第十話 デブリーフィング
折原ミオが、シュウの幼馴染を引責辞任した。
ゲームをしながらボイスチャットでシュウに彼女の様子を尋ねたところでそのニュースを知り、私は思わず盛大に吹き出した。
そして咳き込んだ後、溢れたのは
「……マジか」
という一言。
それは完全に意識外からもたらされた一手に対する、純粋な驚愕と感嘆の声だった。
「普通幼馴染って言ったらアニメ、マンガ、ライトノベル、あるいはそれを愛する世の中のあらゆる男子が欲しがる存在で、しかも当人も他の登場人物と比べて関係性上ものすごいアドバンテージをを有してる」
『まあ、そうだね』
「生まれに起因し外部からの参入を排除する特権性はもはや世襲的であると言え、ある意味での貴族階級とすら表現できるのではないかと、一部の層からは指摘されているくらいなのに」
『そうなの?』
「それをまさか、捨てるなんて」
『……貴族階級云々は流石に民明書房でしょ』
「わざわざそんな古いネットスラングで突っ込まないで」
『すぐに分かるそっちもどうかと思うけど……まあ僕も、はじめ聞いたときは驚いたよ。凄いことを言うなあって』
私もその点だけで十分驚かされた気持ちだが、本当に凄いのはそれを言う勇気だけではない。彼女の決断は更に、二重のレイヤーで効いている。
一つは彼女が無意識に行いシュウが重んじた点だが、その判断の突飛さがシュウに刺さり、結果シュウの心を開かせるに至ったという効果だ。単純に彼女は想像していたよりもユニークな存在らしい。
そしてもう一つ、おそらく彼女もそしてシュウも意識していないことだろうが、その決断は幼馴染という価値が毀損した関係性をある種清算することに成功し、次のステップ、つまり双方とも前を向こうという未来志向の気持ちを共有するに至らせたという点だ。
このような状況、普通なら時の経過に任せてフェードアウトするか、シュウ主導での絶縁に傾くような場面だ。それを彼女は、自身のイニシアチブを減じながらも、完全に手放さないままに見事にひっくり返した。
まさに、起死回生の一手。
『……わ、また『ファイナル牙』だ』
二人でTBのマッチング待ちの時間でゴッドフィールド――オンライン上でのカードバトル――に興じながら、わたしはシュウの様子を伺う。そのシュウはある意味、これまで通りのシュウに見える。つまり、私が告白する前のシュウだ。
――――
あの日、私が彼に告白した日。私とシュウは、「回答は3週間後」とすることを約束した。
「すぐに返事できない。熟慮したい」
と回答を持ち帰ろうとするシュウに対し
「いつまでも待つけど」
と答えたところ、
「いや、それでは悪いよ」
と彼も言い出し、結果3週間後、というスパンが設定された。なので、3週間は完全に解凍を留保。その間、彼には私と付き合うということについて改めて考えてもらう。
大学生の男と女子高生が付き合う、というのは、民法が改正され結婚年齢が両性とも18歳となった今でもよくあるありふれた話だ。それに沿って私も告白してみたわけだけれど、考えてみればなかなかおっかない話で、方や成人、方や未成年という非対称性は大きい。もしそれを成立させるにしても、両者が対等な関係となれるように十分気遣う必要がある。
私という、あらゆる面で外れ値を示してるような存在と付き合うという決断が、そうやすやすと下せるものではないことは分かっている。もしそこを隠していたならばあっさりと私を選んでくれていたかもしれない。だけどそんな不義理を彼にすることはできなかった。
『難しい、複雑な形をしてるんだけれど、それを勝手に簡単に置き換えて分かったつもりになるんじゃなくて、難しい形のまま知りたい』
彼のその理想は、それ自体、その困難さを簡単に落とし込んでしまっていると言えるくらいに、難しいことだ。私は彼のためにも、それを果たしてもらいたいと思っているが、理性ではその難易度の高さをありありと認識している。
その意味では3週間ですら短すぎるし、実際それ以上待つつもりだ。
一方でそんなお高く留まりながらも、熟慮の結果断られる場合も当然あり得る。その場合、自分はさっぱりと身を引くことができるだろうか。
冷たい理性の中に、その問いから顔をそむける部分があるのを感じた。それが面白かった。
――――
「辞任したのが昼休みで、それ以降は折原さんとは?」
『放課後に廊下ですれ違ったよ。軽い会釈だけ』
「ふうん……彼女の部屋は?」
『もう幼馴染じゃないから、勝手に見られないよ』
そう言う彼の口調に、若干の喜色を感じる。やっぱりシュウは、彼女との前幼馴染という関係を愉快がっているようだ。
「良いから」
『じゃあ、すみません、という気持ちと共に見るか……ああ、電気ついてない。きっと寝てるね。寝不足の隈、すごかったし』
「ふーん」
ラオのアカウントでTBのオンライン状況を調べてみるが、彼女はオフラインだった。
「二人とも、選んじゃえば?」
『え?』
シュウのカーソルの動きが止まる。
「私は男だから、シュウの彼氏。で、折原さんを彼女にすれば。そういうマンガとかも流行ってたし」
「はは……僕にそんな甲斐性があると思う?」
シュウは自嘲気味に笑った。
「一人を幸せにできるかどうか、そんな自信すら本当は無いような人間だよ。きっとテストステロン値が根本的に足りないんだと思う」
「テストステロンなら私、昔病院に行ったとき測ったけど結構高かったな。どう、一旦私と付き合ってテストステロン値を上げるってのは」
「相変わらず、思考が第三宇宙速度を超えてるね」
「太陽系飛び出しちゃってる?」
配信で言ってもコメント欄の殆どがはてなマークを浮かべるような、迂遠で衒学的なジョークを言って笑いあうこんな時間がすごく好きだった。正直、この楽しみにもう一人加わるというのならば、それだけ抜き出して考えれば大歓迎のことでもある。
3週間というのは、私のような同じようなことの繰り返しで生活をしている人間にとっては一瞬だ。だが、学校という空間において3週間は、無限の可能性を秘めた時間だ。今の私のこの余裕は、簡単に覆るかもしれない。
けれど、どんな活動やどんなゲームよりもやりごたえがあり、楽しく、そして幸せになれそうなもの、それがこの恋愛の駆け引きという行為だと思った。
――――
朝5時に起き、往復10キロのランニングを終え、メイクを終える。目元に隈はない。十分な睡眠を取り、私はすっかり復調していた。
そしてそのはっきりと覚醒した頭で振り返ると。
一体わたし、何言ってたんだ?
いや、幼馴染を辞任するって一体何。そもそも、辞任できるなんて知らなかった。しかもあまつさえそれが通ってしまうなんて。
その結果、私は前幼馴染となってしまった。このあと、シュウ――ではない、高橋くんに新たに幼馴染が出来ない限りは、その称号を使い続けることができる。だが新たにもし出来てしまった場合は、私は元幼馴染となる。語感からしても、かなり権威は下がるような格好となるだろう。
しかし、歴史を振り返ると院政や相談役といったような形で、前任者が依然として勢力を振った例はたくさんある。それを踏まえると表舞台から去り、後任の幼馴染を影から操るというのは、失権した人間が態勢を立て直すための常道と言えるかも……。
「ってバカか!」
自分の頭をひっぱたく。幼馴染が新たに現れたら、そのときはむしろそのような存在が最大のライバルになる。ただでさえリオラという規格外の人物がいるのに、そんなの勘弁だ。
それに後任の幼馴染って何。もう高校生にもなって、幼馴染っていうのは後天的には出来ない。……はずだ。
そう考えると、私は彼から唯一の、そしてもう得られない「幼馴染」という存在を奪ってしまった張本人にもなるのかもしれない。その事実に胸が痛む。
だけど、それでも。後ろ髪をゴムで結んで、自分の目を見た。
高橋くんは、私にチャンスをくれた。リオラへの返事を留保してまで、私の彼に対する気持ちを検討する、そんなチャンスを。
スマホを開き、学校アカウントの予定表を見る。4月末、そして5月頭。それぞれに控えるイベントは、いずれもうまく使えばとても有利に働くはずだ。
「……どうか、『良いよ』って言ってくれますように」
まだ寝ているであろう彼の寝室の方を見ながら、そうつぶやいた。
……この動作は、幼馴染ムーブとして判定されるのかな? それともギリギリ、単なるお隣さんムーブとして許容されるのかな。今日学校で会ったら聞いてみよう。




