Room9 侵される領域、奪われた箱の支配権
僕等がまず連れられて行ったのは以前僕が梓さんと対面した診察部屋だった。なぜ初めから舞さんの病室に向かわないのかと疑問に思っていると、伊勢君がその疑問を口にしてくれた。梓さんは鳳さんに会う前に先にあなた達に話しておきたいことが有るのよと、一言だけ言い、真直ぐにこの診察部屋へと向かってきたのだ。
梓さんはデスクの椅子に腰を下ろすと立っている僕達に向き合う。
「さて、私がまず話したいのは鳳君に会う前にあなた達の誤解を解いておきたいからなのよ」
それを聞いた伊勢君が噛み付く様に言う。
「誤解なんてないですね。舞は確実にあんたのせいでああなったんだ。弁解なんてされても遅い」
「そうね、結果的に言えば私の判断が原因だといえなくはないわ。確かに軽率でした。それは認めましょう。でもね、私にも投薬はやむなし、と言う理由があったのよ」
「自分達に解るように説明してください。どんな理由だっていうのですか?あんな状態にしなければいけない理由なんてあるのですか?」
阿須磨君も声を怒らせている。
「お願い落ち着いて、あなた達が怒る理由は理解しているつもり。ここは病院なのよ、静かにしていて。それと、これから話す事を聞いてもらえれば少しは私が鳳さんに薬を飲んでもらった理由も理解を得られるはずなのよ。今は黙って話を聞いては貰えないかしら?」
梓さんは脅迫するような迫力のある凄みを加え僕等を見据えた。伊勢君や阿須磨君は納得がいかない様子だったけれど一先ず、話を聞かなければと思ったようだ。名瀬さんと相模さんは部屋に移動して最初から深刻そうな顔つきで俯いていた。陽さんはどう思っているのだろうか?僕が感じるのは増幅された不安だけだった。
「理解してもらうにはまず、彼女の精神病の事から話さなければならないわね。解離性同一性障害、と言うのが鳳君の病名。それについてはあなた達も知っているでしょう。以前は多重人格障害と呼ばれていた。その方があなた達には解りやすいと思うわね。実際鳳君と毎日会っていたあなた達なら舞君、陽君、この二人の人格に会ったと事は有るはずよね。その他に今は月君、この三人の人格が鳳君一人の中に存在する。でもね、mtv-001を服用する前は8人から15人居たのよ。年齢も性別も別々の人格がね。実際その頃は何人存在するのか把握できていなかったわ、日によって増減が激しすぎて」
梓さんは目を細めて思い出すようにしている。
「薬を服用してから鳳君は安定した。これ程に顕著に効果が現れる事は想定外だった。結果はとても良好だった、幼児から成人まで様々な年齢層の人格も実年齢に近い者だけ残されて他は全て統合され、吸収されていったのよ。でもね、最近解ったのはそれだけでは鳳君の精神病は治らないという事なの。安定を持続させることは恒久的に可能、でもね、それは治療とは言えない。私は医師なのよ、病状を持続させる事では無く、完治させるのが仕事なの。私は鳳君の中の三人の人格が長く安定し続ける事で常同的に固定されてしまう事を恐れた。固定されてしまえば障害を回復へと向かわせる事がとても難しくなるのよ。そこで敢えてカンフル剤として精神の波の振れを一時的に大きくすること目的でmtv-002を服用して貰ったのだけど、それは失敗だった。安定を僅かに崩すことが狙いだったのだけれど、余りに効果が大き過ぎて肉体的な負荷にまで及んでしまった、けして予見していたことではないの。医師として配慮が足りなかった事は謝るわ、ごめんなさい。鳳君を試薬の前線に立たせる事はそう言った意味合いがあったのよ。けして私が個人的な判断で鳳君をそう言った立場にしている訳ではないの」
梓さんはそれだけ言うと溜息を一息ついた。すると伊勢君が、
「なんで今更そんな事を俺達に教えるんですか?」
と聞いた。
「私はね、医師としての信用がここで大幅に失われてしまう事を感じたの」
「あなたは自分達の事など、何も考慮してくれていないのでは無いのですか?信用など、もとより無かった」
阿須磨君にそう言われて梓さんは僕達を見据える。
「解っていたわ、そういった風に見られている事はね。でも、私は姉さんの様に患者に接することは出来ない。それについてはどうしようもない事なのよ。でもね、けしてあなた達の事を突き放している訳ではないの。それだけは理解して。人間的な信用ならば要らないわ、けれど医師としては信用しておいて欲しいの」
「梓さんの言いたい事は解ったよ。せやけど、それって今聞いておく必要のあるものなんかな。舞っちとの面会遅らせてまで」
「そうだよな、これじゃ自分の事を優先させているみたいじゃねえか。梓さんの弁解のために俺達は集まったわけじゃない」
名瀬さんと伊勢君が計ったようにそう言うと、
「私もそこまで馬鹿じゃないわよ。保身の為にあなた達の予定をキャンセルさせたわけじゃないわ。問題はね、鳳君の状態にあるの。昏睡状態だった彼女が意識を取り戻したのが十時過ぎだったわ。丁度姉さんが帰った直ぐ後の事頃だったかしら、意識を取り戻した鳳君は三人格のどれでもなかったのよ」
急に僕の中で膨らみ続けていた不安が弾け、僕の口を動かした。どうやら陽さんの考えは解らなくても少なからず心の微動は僕に影響を及ぼすらしい。
「それって、どういう事なんです? 舞さんでも月さんでも無いって事ですか?」
梓さんは僕が口を開いた事に対してかなり予想外だったらしく、
「あなた、冷静さを欠いて自分からそうやって話すことも有るのね」
と驚いていた。僕は今、このタイミングで聞かなければいけない事をもう一度、僕の意思で反芻する。
「それより、鳳さんの事をもう少し詳しくお教え下さいませんか?」
梓さんはああ、ええ、そうねと取り繕い、
「鳳君が目覚めた時に意識の表面に居たのは名前の解らない幼稚性の高い人格だったのよ。初めは幼児退行化現象を疑ったけれど、どうやらそうではない様なの。結果的な判断を言わせて貰えればあれは新しい人格の様なのよ。嘗て分裂していた頃の人格でも一致する者が居ない全く新しい人格。その上彼女、自分の名前を名乗らないのよ。会話で女性である事は確認できたのだけど。そして本来ホスト人格で有る筈の舞君まで出てこれずにいる。ホスト人格と言うのは人格を統制して把握、掌握しているリーダ的な人格の事を言うのよ。長い間鳳君を診てきたけれどこんな事は初めてだわ、あれは薬の影響で産まれた者ではない筈なの、これまでの結果を踏まえて言わせて貰えれば、mtvシリーズの影響下にある以上、人格の増減は認められない、と考えていたわ。心理的に圧迫されるような外因があって始めて分裂が起こるはず。すると、服用前にすでにその人格は存在したことになるわね。そこであなた達に先に聞いておきたかったのよ。鳳君の中にそういった女の子の人格を見たことはなかったかしら?」
僕等は顔を見合わせて、同時に首を横に振った。結構な時間を共に過ごしている皆が見たことが無い上に、恐らく僕の中の陽さんも先程の反応を見る限り知らない事は確かだと思う。とすると、やはり薬の影響なのではないかと僕は疑った。横では相模さんがキーを打ち込んでいるのか僅かな音がしていた。
「私達ニハ舞サンノ中ニソウイッタ女ノ子ガ居ルコトヲ知ッテ居イ人ガ居ナイ。トスルトヤッパリ薬ノ影響ガ原因デハナイノデスカ?」
梓さんは少し考え込むようにして顎を指で挟んでいる。すぐに、
「鳳君、何か精神的に圧迫を受けるような状況に陥らなかったかしら?もしくはそういった事を彼女は話していなかった?」
「やっぱり、薬の影響じゃないんですか? 俺達にはそれしか考えられませんよ」
伊勢君がいらついた声で非難する。僕等の誰もがそういった異常を感じていなかった以上、当たり前の反応だと思う。
「貴方達、鳳君にmtv-1を飲ませようとしているでしょう? それは意味の無い事だから止めなさい」
突然梓さんが僕等に向けて突然言った。皆少なからず動揺を受けているようだ。
「私は名瀬君が定時以外に薬を所望したと聞いてピンと来たのよ。あなた達のしようとしている事は無駄だわ」
「何故そんな事が言えるのですか? 自分達の判断が正しいかもしれない!」
阿須磨君が苦しそうに叫ぶ。
「やはり、そう考えていた様ね。貴方達、解りやすいわ。そういった反応を普段の往診からしてくれたら有難いのだけどね。薬の効果は約24時間続くのよ。mtv-2の効果は未だ続いているの。上塗りした所で無駄でしかないわ。あの薬は飲んで数時間で効果のピークを過ぎるのよ。その効果から後は均衡が保たれるだけ。だから今は安全な状態と言えるわ。そこへmtv-1を飲ませたらまた繰り返しピーク効果が訪れるかもしれない。そうなったら貴方達に責任は取れるのかしら?」
僕等の行動は見透かされて無駄だったことを知らされる、だけれど、僕には切り札がまだ残されている。陽さんが僕の中に居る限り無駄じゃないんだ。
「解りました、薬を服用させる事は諦めます。でも、面会だけはさせて下さい、僕達は鳳さんの無事を確認したいんです。お願いします」
僕はこれだけは押し通したいと思った。皆が僕と同じ気持ちを共有しているように同様に頭を下げた。
「確かに、貴方達が鳳君に会えば何か得られるものが在るかもしれないわね。それじゃ、必要な説明も一通り終わった事です。行きましょうか」
僕は梓さんは確かに医師としての腕はあるのかもしれないけれど、やはり人として好きになることは不可能かもしれない、そう思うのだった。
病院棟は入院患者棟と診察棟に分かれている。舞さんはどうやら入院患者棟の4階、個人部屋に入室されているようだった。僕等が病室の前まで移動すると梓さんがドアをノックする。反応は無かったけれどすぐに梓さんは入るわよ。と一言告げて扉を開けた。病室の中はベッドが一つと天井に固定され据え付けられているテレビ、色々な機械の類で埋め尽くされていた。テレビは機能していないのか電源が入っていなかった。
ベッドの上には到って普通な舞さんが窓から外の様子を眺めていた。良く見るとプラスティック製の手錠のようなもので舞さんの腕はベッドの格子に繋がれて居た。すぐに伊勢君が、
「舞! 大丈夫なのか? 今は精神状態は落ち着いているか?」
と声をかけたのだけれど反って来た言葉は意外なものだった。
「あんた達、誰? 私の知り合い? 違うわね。私あんた達なんて知らないもの」
誰? 知らない。あたしの知っている人格の誰でもないよ、この子。
陽さんの声がした。僕等が呆然としていると梓さんが溜息をついていった。
「ずっとこの調子なのよ。正直私としてもお手上げだわ」
梓さんを一瞥して舞さんの体を支配している彼女が、
「はやくこの部屋から出してよ。久々に外に出られると思ったのについてないなぁ。退屈はもううんざり、この中の子達にも遊んで貰えなかったし。そうだ、あんた達私と遊ぼうよ。外に出てさ、空の下で走り回りたいな」
僕等はどう答えて良いか迷っていると梓さんが言う、
「貴方達だけで話したい、そう思っているでしょう? 一応名瀬君の持っている薬は預らせて貰うわ、それが可能なら私は退場しましょう。何か変化があったらすぐに知らせるように。私はこの階の休憩室に居るから」
「あれ? おばさんもう行っちゃうんだ。この手錠、外してくれないの? 意地悪しないでさ、外してよ。大人なんて嫌い。私の話、誰も聞いてくれないもの」
彼女がそう言うと少し梓さんは疲れたような顔を見せた。やけに気が利くなと思いつつも梓さんの苦手なタイプとはこういった子なのかとふと思う。僕は有難いと思った。名瀬さんが名残惜しそうに薬を手渡すと梓さんはあとは任せたわと言って部屋から出て行ってしまった。僕は陽さんと入れ替わる。
「ここは俺達がどうこう出来る場面じゃないな、俺は病室の外見張っておく。誰かに見られたらまずいからな」
伊勢君はそういい残して外へ出てしまった。続いて阿須磨君もここから先はデリケートな話題になるでしょうから自分も外しますといって外に行ってしまう。二人の背中に向けてありがとう、と僕の口が呟いた。残されたのは僕と相模さん、名瀬さんの三人だけだ。
「あなた、誰なの? 舞に変わって。あたしは陽、舞の中に居た一人。でもあなたのことは知らないよ。あなた一体、何処から来たの?」
陽さんがそう僕の体を解して質問するとその子は答えた。
「あれ? そっちにもこの体の中みたいなモノが在るんだ! ふぅん。教えてくれてありがとう。そっちにもその内行ってみたいかな。この体、なんだか慣れないし。そっちの方が居心地よさそう」
そう言って僕を好奇の目線を絡みつかせる。
「それより、早く舞を出して。その体は舞のものなんだよ! あなたのものじゃない」
陽さんが激昂してそう言うと彼女は面倒くさそうに、
「つまんない。飽きたかな、もう良いや。結局ここから出られないみたいだし、良いよ。変わってあげる」
そう言って目を閉じた。すぐに目が開かれて苦しげな言葉が漏れ出す。
「私の声が聞こえる? 私の中に予想外の何かが入り込んだ。来訪者でもない、ジャンクでもない者」
「舞? 舞なの?」
陽さんがそう言うと舞さんは僕の顔を手で触り確かめるようにして前かがみになる。どうやら視覚は閉じられたままのようで開いている瞳は何も捉えていなかった。
「あなたは、陽なのね。私は、早くあなたに戻って欲しい。私の体はあの子に良いように操られてしまう。部屋の中は大荒れ、ジャンクが大量に発生している上に来訪者までが現れている。私と月は押さえ込まれてしまっているの。私達だけでは対処できない。恐らく、話せるのもこの間だけ。お願い、皆。私を助けに来て下さい。私を元に戻して」
それだけ言って舞さんは糸が切れるようにベッドに倒れこみ、意識を失ってしまった。口は荒い息を続けている。
それを見た相模さんがすぐにドアから出て伊勢君に伝える。名瀬さんはあたふたとただ焦っていた。伊勢君は阿須磨君と梓さんを呼びに走っていった。
「舞、どうしたの? ごめん、すぐに行くから、頑張って。皆で行くから」
陽さんの意思がそう告げると、気がつけば僕の頬を何かが濡らしていた。僕の頬を涙が伝い落ちる。あの日から一度も流した事のない涙が流れていた。陽さんが自分の無力さを悔いているのか心が捩じ切れるほどの悔しさが僕の中を駆け巡っている。
バタバタという音と共に三人が戻ってくると僕は顔を隠すために体を後に向け、窓の外を眺めた。梓さんが貴方達、何を話しかけたの? また昏睡状態に戻るなんて、そう言葉を続けようとすると突然、舞さんが起き上がり平然と声を上げて笑った。
「あはは、遊ぼうよ。私待ってるよ。あんた達なら解るでしょ。私とあんた達には繋がりができた。楽しい遊びを用意してるんだ。待ってるよ」
梓さんは一瞬怯んだけれど、すぐに気を取り直し、
「貴方達、私を馬鹿にしているのかしら? こんな事に意味が有ると思っているの? 何か結果が得られると期待していたのだけれど、無駄だったようね。私はまだ鳳君と話しておきたい事があるわ、貴方達もう良いでしょう。出て行って」
と僕達に怒りを向けている。どうやら勘違いをされてしまっているようだ。僕等は言い訳の暇も無く病室から追い出されてしまった。僕等は仕方が無く、食堂へと一度戻ることにした。何があって何をしなければならないのか、それを一度まとめる必要が有った。戻る間、誰もが無言で硬い空気が辺りを包んでいた。