Room20 体の痛みと心の痛み、残された空の箱
「なあ那世、俺は、間違って無かったよな。立ち向かったんだ、俺自身の影に。今までの事は取り戻せない、だが、あいつを倒す事で俺は立ち直れたはずなんだ、そうだよな」
伊勢君は部屋で僕の膝に頭を乗せて横になっていた。今回の事で精神が擦り切れたのかもしれない。疲れ切った顔、徐々に瞼が降りてきている。
「お前のお陰だよ那世、お前が居たから俺は立ち向かえた。もう一度あいつに会えれば俺は本当の自分を取り戻せるはずなんだ。もう一度…… それにしても、眠い。既に夢の中なのに何でこんなに眠いんだ。なあ、那世。俺、大丈夫かな。眠いなんて台詞、ありさだけの特権だと思ってたんだ、それなのに、俺消えちまうのかな」
僕には解らなかった。もしここで伊勢君が眠りについたら二度と会えなくなるかも知れない。けれど今の僕はそんな考えを否定したかった。
「大丈夫です、大丈夫ですよ。僕が傍に居るから。伊勢君は急な戦いが続いて疲れただけですよ。少し休んで下さい、起きたらまた元気な伊勢君に戻れる。そのはずですから」
「そうだ、なあ、那世。俺の手を握ってくれないか。お前に手を握られていると安心できるんだ、きっとまた戻って来れると思えるんだよ」
伊勢君はそう言って僕に手を伸ばす。僕は頷いてその手を握ると安心したのか笑顔を浮かべた。
「那世、直貴は俺を許してくれるだろうか。あの時、親父に向かうんじゃ無くて、直貴を守ってたらまた違った結果になったのか、直貴を助けられたのかな。お前は直貴じゃない、だけど、謝らせてくれ。今のうちに謝っておきたいんだ」
「僕では代役なんて務まらないかもしれません、けれど、それで伊勢君の気持ちが晴れるなら」
「いいんだ、俺はお前にも謝りたいから。那世は直貴じゃない、でも俺は確かに重ねて見てた。だからお前を助けたんだと思う。もし俺に弟がいなかったら那世を守る行動には出なかったかも知れない。だからさ、謝りたいんだよ。ごめん、ごめんな、俺が弱かったばっかりにお前らに迷惑かけた、謝る、恨んでくれていいから」
伊勢君の手に力が入り、僕の手の平を硬く握り締めた。僕には伊勢君の苦しみは解らない、けれど、少しでもいい、僕の言葉で伊勢君の気持ちを楽にしてあげられたら、そう思った。
「僕は恨んでなんかいませんよ。きっと直貴君も伊勢君の事、恨んでなんていないはずです。なぜなら伊勢君は、しっかり直貴君を救おうとしたじゃないですか」
すぐに僕の膝が何か暖かなものが伝うのを感じた、すると何故だろう、伊勢君の目から涙がこぼれていた。現実でも感じたことの無い暖かな流れを、僕にはとても懐かしくて、大切なものに思えた。
「ごめんな、ありがとう、嘘でもいい、その言葉を聞けて楽になった。少し疲れた、眠るよ。ありさにあったら伝えといてくれ、偶には眠る事も悪くない、馬鹿にして悪かったってさ……」
そのまま目を瞑ると伊勢君の体は徐々に透明に変わって行く。握っていた手の感触が徐々に失われていく。
「これは、一体…… 伊勢君、体が、駄目だ、起きてください」
僕は必死に片手で伊勢君の肩を揺すったけれど、伊勢君が再び目を開ける事はなかった。やがて、その存在そのものが空気に溶けるようにして薄くなっていく。同時に僕の中に渦巻いていた暖かな気持ちと感情が急速に冷めて失われていくのを感じていた。最後に僕は伊勢君の手の平が僕の手の上から消えた時、その手の平を硬く握り締めた。伊勢君はこのまま消えた訳じゃない、かならずまた会えるはずだと信じよう。
僕以外誰も居ない部屋、そこに僕は暫くの間佇んでいた。待っていればその内伊勢君が現れてくれる、そう思った所もある。けれどその理由の殆どは喪失感が余りに大きすぎて立ちすくんでいただけなのかも知れない。結局僕は伊勢君を救えなかったのだろうか、そんな事ばかりが僕の頭の中を掠めて抜け落ちた部分を大きなものに変えていく。初めて感じるこの感覚は僕にはとても重く、すぐには受け入れる事が出来なかった。
けれど、まだ伊勢君を取り戻す事が出来る、あの影に会う事で、あの影を倒す事でまた伊勢君に会える、そう信じて僕は先に進む事を決めた。ここに留まっていても、きっと伊勢君は戻ってきはしない、それにこの部屋に居続ける事を望まれていない、そんな気がしたんだ。部屋の壁際まで歩くと伊勢君に向けて何も無い、真っ白な部屋で一礼する。
「伊勢君、必ず迎えに行きます。少しの間だけゆっくり休んで下さい」
それだけ言って僕は握り締めた片手の平をそのままに、もう一つの手で部屋のドアノブを握り扉を開けた。
ドアを開けるとすぐに部屋の形が崩れ、ドア向うに僕は飛ばされるようにして吸い込まれた。その先には陽さんが居て僕を見つけるとすぐに走って向かってきた。後から月さんもついてきている。僕がすぐに舞さんが居ない理由について尋ねると、舞さんはどうやら検診中らしく、こちらに意識を向けることができないのだと陽さんが説明した。
「那世ちゃん、ずっとドアの先に居たの? 何か有ったのかな、まだ自分の体には戻れていないんでしょう?」
陽さんにそう聞かれ、僕は一度俯き、伊勢君の笑顔を思い浮かべる。
「陽さん、僕は、正しかったのでしょうか? 伊勢君が、消失してしまった…… 居なくなってしまったんです」
僕の言葉を聞いて僕をただ見つめ続ける陽さんは、後から辿り着いた月さんとこれまでの成り行きを語る僕に対して黙って耳を傾けていてくれた。
「あたしには夕貴がどうなってしまったのかは解らない。だけど、話を聞く限り、那世ちゃんが間違った事をしたとは思わないよ。夕貴だって感謝してたんでしょ。きっとなんとかなるよ、信じなきゃ。それよりも、ごめんね那世ちゃん。あたしは今は夕貴の事より君の事の方が心配。もう随分体に戻ってないでしょう? 那世ちゃん、あれからどれだけの時間が経ったか解ってる? もう30時間だよ。そろそろ体に戻らなきゃ」
そんなに時間が経っていたなんて思いもしなかった。けれど、すると伊勢君の意識も同様に戻っていないのではないだろうか?
「伊勢君の体は、それにあの男性は大丈夫だったのですか?」
「うん、その二人の心配はいらない。あの那世ちゃんを襲った男はもう回復に向かっているみたい。それに夕貴の体も問題はないみたいだよ、只二人とも意識は戻らないようだけど。それより遊世ちゃんも学校抜け出してまで連れ添いに来てくれているんだからそろそろ意識の戻る所を見せてあげないと、可哀想だから」
「遊世、まだ居るんですか、そんな。遊世、僕のためにそんな事までしなくて良いのに」
陽さんは僕の言葉を聞き流すように僕の手を無理に引いて逆側の壁際まで連れて行った。月さんも静かに僕の背中を押して歩いている。僕が彼女の顔を下から見上げると、髪をかき上げ、瞳を覗かせて僕を見つめ、僅かに口元を笑わせた。その瞳には、何故か強い意思がこめられているような、そんな気がした。
やがて壁際まで辿り着くと、僕は開かなかった扉がそのまま壁に残されている事に気がついた。
「そうなんだ、那世ちゃんがこの部屋から出て行った後も扉は消えなかったんだよ。あたし達にも結局空けられなかったけれどね。ねえ、もし、この扉を開けて向こうへ戻ったとしても、もう無理はしないと誓って。君の体はそんなに強くないよ。痛みを感じないからって無理を続けてたら本当に危ない。那世ちゃんはもっと自分の事を大切にしなきゃだめ。夕貴は大丈夫、あいつはさ、そんなに簡単にやられちゃうような奴じゃないから。でもね、那世ちゃんは違うんだよ。君の体はとても弱いんだから」
扉の前で陽さんは僕に言い聞かせるように肩を抱いてそう言うと、続いて間隔を開けずに後から月さんが僕に声をかけた。
「わたくしも、ずっと痛みに、耐えてきました。外での、痛みの、担当は、わたくし、でしたから。わたくしも、那世様と、同じ。心と身体、両方の痛みを、感じる、その方法を、ずっと忘れて、しまっていました。かつての私は、何も感じない、人形。このように、話す事も、見る事も、聞く事も、考える事ですら、放棄して、おりました」
陽さんは一度軽く体を竦ませると、月さんの顔を覗き込んだ。
「月は那世ちゃんの前だと急に口数が増えるね、急に話し出すとびっくりするよ全く。でも、それは本当の話だよ。あたしも人形だった頃の月を知っているから。何日も話しかけてやっと少し話してくれるようになったんだ。それまでは部屋の隅でずっと固まったまま動く事もしなかったんだよ。でも、月の気持ちも解る、辛い所だけ月が担当していたから、あたし達の都合に振り回されたくないものね」
月さんは陽さんの隣まで移動すると顔を見て、それは違うと左右に首を振る。
「それは、違うのです、陽。その頃の、わたくしは、心が無かっただけ。ただ痛みに耐える事、それが、わたくしの、役割だった。けれど、わたくしは、こうして、わたくしたち、三人と話し合える事が、可能になってから、ずっと、人形である、必要は無いと、知る事が、できたのです。人形であった、わたくしは、生きる事、死んでしまう事、それらも、どうでも良かった。先程の、御話の中の、伊勢様の、状況が、わたくしには、とても、良く解ります。しかし、わたくしの、意識は、体から、離れる事は、無かった。わたくしの、世界は、始まった時から、終わって、いたのです。意識が、体に降りた事を、認識し、虚ろな、視界の中、衝撃や音に、ただ耐える。わたくしは、それだけの、時間の、中でしか、存在、できなかった。わたくしになど、感情は、必要が、無かった。けれど、それは、間違いだと、知ることが、できたのです。わたくしは、一人では、無かった。人形で無い、わたくしを、見て、触れて、話しかけて、一人の、人格として、認めてくれる、存在がいる、それを知った時、痛みも、感情も、わたくしには、必要な感覚なのだと、私は知ったのです」
伊勢君も月さんも、どうやら暴力に曝される事でそういった感覚に陥ったのだろう。確かに僕も痛みを感じることはできなかった、体も心も同様に無痛だった。けれど、皆と触れ合う事で色々な感覚を取り戻しつつある、今ではそう思っている。僕も月さんや皆と同じように、完全に人の心を取り戻す事ができるだろうか。
「今でも私は、肉体的な、痛みを、那世様と、同様に、感じる事が、できません。けれど、心の痛みは、感じる事が、できます。ですから、わたくしは、あなたの、気持ちが、とても良く解る。わたくしは、舞や陽の、為なら、どんな事も、できるでしょう。けれど、那世様の、行動を知って、わたくしの、心が、とても疼くのを、感じたのです。それは、陽を、失った時と、同様の、疼きでした。わたくしは、那世様には、消えていただく、訳には、行きません。これまでは、陽と舞の、ためでした。けれど、今は、わたくしは、言えるのです。わたくしの為にも、那世様には、消えて欲しくは、ありません。ですから、どうか、わたくし達の、思いを、無駄には、しないで、欲しいのです。伊勢様の、事ならば、心配はないと、わたくしは、思います。わたくし達には、外では、得られない、心の、繋がりが、有るのです。わたくしには、伊勢さんの、心の形を、感じる事が、できます。伊勢様の、精神は、確かに、わたくし達の、近く、どこかに、いらっしゃいます、消失しては、いません。わたくしを、どうか信じて、下さい」
僕は月さんの瞳を見つめ、頷いた。自分をもう少し大切にするべきか、こんな僕が必要なのだろうか。僕の代わりなんて幾らでもいるのに。それよりも、伊勢君の精神が僕達の近くに、本当にいるのだろうか。僕は硬く握り締めた手を開いて伊勢君の手の感触を、伝った涙の温かさを思い出し、近い内に必ず又会おうと誓った。
「月、ごめん。あたし達じゃ月の気持ちは本当には解ってやれないみたいだね。けど、那世ちゃんのお陰であたしも月の気持ちを知る事ができたよ。那世ちゃん、有り難う。こうやって月の気持ちを吐き出させてあげられるのは那世ちゃんだけみたい。あたしの気持ちも月と一緒だよ、言いたい事は全部言ってもらった」
「引き止めて、しまいました、ようで、済みません。わたくしは、どうしても、伝えない、訳には、いかなかった、のです。さあ、お戻り、下さい。わたくし達の、他にも、那世様を、待って、いらっしゃる、方達は、沢山、居るの、ですから」
月さんが全てを話し終えると、二人は扉を中心に左右に分かれて僕に戻れと合図をする。
「次はすぐ外の世界で、だね。あたしもそろそろ那世ちゃんの姿を現実で確認したいよ。この所あたし達に問題が多くて、那世ちゃんの病室にも行けていないんだ。というより、紅葉さんや先生達から許可が下りないだけなんだけどね。悔しいけど仕方ない、すぐに会える事を期待してるけど、無理はしないで」
「那世様、また、どこかで、お会い、しましょう。一先ずは、お体を、御大事に、なさって、下さい。伊勢様の、事でしたら、わたくし達で、また、話し合いたいと、思って、おりますので、ご心配、なさらないよう」
「そうそう、たまにはあたしら頼ってよ。それじゃ、またね」
二人はそう言って僕の背中を押してくれた。
「そうですね、ありがとうございます。またすぐに、皆で伊勢君にも会いに行きましょう」
僕は開かなかったドアノブを握る。伊勢君の手の平を握り締めたその手で、するとあれほど硬くて開かなかった扉が簡単に開いた。その先にはとても久し振りに思える、僕自身のパーソナリティールームが存在していた。何も無い真っ白な部屋、誰も居ない、影もいない部屋は伊勢君を失ったあの部屋によく似ている、そして部屋の広さもかつてより、少し広くなっている気がした。何故だろうか、徐々に僕の部屋が広がってきている? 陽さんと月さんは部屋の外から手を振っていた、やがて扉が閉まり、ドアの姿が壁
に溶け込むようにして消える。すると、とても遠くから僕の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。
お……ちゃんが、意識が……ってきて…な……ん……なせく……
それはとても懐かしい声で、その声を聞いている内に僕の意識は静かに沈んで落ちていった。
「那世君…解る? 遊世だよ、私の事ちゃんと見える?」
そうか、これは遊世の声だ。僕はそれを思い出すと思い瞼をどうにか開いた。何か口の中がとても乾いている。ぼんやりとぼやけた視界、その先に制服を着た遊世の姿が徐々に浮かび上がってくる。遊世は僕の顔を真上から覗き込むようにしている。横目で体を辿ると、ベットのシーツに両手を僕の頭の左右についている。滲んだ涙が粒になって僕の頬に落ちる、けれど落ちた涙の衝撃は僕の体には伝わらなかった。
「遊世、どうしたんだ。大丈夫、僕は大丈夫だから。遊世は僕の事なんて心配なんてしなくていいんだ」
僕がそう声に出すと、その声は喉が乾いているせいだろうか、とてもしゃがれていて自分でも聞き取り難かった。
「心配しないなんて無理だよ。駄目だよ那世君、折角病院にいるのに、もう怪我なんてすること無いって、そう思ってたのに。私、心配したんだ、こんなのないよ」
「いいんだよ、それより遊世、学校行かなきゃ駄目だ。僕みたいな奴のために休んじゃお前のためにならないじゃないか」
折角面倒な僕の相手をしなくて済むのに、遊世は何故そんなに僕に付き合うのだろうか。そう言えば、折れた歯は入れ替えて貰えたらしく、言葉を表現する事には違和感を覚えなかった。僕の歯は既に全て差し歯だったので、折れたとしてもすぐに代用が利く。けれど今入れられている歯はどうやら仮の歯のようで、後から少しだけ違和感を感じてきた。と同時に、顔の周りにも包帯やテープが沢山張り付けられている事に気がついた。腕には針が差し込まれ、点滴の袋の姿が視界の端に映っている。どんな状態なのだろう、少し鏡を覗いて顔を確認したい気がした。
「那世君は私のたった一人の家族なのに、心配しない訳無い!」
遊世は表情を険しくすると唇を噛んだ、僕が目を逸らすとベッドに置いた両手の指が硬くシーツを握り締めていた、その手がシーツから離れると僕の頭を両手で持ち、真上に僕の視線を合わせ、遊世は顔を近づけて額を僕の額に重ねた。
「駄目だよ。那世君、私寂しいよ」
遊世が僕を必要とするはずなんて無い、僕はそう思っていた。これまでもずっと僕の味方をしていてくれたけれど、僕なんて重荷でしかなかったはずなんだ。だから、僕はあの家から離れた、それなのに何故そこまで。そう考えているうちに靴音が響き、徐々に僕の病室に近づいてくると、僕のベットの周りのカーテンを開く音がすぐに追ってきた。どうやら僕の病室に誰か他の人物が入ってきたみたいだ。
遊世は音が近づくのを確認してすぐに顔を上げて後を向くと、腕で目を隠していた。病室に入ってきた人物は僕よりも先に遊世を見つけたようで、その行動を確認して何か思い当たったのか声をかけた。
「遊世さん、どうかしたのですか? 泣いているのでしょうか、大丈夫ですよ。きっと入間君は近い内に意識を取り戻すはずです。同時期から意識を失っていた伊勢君も先程、意識を取り戻したのですから」
その声は三森先生の声で、確かに言った。一瞬にして頭の中に何も無い白い部屋の姿が浮ぶ。あの時消えてしまったはずの伊勢君の意識が、何故僕よりも先に体に戻れたのだろうか。