Room2 心の箱と6人の持ち主
「舞ちゃん、だろうか?」
先生が彼女に向かってそう言うと。彼女はびっくりしたように頬杖を崩し、後ろに縛っている髪が揺れた。その後すぐこちらに顔を向ける。そして驚いたふりをしてみせる。
「三村先生ですか。あれ?その子は」
「三森だよ私は、君は故意に間違えているふりをするね。なんだか傷つくな」
三森先生を無視して、僕を見つめる彼女。僕は何だか落ち着かない気持ちになる。また色々な揶揄を受けるのではないかと身構えてしまう。
「もしかして例の新しい編入生ですか?」
「そうだよ、良く解ったね。とは言え、君達には入間君の事を事前にある程度知らせていたからな。解って当然か」
「ちなみにあたしは舞じゃなくて、陽ですよ。先生」
「はは、あまりいじめないでくれ、私もまだ君と会って日が浅いからね。話せば解るが、見た目だけではどうにもね。許してくれるなら私が今、ここで好きなものを買ってあげるよ」
「ここの食堂の食べ物なんて私にはなんでも、ただみたいなものじゃないですか」
そんなやり取りがされて二人で笑いあう。事情がわからない僕はなんだか置いていかれている様で余計に落ち着かなくなる。すると彼女が僕に向かって手を伸ばして握手のポーズをとった。
「あたしは鳳舞って言います。君、かわいいね。よろしく!」
「僕は入間那世と言います。これからご迷惑おかけするとは思いますが、よろしくお願いします」
僕は初対面の人に向かってはどうしてもかしこまった口調になってしまう、これが僕の外面なのだ。僕の本当の歳を理解してもらうための背伸びでもあるのだけれど。
そうして彼女の手を握って、彼女の瞳を見つめた。
「なんだか想像していた子とは全く違ったなぁ、中身はやっぱり大人びてるんだね」
彼女は笑って、話し方があわないなぁなどと呟く。
「入間君は事情を知らないですから、陽ちゃん。君から説明してやってほしい」
「なんだか、あたしだけ先に挨拶なんてちょっと照れるね。まあ、いずれ自己紹介しなきゃいけない訳だし、先にしておいた方が楽かな」
それじゃ、と一呼吸置いて。
「私は鳳舞。だけど陽でもあるの。あたしのような病気の人たちの事を世間では解離性同一性障害って呼ぶみたい。俗称では多重人格、なんて呼ばれているけどね。私個人としてはあんまりその呼ばれ方は好きじゃないんだな。それを言ったって仕様がないんだけどさ。とにかく、私の中には私以外にも舞と月って奴が居るのよ。みんな女の子って事が救いだね。でも、ちょっと前にはあたしの中にはもっと沢山の子達が居たみたいなの。あたしは覚えてないんだけど。まあ、その辺の事は舞に聞けばいいわ。彼女がホストだから。ただ、今は無理。ここの食堂では顔を出したくないってさ」
そんな事を言って眼を閉じて両手のひらを水平に胸の位置まで挙げて上下させる。
今度は僕が自己紹介すべきだろうかと思って口を開こうとすると彼女は僕の口を手のひらで塞いだ。
「君の事は先生達からある程度では聞いてるよ。口にしづらい事でもあるからあたしは無理に聞こうとは思わない。それにここには部外者が多いでしょ。あたし自身はあまり、病気だって自覚が無いから気にしてないけど。舞は結構気にするから。他の皆もあまり話したがらないかもしれないけど、追々解ってくるだろうから。君の自己紹介は後のために取っておかないと」
彼女は僕の顔の高さに自分の顔の高さを合わせて言った。
「あたし達は入間君の仲間だよ」
僕はそれに何と返していいのか分からなくて、視線を下に向けて。ありがとうございます、とだけ返す事しか出来なかった。突然先生が立ち上がって。
「さて、そろそろ何か食べさせてあげないと入間君が死んでしまうか」
「それじゃあたしも先生に何かおごってもらわないと」
鳳さんも立ち上がって僕の手をつかむ。もう片方の手は三森先生がつかんで、じゃ、行こうかと僕をひっぱるのだった。
僕のテーブルの前にはうどんが置かれていた。僕は先生に何もいりませんと言ったのだけれど食べなきゃ駄目だよ、と勝手に買われてしまったのだ。僕の横には鳳さんが座り、美味しそうにチーズケーキをほおばっていた。先生はそれを薄目で面白そうに見ている。楽しいという気持ちはこんな感じなのかな、とぼんやり昔を思い出す。けれど今の僕にはどうしてもそれが実感できないのだった。
強引に喉にうどんを押し込めるのだけれど、半分程度で僕はギブアップしてしまう。それを見た先生は器ごと自分の前に引き寄せて、残ったうどんを勿体ないなとすぐに平らげた。僕は実は先生が一番おなかが減っていたんじゃないかと、そう思った。
「なんだか、意地汚いですね。先生ご自分で食べたかっただけじゃないですか?」
と鳳さん、
「私は食べ物は無駄にしたく無い性質なのです、むしろ君たちの世代が食べ物を無駄にしすぎなんですよ」
と笑いながら言う。そして二人とも立ち上がり僕にそろそろ教室に行こうか、と話しかける。僕も椅子から立ち上がり、食べ終えた食器をカウンターに片付ける二人についてゆくと急に振り返り、
「「さて、そろそろ我等が特別学科、開講の時間ですよ。気楽に行こうじゃないですか」」
と二人同時に同じ言葉を僕に伝えた。
驚いた顔をした先生が鳳さんを見つめると、
「先生、毎回同じタイミングと同じシュチュエーションでその言葉使っていて飽きないの?」
と笑うのだった。
ふと、食堂の壁を見上げると、この施設内の地図が描かれたプレートが張り出されていた。蘇波大学附属病院の敷地内には病院棟、大学棟、附属高等学校棟がある。施設内の地図を見てもらえれば解るのだけれど400ヘクタールもの広い敷地の一部に丁度上から見たら円形に見えるような配置で三区画が作られていた。それぞれの建物をつなぐ渡り廊下が緩やかな曲線を描いて作られていて、中心にはグラウンドと公園が作られているようだ。学校側にはグラウンドが、病院側には公園が配置されて作られている。
建物をつなぐ渡り廊下の中心にも食堂や売店、運動施設なども作られている。僕がいま食事してきたのは大学棟と病院棟の間の食堂。その他にも三区画外に学生寮や図書館、薬事研究施設、薬品工学工場など色々な施設が建てられている。僕が今歩いている広い三区画ですら、全体の中の一部でしかないのだ。ここだけで広すぎるくらいなのにそれらの位置を正確に覚えられるだろうかと不安になった。
僕はあれから二人に食堂から特別学科教室までの道のりを、歩きながら説明されたのだけれど全く覚えられなかった、という理由からなのだ。唯一解ったのは大学棟を抜けて特別学科教室へ向かうより病院棟をぬけて向かったほうが近いのだと言う事実だけ。簡単だからと言われても、いくつかの廊下を折れ、いくつかの扉を抜け、やっと辿り着いたという感覚なのだから、わざと解りにくいルートを選んでいるのではと思わされる程に難しい。先が思いやられるな、と密かに僕は思うのだった。
特別学科教室は附属高等学校棟と病院棟の間の中間辺りにあった。渡り廊下から少し外に出て、敷地を囲む塀と植えられた木々の間にぽつんと浮いている四角い箱、そんなイメージの建物だった。
「これは元々、この施設の管理側の人間が使うはずの施設だったんですよ。警備施設とでも言いますか、けれど結局他にもっと大きな建物が作られる事になりましてね。ですから位置関係の利便性もかねてここが特別学科教室になったと言う訳です」
先生がそう説明する。
「それじゃ、いこっか」
そう言って鳳さんが僕の手を引いて建物の金属製の扉の横にあるカードの差込口にパスカードを入れた。鍵がはずされるような電子音が扉の中で聞こえてまもなく、扉がスライドする。
「皆、こんばんは!」
鳳さんがそう言って僕を中へ引っ張りいれて、後から先生も続いて入った。中の様子は正に教室だった。よく見かけた椅子、よく見かけた机が6つ、サイコロの目の様に並べられ、置くにはホワイトボードが据え付けられている。その前に教壇すえてある。教室の中には今入ったばかりの僕等の他に4人程の男女が存在してそれぞれ机に落ち着いている。
「期待の新編入生の入間君。みんなよろしく」
鳳さんが僕に手を振って。教壇から見て右前の椅子に座る。
「私の説明をどうやら省かなければいけませんね」
三森先生が僕を空いた席に座らせると教壇に立つ。
「では、少し皆で自己紹介をしましょうか」
僕等の付き合いはここから始まった。
教壇の前の6つの席、僕が座るのは教壇左前の席だ。隣はなんだかとても眠そうな眼をして今にも落ちてしまいそうな女の子、そのとなりは鳳さん。僕の後は片側だけ髪をのばして顔の右側だけを隠している男の子で、真ん中後の席は黒髪で長髪、長身の女の子。右腕に小型のキーボードのような物をつけて、首の下にはマイクのようなものがついていた。最後の席、右側後にはスポーツマンのような逞しい体つきをした短髪の男の子が座っていた。誰もが高校生、歳相応のスタイルなので僕は少し残念に思った。少しでも僕と似た人物が存在するのなら気が楽なのに、と。
「それでは阿須磨君からお願いします」
先生がそう言うと僕の後の男の子が立ち上がり自己紹介を始めた。
「自分の名前は、阿須磨只由です。自分は視覚恐怖症、心因性視覚障害等の病理を抱えています。自分は他人の目が怖い、だけれど、ここの皆の目は怖くない。だから安心していられる。自分は君の目線にも耐えられると思う、仲良くして下さい」
それだけ言って座ってしまう。
次に隣の女の子が立ち上がり、右腕の小型キーボードをすばやく左手の指でたたいた。すると人口音声のような声が首のマイクから流れ出した。
「ワタシハ相模尋ト、イイマス。ワタシハ失声症トイウ病気デ、コウシテ、人口音声ノツクラレタ声デシカ話ス事ガデキマセン。ダケドソレヲ気味ガ悪イナンテ思ワナイデ下サイ。私モアナタノ事ヲソンナ風ニ思イタクナイカラ」
それだけ打ち込むと、僕に笑いかけてから椅子に座った。
短髪の男の子が立ち上がる。
「俺は伊勢夕貴って言う、俺は解離性障害、離人症性障害って病状だ。俺達は誰もが今まで周りの奴等に抜け者にされて、影で色々言われたり、馬鹿にされて来たりしたと思う。でも俺は信じたいんだ。おかしいのは俺たちじゃなく、周りに居たあいつ等だったと。だから、心配する必要は無い。俺達は仲間だから」
そうして、うなずいて彼は座る。
僕は彼等の言葉を聞いて、今まで考えていた想像を恥ずかしく思った。僕の想像は精神病の人達はもっと言葉も支離滅裂で、通常会話なんて成立しないようなものを想像していたから。もちろん僕も例外ではなく、やはり会話にこれまで溶け込めた事なんか無かったから。
僕の隣の女の子は虚ろな眼でいるので次に立ち上がったのは鳳さんだった。彼女は後で縛った髪を解くと、
「私は鳳舞です。先ほど陽が説明したと思いますけれど。私は解離性同一性障害。今は私の中はたった三人だけですが、一年前には私の中のパーソナリティ(人格)は15人も存在したようです。私自身はそれを忘れてしまった。今は私の中の陽と月に支えられる事でやっと生きていけている、そう認識しています。先生は私が不安定になるとパーソナリティの分裂が起こって現在のバランスが壊れるのではないか、と言いました。私は、今の私の中の二人を失いたくない。ですから、この教室内ではお互いを傷つけあうような事は止めましょう。それだけが私の願いです」
彼女はずっと前を向いたまま、そうはっきりとした口調で言った。きっと今の鳳さんは食堂に居たときの鳳さんとは別人なのだという事がはっきりわかるような、そんな変化だった。
気がつくと三森先生が名瀬さん、起きて下さい。今は必要な時間なのですよと呼びかけながら僕の隣の女の子を揺すっていた。彼女が目をこすってようやく立ち上がると、先生は自己紹介ですよ、と釘をさすように言って教壇に戻った。
「うちは名瀬ありさといいます。うちの病気はナルコレプシー、眠り病なんやけど。どうやら心因性とか、ちょっとややこしいものらしいです。この病気、眠気が急にやってくるんやけど、今日はごっつ激しいなぁ。編入生が小学生なんてまだ夢の中かしらん?」
彼女はそんな事をいって、すとんと椅子に落ちるようにして座る。そして頭を両手で抱えてあかん、ねむい、ねむる、と呟きながら左右に振っていた。
こうしてようやく僕が挨拶の運びとなった。頭の中は少し混乱気味だったけれど、僕はいつものとおりやるだけだと、そう思った。僕には自分の症例を隠す事の意味が感じられない、何故ならそれは無意味だから。一目でわかってしまうことを隠しても仕方ないのだ。それと僕がこれまでずっと言いたくて言えなかった事を、この機会に言ってしまおう。僕にはもう、ここにしか機会が残されていないのだから。
「僕は入間名瀬です。僕の病気は外見ですぐに解っていただけると思うのですが、心因性成長障害という症状です。僕は9歳の頃、事件に巻き込まれたショックで成長という生理現象から外れてしまいました。実年齢は17歳なのですが僕の外見はあの頃と全く変わらないんです。このままの体では僕は後2年、生きられないかもしれないとある先生に言われました。その間に僕は友達が作ってみたいです。短い間となるかもしれませんけれど。もしよろしければ、僕の友達になってくれませんか」
僕が5人のクラスメイトに向かってそう投げかけると、席から立ち上がり、4人は手を伸ばして僕の手を握ってくれた。何故か皆悲しい顔をしていた。
あとの一人、鳳さんは
「私の握手は陽が食堂で済ませてしまったから」
と前を見つめたまま呟くようにいった。
「うん、皆良い自己紹介だったよ。私も見習いたいくらいだ。だか、今日はこの後予定があってね、君達に親睦を深めてもらいたいところだがそれが出来なくて残念だ。それでは入間君にはこれから寮の紹介をしなければならないから、私等は先に上がらせてもらうよ、もう少ししたら加賀見先生が来るだろう。適当に自習しておいてくれ」
先生が眉間を指で押さえながら急にそんな話をする。できれば僕はそういう事は検査の前にして欲しかったと思うと、
「すみません入間君、今日の夜から君には試薬の試験を受けて貰わなければなりません。その為の検査を昼間済ませた、と言うのが正直なところなのです。でも安心して下さい。現在君達に使われている試薬はとても安全性の高いものなのです。なぜならここにいる皆が既に使用してその有用性を証明しているものですからね」
それを聞いて、結局僕等はモルモットのような実験用の素体でしかないのだなと僕は思った。
こうして僕と先生は病院棟へ戻り、試薬を受け取ると早速寮へと向かう。病院棟の出入り口を抜け、敷地内の小道を暫く歩くと、200メートル先ほどに寮のような施設が見えてきた。結構な大きさでそこだけで30人近くは暮らせるんじゃないかと思えた。それがなんだか近代的な建物で見た目はまだ新しく、こんなところに住んで良いのだろうかと恐縮してしまった。
「ちなみにここもパスカードが無いと入れないのですよ、つまり君に昼間あげたパスカードは非常に重要なものなのです。無くさないように気をつけて下さい。とは言え、ここには管理人のお姉さんが居ますから。彼女と仲良くできれば入り込むのは簡単ですよ。そうそう、君達特殊学科の生徒は皆、この寮に住んでいます。ちょっと広すぎるのが難ですけれどね。その内もっとメンバーが増えるかもしれません」
先生はそんな事をいいながら苦笑している。
教室から出る前に伊勢君が今日の夜、また会おうな、と言っていたので寮が同じなのだろうか、と予測したけれどどうやら間違っていなかったようだ。
「君達は非常にデリケートな精神状態にありますからね。もちろん各部屋には内鍵もついている。と、これは私が説明する事ではないですか。後は適当に寮母さんから聞いて欲しい。恐らく話は通っているはずですからね。それと必ず試験薬は飲んでおいて欲しいのです。明日の昼、また検査をしてもらう事になると思いますから」
寮の前でそんな話をしていると、突然寮の扉が開いて中から茶色い髪の20代後半くらいの女性が飛び出してきた。
「おっと、寮の前で変な奴が居るなと思ったら、三森先生じゃない。とすると、君が入間君かな。お姉さんの事は紅葉さんと呼ぶといい。うん、君、悪くないよ。悪くない」
「おっと、じゃないですよ加賀見さん。寮の前で待ち合わせしたはずでしょう。全く、彼方はいつも時間にルーズすぎるんですよ」
「いやいや、紅葉さんは大物なんですよ。だから時間なんて気にしないんです」
どうやら、この施設内には変人が多いのかな、と少し心配になった僕だけれど。普通な人達よりは変わった人でないと、こういった寮の管理は出来ないのかもしれないな。と、納得した。
「それで、三森先生。この子は紅葉さんが貰って良いのかな?」
なんて寮母さんが言い出す。
「勘違いしないで下さいね。これはこの人特有の冗談ですから」
「妬いてるのかな?三森先生もなかなか分かりやすいね。大丈夫、紅葉さんは先生にぞっこんですから」
「つ、付き合いきれませんよ。お手上げです。後は加賀見さんにお任せしますよ。入間君、疲れるでしょうが暫くの辛抱です、明日また会いましょう。それでは」
三森先生はそれだけ言って足早に立ち去ってしまった。少し、無責任じゃないですか?先生。それより、僕はまだ寮母さんに一言も話していませんが。
「さて、邪魔者が居なくなったね。入間君。ここは紅葉さんにまかせなさい」
「あの、僕は今日からここでお世話になります入間 那世と言います。よろしくお願いします」
「ああ、そう言えば君の声、まだ一度も聞いてなかったね。ごめんごめん。私はせっかちだからな。ふむ、やっぱり君は17歳なのだよね。確かに珍しい、君みたいな子は他に症例も見た事が無いものな。紅葉さんもびっくりだよ」
全く驚いている様子には見えないのですが。
「あの、気味が悪いと思いませんか?僕の事を見て」
「君は過敏になりすぎているんだよ。でも、それは仕方の無い事だね。紅葉さんはこれまでもそういった子を沢山見てきたから知っている。悲しい事さ。だから君が気持ちが悪いなんてちっとも思わない。むしろ、可愛いよ」
そう言って紅葉さんは片目を閉じて見せた。可愛いといわれても僕としては反応に困るのだけれど。
紅葉さんに寮の中を案内してもらった後、僕はこれから使う事になる部屋へと連れて行ってもらう。この寮は三階建てで、一階は食堂と共同の風呂。二階には7つの部屋があり、建物の片側に七つの部屋が並んでいる。各部屋にはシャワールームとトイレがついていて、風呂は使わなくて済みそうだった。僕は体の傷を見られたくないんだ。3階も同様の配置で部屋が並んでいるらしい。僕の部屋は2階の奥から5番目の205号室だった。部屋の中には僕の叔父が送った荷物入りのダンボールが二箱ほど積み上げられていた。それを見て紅葉さんが随分少ないね、君はもっと物に頼らなきゃ駄目だ、と言っていた。僕にとって価値のあるものなんて、今は考えても大して思い浮かびはしなかった。
ダンボールの中身を整理して一段落ついた頃には既に日は落ちて、窓の外は暗闇が落ちていた。紅葉さんは夕食の用意をすると言い。随分前に出て行ってしまったので後どのくらいで、食事が出来上がるだろうかとぼんやりと思う。三森先生に渡された試薬をポケットからだして眺めると薬の薬品名が記されていた。mtv-002、タブレット型の錠剤で普段僕が使用しているマイナートランキライザー(抗不安薬)とそれほど変わらないように思えた。これが及ぼす作用がどんなものでも僕は怖いとは思わない。明日、死ぬかもしれないという恐怖なんて元々感じていないし感じることもできないから。視線によっての恐怖は相変わらず在るけれど、それは無意識から来る恐怖だから、僕の存在が無くなってしまうという恐怖とは別のものだと思う。それはある意味で幸せなのかもしれないなと、僕は思った。
やがて、窓の外から賑やかな声が聞こえ始め、僕のクラスメイト達が寮にかえってきた事実を僕に伝えてくれるのだった。