Room3 箱と扉と心のつながり
二度ほどノック音が聞こえ、紅葉さんの声が僕に投げかけられる。
「そろそろ紅葉さん自慢の手料理が振舞われる時間だよ。どうやら皆も帰ったようだからね。さ、一緒に行こうか」
僕は扉を開けて紅葉さんと食堂へ向かう。食堂の木で作られた長いテーブルには八脚の椅子がついていてクラスメイトの皆が既に座って待っていた。テーブルには色々な料理や果物を使ったデザートなども用意してあった。近くまで行くと、
「君は自分の前に座ってください。紅葉さんの正面じゃ食べにくいでしょうから」
と阿須磨君が静かに言った。空いている席が両頂点の二脚の椅子と阿須磨君の前のいすしかなかったため僕は言われたとおりそこに座る。僕の隣は相模さん、鳳さんで、正面の阿須磨君の隣が伊勢君、名瀬さん。そして鳳さん側の頂点部の椅子に紅葉さんが座った。どうやら僕の椅子の位置は初めから決まっていたみたいだ。
ここの椅子だけ座る部分が高くなっている。当然それは僕の場合、皆と同じだとテーブル部まで顔が届かないから。よく見るとごはんやおかずの量も皆に比べると量が減らされていた。僕はそれをありがたく思った。
「律儀に待っていてくれるなんて珍しいねえ。紅葉さん感激さ」
「いえ、今日は大切な新しいクラスメイトの歓迎会も兼ねての食事ですからね。俺たちもそこまで気が利かないわけじゃないですよ」
「そうそう、もみ姉だけならうちらも待ったりせえへんもんな」
そんなやり取りがされ、紅葉さんがやれやれといったジェスチャーをとる。
「それじゃ、ご馳走ありがたくいただきなさい」
「「いただきます」」
皆でそう言い、食べ始める。食べながら皆は僕にちらちらと目線を投げかけて話しかけようとしている。それが見え見えでなんだかくすぐられている感覚になる。そうしている内に伊勢君が、
「お前の名前って入間那世だったよな」
と聞かれたので、
「はい。それで間違っていないです」
「じゃ、俺はお前のこと那世って呼んでいいかな?」
「ええ、かまいません。是非そう呼んでください」
「それじゃ俺のことは夕貴ってよんでいいぜ。まあ、呼び方はお前の好きでいいけどな」
すると名瀬さんが、
「なんだか君ら、そっけない呼び方やね。うちのことはありちゃんて呼んでくれてええよ。ありさやからありちゃん、可愛いと思わへん?」
そう言って明け透けに笑う。僕は正直、君やさんなどをつけずに同年代の人から呼ばれた事がなかったので、かえって伊勢君の呼び方が新鮮に感じたのだが。名瀬さんは教室に居たときはあれほど眠そうだったのに不思議だなと思っていると、阿須磨君がぼそりと口を開き、
「名瀬さんは寮にいるときは大概元気なんですよ。自分は時折、名瀬さんの病気が嘘なのではないかと、そう思っています」
「うちの病気は本物なの!今も本当はごっつねむいんやで!」
テーブルをばんばん叩いて名瀬さんがそう返す。
「食事中、静粛に。私の前でそんなに騒がないで」
「仕方ナイデス。ありさチャンハ起キテイル時間ガ半分ダカラ通常ノ人達ヨリ、二倍元気ニナッテシマウカラ」
と、鳳さんと相模さん。こんなに賑やかな食事は久しぶりだなと、僕は思った。僕はこういった環境が苦手なので、早くこの場を離れたい、そんなことを思っていた。精神安定剤の効果がそろそろ切れ始めているようで、心の奥でなにか焦燥感のような落ち着かない気持ちが沸き始めていた。そうこうして食事が終わると、
「那っち、試験薬貰った?」
と名瀬さんに聞かれた。
「はい。貰いました。今、服用した方が良いのですか?」
「うん、その薬ね、その薬でうちらは今みたいな状態でいられるんや。うちら本当は薬が無ければ話も通じられへんような重病人なん。だから那っちも飲んだほうが良い。うちの苗字と那っちの名前、読み方が同じだから親友やん。親友からの忠言やよ」
そう言って笑った。紅葉さんは、
「本当はそんなものに頼らない方が良いのだけれど。精神病と言う物は難しい病気だ。紅葉さんも君たちにはなんとか薬に頼らずに治して欲しいと思う。だが、重度の精神病にはやはり、薬で抑えてしまうのが一番安全なんだ。こんな実験の様な治療を押し付けてしまう事は非常にすまないと思っている。特別学科の先生達ね、私の妹も含めてだが、彼等は少し君達の扱いが雑だ。だから紅葉さんはできるだけ君達の力になりたい。なにか困った事、嫌な事、耐えられないことがあったらできるだけ紅葉さんに言って欲しい。彼等に良く伝えて説得する、それくらいの事はできるはずさ。人は苦労する事で強くなることができる。だが君達の年齢での苦労はまだ早すぎるんだ。話は変わるけど、その試薬、それは意識レベルを一定の均衡に保つ、という効果を狙った薬品だ。紅葉さんも三森君からの受け売りで聞いた話なのだけれどね。現に見たところ、君たちには絶大な効果を発揮しているようだ。紅葉さんがここに赴任された頃は舞ちゃんや只由君はひどい有様だったからね。とは言え、たった一月前のことなんだが。その点では紅葉さんはよかったと思っているんだ」
なんだか、重苦しい空気になってしまったね、すまない。と紅葉さんが謝った。僕はなぜ紅葉さんが謝らなければならないのか解らなかったけれどうなずく事にした。僕は随分前から人扱いされない事には慣れている。実験対象にされることも別に嫌とは思わない。ただ、面倒なだけだから。ここの皆はそれになれていないのかな、と思うのだった。
テーブルで皆で試薬を水で飲むと各自部屋へと戻ることになる。帰る間際、鳳さんが、
「あの部屋で会いましょう。話すべき事が残っている」
と謎の言葉を残してかえっていってしまったけれど、僕には何の事かさっぱりだった。僕も部屋に戻り、シャワーを浴びて歯を磨き、眠る事にした。今日一日をベッドの上で反芻してみる。余りにいろいろな事が起きすぎて僕の頭の中は氾濫状態だったけれど、不思議と悪い気分ではなかった。やがて頭がぼんやりとしてきて記憶が閉じようとしていた。
気がつくと何もない真っ白な部屋の中に居た。立方体の真っ白な何もない部屋。そこに白いドアが一つだけついている。何処だろうとは思うけれど、何故か少しの恐怖も焦燥感も感じない。なぜか懐かしくてまるで今までずっと暮らしていた個人の部屋の中のような空間。安心していられる部屋だった。
けれど、ずっとここに居るわけにもいかない。状況を把握しないと、僕は確かにあの寮の部屋にいたはずだ。あの部屋で寝たはずなのだけれど。寝ている間にどこか違う施設にでも運ばれたのだろうか?誰かに攫われた?しかし、そんな事をして得をする人間がいるわけが無い。いくら蘇波グループの人間だって一日目にしてそんな強行的な手段に出る事も無いだろう。仕方がないので目の前のドアを開けた。
ドアの先は広い空間が広がっていた。真っ白で何もない部屋。先ほどと全く同じで変わっているのは広さだけだ。奥の方に何人かの人達が一箇所に固まっているのが見える。するとその中の一人が走って僕のほうへと向かってくる。どうやらそれが女の子で背の高いランナーのような逞しい体をした子だということが解った。黒髪で髪は後に縛っている。どこかでみたことがあるな、ふとそんな事を思った。
「やっと来た。ここで会うのは始めてだよね。あたしは陽さ、ほら、食堂で会ったじゃん。ここではあたしらは個別に分かれる事ができるんだ」
じゃ、行くよ。といい僕の手を引いて走り出すのだった。僕は彼女の足が速すぎて引きずられてしまっていたけれど。そんな事は関係無しで彼女は、
「やっぱりかわいいなぁ、ここに閉じ込めておきたいくらいだよ。どう、あたしと一緒にここで暮らさない?」
なんて言っている。僕の頭の中は混乱の上塗りで滅茶苦茶なのだけれど。
遠くで見た限りでは解らなかったけれどどうやら固まっていた人達は特別学科のクラスメイト達だったようだ。そこに見た事のない、床まで届きそうなほど長髪で暗い瞳の女の子が一人混じっていた。鳳さんが一言、
「ようこそ、私達のパーソナリティールームへ」
と頭を挨拶するように下げて僕に言った。
「ここは私達の意識の中に存在する部屋。現実ではないのは私の中にしか存在しない陽や月がここに存在している事を、彼方が確認できている事が証拠」
そう言って鳳さんは陽さんと長髪の女の子を見て、うなずく。
「この部屋へ来たのは一月前、試薬を飲み始めてから。だからあの薬の効果の一部だという事は解っている。そして同じ薬を飲んだクラスメイトの皆も、同様にこの部屋に入る事が出来る。部屋の広さは個人差が有る様。ここは私達の部屋」
「ここからはあたしが説明するよ、舞」
陽さんが手を振って話を切り、説明を始めた。他の皆は腕を組んで待っていた。
「この部屋はさ、本当は気を許した相手しか入れないはずなんだ。だからあたし等以外のたとえば、ありさの部屋にはありさが心を許せる相手にしか入る事ができない。だけど、あたし等の部屋はなぜか入れちゃうんだよね。多分、あたし等の部屋は精神的な鍵がついてないんだ。ほら、共同生活だから。元15人も住んでたわけだから無駄に広いわけだし。それと、ここに来る事が出来るのはあたしの本体が熟睡しているときだけだよ。まあ、個人のパーソナリティールームならいつでも熟睡さえすれば入室できるけど。あの薬を飲んだときは驚いたよ。あたし達の中に急に部屋ができたからね。それまではなんだか、記憶の深い海に三人とも浮んでいる、そんな感覚だったんだ。それが急に重力が出来て落下した。そしたらいつの間にか部屋の中。そんな風だったね」
そうそう、月、自己紹介しなよ。そう言って陽さんが長髪の女の子の肩を叩く
「わたくし、は、月と、申し、ます。あなたの、事は、眼を通して、ずっと見て、いました。可哀想な、人」
「うーん、ごめんね。月はこんなやつなんだ。あまり表にも出てこないし。月は舞が本当に辛い事に出会ったときに壁役として出てくる役目なんだよ。苦痛を受ける役回りなんだ。だから話す事は得意じゃない。でも、一番優しさが必要だと思うのはあたしは月だと思う。だからここでは優しくしてあげて」
僕は優しさを伝える事は苦手だけれど、頷いた。
「さてと、そろそろ本当の自己紹介と行こうぜ。今日はもうあれも沸かないはずだ。来訪者もこの時間じゃこないだろ。表じゃ言えない事も沢山あったからな。ここでしか出来ない能力っていうのも実は、俺たちにはある。そいつの説明もしないとな。じっくりいこうぜ」
「そやね。内心聞きたくてうずうずしてたこともあることやし」
「自分は特別話す事もないですが」
クラスメイト達が突然口々に話し始めた。すると、
「私は話したいな。ここでしか私は声を伝える手段がないんだもの」
と相模さんが声を出す。僕は驚いて彼女をみると、彼女の腕にはあの小さなキーボード装置がついていなかった。彼女は口を動かさずに声を発していた。
「私は失声症だから、あっちの世界では声は出せない。だけど、この世界では心の声を実体化できるようなの。本当は私はあの電子音の声が大嫌い。個人のイメージって大概声で決まるって私は思うの。だから私のイメージはいつも無機質なものになってしまう。それはとても悲しいことだと思うわ。私が感情を伝えたいと必死に思ってもあの声じゃどうしても伝わらないんだもの」
彼女は苦しそうにしてそれを言葉にする。
「だから私は本当に伝えたい事はここで伝える事にしているの。入間君も外の世界でいえないこと、それでも私達に伝えたかった事があったら私達にいつでも言って欲しいな」
彼女は僕の頭をなでてそういうのだった。僕は思う、僕の伝えたい事とはなんだろうか?僕がこうなった訳か、僕が良く見る悪夢だろうか。それとも僕がこれまでに苦しんだ環境を説明する事だろうか。その中から僕は一つ選んで伝える事にした。僕の病気の恐らく原因となっている、あの悪夢の事を。
「僕がこういった姿でいるのは・・・
・・・ですから、僕を彼方達と同じ年齢の人間として扱って欲しいんです」
陽さんが僕に抱きついて頬を押し付ける。
「那世は、強いな。俺は会ってそうそうの人間にそんなこと伝えられねえよ。現に俺がなんで解離性障害になったかなんて簡単に話せないからな。怖いんだよ、それを口にしたら自分が壊れそうで」
「自分も言えません。皆さんには悪いけれど、本当に怖いんですよ。今の精神バランスが崩れる事、それが意味するのは自分の場合、自分が失われるくらいの怖さなのです」
「うちは原因が解らないから話し様がないけどね。やけど、那っちの苦しみは解ってあげたい」
「ごめん、私も今は話せない。声が出せるようになるまで話せないと思う。こうやって心の声を外に出せる状況でも、その時を思い出すと何も言葉が浮ばなくなってしまうの。ごめんなさい」
彼等は皆、苦しそうにそう言った。僕は解らない、僕が口にしたことに対して僕は全く苦しみや痛みを感じないからだ。最後に舞さんが、
「私は言える、私をこんなにしたのは私自身が弱かったせい。一族が組み上げた唾棄すべきシステム、私はそれを破壊しようとして失敗した。下らない、私は人形に成り下がるつもりはない。牢獄で一生つながれ続け、犬のように一生を終えるくらいなら、私は自分からこの命を絶とう。そう思っていたけれど、私の心が持たなかった。結局私は自分に負け、一族にも捨てられた。私は結局負け犬、一人の力では何も出来ない」
「舞、思い出してはだめ、あたし達は戦ったはずだよ。最後には結局あんなに私等の分身は増えてしまったけど」
「あの時、わたくしたちの体は、まだ幼かった、仕方ない、こと、いつか忘れる、それができれば、幸せ」
彼女達が一体何の事を話そうとしているのか、その具体的な内容については僕にはわからない。けれど、彼女達三人を見て、三人でやっと一人を支えあっているのだなと実感した。
「舞、その話はもうしなくていい、辛くなるだけだからな。これ以上続けるとまたアレが沸くだろう、時間も余り残ってない。那世にはすまないと思う。お前がそれを話してくれたってことは俺たちを本当に信用しているって事だよな。だったら俺たちもお前に伝えられる限りの事は伝えるつもりだ」
伊勢君が拳を握り締めて僕を見た。
「ここは実はそう安全な場所でもないんだ。俺たちがストレスを感じたりするとジャンクって出来損ないの生き物のような奴が沸く。こいつ等が部屋を占領し始めると現実の俺たちの精神状態が最悪になるわけさ。だから最近は俺たちで協力し合ってそいつ等を片付けてる。何、やつらは脆い、すぐに崩れるから簡単なんだが、やっかいなのは来訪者の方だ。偶にこの部屋に勝手に同調して入り込んでくる奴等が居るんだ。支離滅裂で焦点の合わない目をした大人や半分死にかけの人間なんかがそれだよ。やつらを追い出さないと多分俺達は大変な事になる。残した事が無いからな。正直どうなるかは解らないんだが」
「うちらはそいつ等をやっつける力があるんよ。那っちはまだ解らないけど。うちや夕君には強力な力がある。それを使ってなんとかこれまでやってきたんよ。うちは昼間も結構自分の部屋に来られるから。あれこれ好きな事しているんやけど、昼間アレ見た事はないから安心や」
うんうんと、一人でうなずく名瀬さん。
「こちらの事は向うの人間には話していません。自分もこの事だけは話そうとは思いませんし。入間君もここの事は黙っていてくれると信じています。向うの人間、特に特別学科の先生たちには気をつけてください。特に加賀見梓先生はまずい。彼女は特別学科寮の寮母、紅葉さんの妹ですが紅葉さんと正反対のような人なのです。僕等をあまり好ましく思ってはいない。ただの実験道具、その程度にしか思っていません」
そう言う阿須磨君の瞳は暗い色をたたえていた。三人に一度に多面事項を説明されて混乱しそうだったけれど、恐らく皆本当のことなのだろうと受け入れる事しか僕にはできない。僕はここでは完全に出遅れた初心者でしかないのだから。
「大丈夫、怖くても私の背中に隠れておけばよいですよ」
安心感を誘うようなやさしげな声で相模さんがそう言った。
「来訪者は私の部屋にしか訪れない。皆が私につきあってくれている、それはとても感謝すべき事。君にも強制はしない。皆がいなかった頃、私達はなんとか三人で来訪者を撃退できていた。手を貸してくれるのなら嬉しい」
舞さんが上を見上げて言う。
「僕が役に立つのならなんでもします。けれど何の役にも立てないかもしれない。それでもここでは僕は皆の力になりたいです」
僕がそういうと舞さんは僕の眼を見てはじめて笑った。僕は何故か解らないけれど、心の底の何かの衝動に押されていた。懐かしい記憶、懐かしい感情が蘇って、すこし胸の辺りが暖かくなった。そんな気がした。
気がつくと光の筋が僕等を照らしている。その先を見ると、部屋の中間付近に光点が現れ始めた。
「時間か。今日は早いな。今日は一日目だから那世が同調に時間がかかってしまった。しかたないか。また学校で会おうぜ。じゃあ、自分の部屋に戻るんだ」
そう言われたので僕は出てきた部屋に戻ることにした。後では、明日また会おうねと陽さんが思い切り手を振っていた。光源が徐々に広がり眩しさが増しはじめていた。ドアにたどりついて部屋を開け、ドアを閉めると視界が狭まり、僕の意識は暗闇の中へ落ちていった。