をフツーと言いきる従姉妹達に言わせると、ブサメンデブでチビなんだぞ!
ダメ……鬼にBLな薄い本がパンパンに詰まった紙袋をいくつも持たされて、キャバクラに連行されて。キャバ嬢集めて戦利品の分配会やってるテーブルで不織布の袋に注文通りに薄い本梱包してブランド物の紙袋に詰めてるハゲ男なんて、結婚できるわけがない!
伸ばした手で腕を掴み、全体重をかけて磯田さんの左腕に乗るように抑えつけようとしたら持ち上げられつつあるので、意地でパルスオキシメーターをワゴン近くへ放り投げ、血圧計のマジックテープをビリビリとはがして、自分の体ごとベッドサイドに落ちてみた。
頭のリミッターが壊れてる痴呆老人の怪力は凄まじい。筋肉裂断や関節骨折してなければいいが。
ベッドの上で太ももを上げて20代女性な生命力でキレッキレッに踊る女性患者達は、まさに異常であった。
フェロモン過多なイケオジの方の木村理学療法士を見かけたら、相手チーム選手を全てぶっ飛ばしながらボールを抱えてゴールへと飛び込むラグビー選手の勢いで、日々イケオジの方の木村理学療法士に抱きつく足腰の弱い高齢者達なのに!
俺は痛い腰をさすることもせずに、イケオジの方の木村理学療法士に夢中なのに、男に飽きたと踊る姿を見ることしかできなかった。
こんなに元気ならごはんとサウナをいつもおごってくれると言う木村理学療法士とデートしたらいいのに。
あのイケオジの木村理学療法士。なんとなく怖いんだよな。並んで歩くと指が俺の尻の割れ目にめり込んでいたりするし、サウナ後にしこたま酒を勧めてきて、頭がクラクラしてるとナゼか息切れした鬼がラブホの入口で木村理学療法士を呼び止めて、偽善者の皮をかぶった仕事の鬼看護士ではなく鬼軍曹系麻酔医モードで修羅場って解散の流れになるし。
男の子というからには小学生かもしれないなどと、謎な事をつい考えてしまうとぽやぽやと柔らかな俺の髪に六本の手が伸びてきた。
日を追って柔らかで細くなってゆく貴重な毛髪を守るために、チャンピオンボクサーが繰り出すパンチ級のなでなでの嵐を避けるためにゴロゴロ転がって病室入口近くまでたどり着き、上半身を起こして首を左右に振りながらなでなでを避け、尻で後退り、見上げるとデカイ顔が病室入口に詰まっていた。
ギョロついた目で病室を見渡す幽霊の山田さんの顔が巨大すぎて、悲鳴が漏れる。
病室の入口が破壊されたドアの隙間に見える!
デカイ鼻毛が微妙に出ている!
この量の鼻息に頭皮があたったら、どんだけウィルスや細菌や元鼻水な飛沫が付着すんだ!?
こんなデカイ顔が、消毒済みベッドの上でナースコールで遊んでいたら、そりゃ婦長が成仏しろと怒鳴るのも仕方ない。
などと落ち着くよりも恐怖が俺の背中を駆け上がる!
毎月万札が融ける養毛剤や育毛剤とプライベート時間大半の努力が、一瞬にして暴力的ななでなでと鼻水ベッタリ汚染で無駄になる!
なんとか廊下に飛び出してダッシュをかけて暗い廊下を走る。
二十代から五十代くらいまでのおっぱいのおっきなお嫁さんをもらって、日曜日はなんで居るんだと冷たい目で見られながら冷やご飯にお茶漬けの素をかけた美味しいご飯を食べて、インスタント味噌汁をすすってホッとして。平日は公園のベンチで星空観測しながら夕飯のフライドチキンとポテトを食べてから帰宅して、ホストと電話で盛り上がる妻の声を聞きながら家事を済ませて、干したおっきなブラジャーと揃いのショーツをコーラ片手に正座して鑑賞する。
そんな平凡でささやかな幸せな家庭を手に入れるために、なんとか頭髪を守る!
髪の毛や爪の入ったバレンタインチョコレートや、キャビアやいくらの炊き込みご飯といったゴムみたいな食感の美味しくない手作り料理生活はもう嫌だ。
テレビCMに出てくるような、美味しいご飯生活したい!
救いを求めるように見上げた廊下の突き当たりには、先ほど窓に貼り付いていた広崎さん達と麻雀をしていた水色の病室衣を来た佐藤さんと東能代さんが手を繋いで立っていた。
入院当初はキラキラ美少年だった佐藤さんと、ぽっちゃりキモデブおじいさんだった東能代さんが、頭髪及び眉毛なし痩せ細った体型という一卵性双生児にしか見えない見えない姿で、指を絡めた手繋ぎで立っている。
しかも幸せに輝くような、ポッと顔を赤らめた照れた顔をしてだ!
ピーポーピーポーというサイレンと赤い光が絶望を俺にもたらす。
「嫌だぁあ!!」
救急車のサイレンと目の前にいるホモカップル!
「鬼が出るぅう!!」
眠りを妨げられた鬼が、ホモに飢えたまま麻酔医の獄卒鬼として降臨する!
どこの誰だ?
救急をやっていない当病院に救急搬送をしやがったバカは!?
救急対応なら閑古鳥泣かしている救急指定病院へ運びやがれ!
そう思ったのが悪かったのか、ホモカップル幽霊の前を曲がると何かにぶつかった。
もぞりと尻の割れ目に当たるよく知った指と、俺を受け止めた厚い胸板。
「先生、ここに居たのですね」
イケオジの木村理学療法士が頭一つ背の低い俺を抱きしめて微笑んでいた。幼稚園や小学校に通っていた頃からよく向けられた優しげな微笑みに心地悪いモノを感じる。
バナナやミルクアイスバーを食べさせてもらった時によく見かけたように、喉仏が動いた。いや俺、食べ物じゃないから。
「妊婦さんが救急搬送だそうですので、手術室まで来て下さい。恐いならご一緒いたしますよ」
「本当ですか」
看護士で麻酔医の鬼だけじゃなくて、医療事務で産婦人科医の悪魔とついでに薬剤師で外科医の貧乏神まで降臨しそうだな。
「なんで別れた後まで迷惑かけんのよあのバカ」
「前の前の彼氏が消防士だったのが運の尽きね。その時救急じゃなかったのに」
「しかも前の前の前の前の彼氏の友達を寝取った女が今回の妊婦で、救急車の中での出産をそそのかしたのが医大時代二週間付き合った遠距離の男」
「あのハワイで知り合って、あんただけが元彼女から鬼電された上に男が先に参って別れ話を切り出したのに、一年後、男が妊娠したから慰謝料払えって頭おかしい事言ってきた人?」
「そうそいつ。ついでに妊婦を孕ませたのが、元彼を寝取った女が浮気した男で。妊婦の今夫が先々週、救急搬送されてきて浮気と結婚バレした、BL狂いの伯母さんの同級生で、理学療法の木村さんの元カレ」
「やっぱあんた呪われてんじゃないの? ホスト狂いの祟りで」
「だからもうシャンペンタワー注文するとこホストクラブにするのやめるって。お祖母ちゃんお気に入りのおねえさんの方がハンサムだし」
「それよりフルーツ盛り合わせとシャンペンタワーでいいね稼ぐ趣味やめたら?
あんたビールとソフトドリンクしか飲めないんだし」
そんな従姉妹二人の会話がエレベーターの扉越しに聞こえた。
あいつらぁ。あんなにホストクラブの支払いねだっておいて、結局いいね稼ぎかよ!
「二人っきりですね」
チーンと鳴ったエレベーターに乗り込むと、カツカツと変な感じにエレベーターボタンを何度も押す深夜勤務が皆無なはずの木村理学療法士がそう言った。
「そうですね」
浮遊感が伝わって来たのに手術室がある階でドアが開かない。
ドアが開かずに最上階と最下階を俺達二人乗せて往復しつづけるエレベーター。
エレベーター隅に置いてある椅子に座っているイカサマ麻雀がもとで刺殺されたのに、麻雀大好きなままの国司さんが、『エレベーターコマンド・往復』と押されたボタン順をメモっている。
ポケットの中のラジオから聞こえてくる切なくも美しい不倫の歌が、なぜかボタンを押す手を止めて振り向く木村理学療法士と恐怖で泣きそうな俺がシンクロしている気がする。
木村理学療法士のミントの吐息に、俺は全力で逃亡したい。
だけど逃げ道がなく、エレベーターの壁際に立ちすくむ俺は、「幼稚園児の頃から欲しかった」と耳元で甘く囁き、両手で俺の頬を包む禁断の愛の歌に己を重ねて酔う木村理学療法士を前にして、かつてない恐怖に囚われる。
今日この先ここで起こる口づけ以上の事全てを、母親達にエレベーター内で撮影され続けている監視画像や診断と共に全て知られるという地獄へ、俺は失いたくなかった頭部の太く元気な抜け毛一本と共に落ちるしかなかった……。
【おわる】




