Room19 虚の中の真実、心深層の小箱
御久し振りです。ともあれ、未だ続いております。果たして……いえ、続けられるだけ続けてみようと思いますので何卒よろしくお願いします。
景が変わると、体は伊勢君の父親に馬乗りになっていた。手に持った包丁の柄の感触がじわりと手の平に伝わり、体が震える。これは、俺がやったのかといった疑問と同時に恐れなのだろうか、体の皮膚の表面が僅かに震える感覚が、足元からぞわぞわと体を駆け上るようにして昇って来きていた。
「これは、俺が」
けれど、これで良かった。俺は弟を守らなければならなかったんだ。どんな事をしてでも。一度、親父の弟に対する暴力を許してしまったけれど俺が直貴を守ってやらなければならないんだ。後からそんな思いが伊勢君の中に沸き立つのが解る。目線が呻いている父親から直貴君に移される。もう大丈夫だ、もうお前は怖がらなくて良いんだ、そう言葉を告げようと振り向いた先に見えたのは震える直貴君の姿だった。
「直貴、もう怖がらなくて…… いいんだ、いいんだよ」
伊勢君の震えながらの声が部屋に響く、柄から手を離し、直貴君にその手を差し伸べると、直貴君はおびえて後ずさった。その姿が自分自身に重なる、父親にずっと暴力を振るわされてきた自分自身が今、目の前にいる。そう感じた時、震えが劇的に激しくなった。体の芯から壊れてゆく感覚、後から耳を打つ金切り声が追いかけてくる、しかし、それは自分の、伊勢君の口から発せられているのだと気がついた。直貴君の自分を見る目に更に怯えが混じる、這い上がってくる自分に対する嫌悪、それが限界点で持っていた精神を決壊させた。
口から笑い声が漏れ、頬を生暖かい液が伝っていた。体は全力で走り出し、全てを置き去りにしたまま部屋から遠ざかっていった。そこから途切れ途切れに映像が飛び込み、町の中を走っているのか上下に景色が揺れながら進んで行き、唐突に途切れると目の前に警官が現れて体を抑えられていた。一転、場面が移り変わる。
警察署の中の部屋だろうか、そこで伊勢君は質問を受けていた。伊勢君は自身の家に入ってからの記憶が丸々抜け落ちているみたいだ、ぼんやりと警官の質問に対して答えている。どうやら何故体が血だらけだったのかを聞かれている様子だった。
「君の体についている血は一体、どうしたのかな? もう大丈夫だから、話してくれないかい?」
体に付いた血は何時の間にか洗い落とされていた、けれどシャツに沁み込んだ血までは洗いきれず、そのまま残っているみたいだ。
「解りません、俺、なんでここにいるんですか? この血、誰の血ですか? 俺の血?違いますよね、俺、どこも痛くないし。そうだ、弟を家に置いたままなんです、すぐもどらなきゃ、あいつ、お父さんと上手くやれるなんて思えないし」
「君の名前は何て言うんだい? 家の位置はわかるかな? すぐにでも連れて行って欲しいんだけれど」
やがて伊勢君は家の位置を聞かれ、家まで帰る事になる。血跡の付くドアノブ、それを開けて中に入る、そこに有ったのは横たわる母親の姿と伊勢君の父親が直貴君の首を絞めたまま死んでしまっている姿だった。その姿は前回の思い出の中で見た姿とはかけ離れていて、生々しく、凄惨だと表現するのが合う様な姿だった。それを見た伊勢君は全てを思い出し叫び声を上げる。
再び場面が変わり、自分の体が白い部屋の中に移されている。鉄格子と鋼線の入った窓、体には白い服が着せられていてベッドに座っていた。そこにドアが開き、男性が現れる。その男性は伊勢君にあの部屋で起きた事に対してあれこれ問いかける。
「君が夕貴君だね。済まないけれど、思い出して欲しいんだ。おじさんにあの日起きた事を教えて欲しい」
けれど、意識が飛んでいるのか、口から出る言葉は俺が、俺がやったんだ。俺が直貴を…… 以外出てこなかった。それでも諦めずにその男性が伊勢君に話しかけ続ける。
「違う、少なくとも弟さんは君が殺した訳じゃ無いんだよ。弟さんは君のお父さんが殺してしまったんだ。それもまた辛い事実かもしれないが、君が気を病むべき事じゃない。事実、弟さんは首を絞められた事による窒息死だった訳だからね。おじさんはね、そんな事より君のお父さんが誰に殺されたのかを聞きにやって来たんだ、包丁には君とお父さんの指紋以外付いていなかった、だが、子供の君の力であそこまで深く刃物を差し込める力が有るとは思えない、君は知っているんだろう? 誰が刺したんだ、おじさんに教えてくれ」
そう言って男性が伊勢君の肩を掴み、前後に激しく揺する。けれど、僕には当然答える事は出来ない。この当時の伊勢君も答える事が出来ない様だった。やがて諦めたのか、その男性は部屋から出て行ってしまった。
そうして僕等は元の部屋に戻る、白い人形が溶け込んだこの部屋に。
「う、これが、真実なのか? それじゃ、親父は刺された時はまだ生きていたのか? なんでだ、何で俺の記憶が変わってた?」
「それは、伊勢君が罪の意識から変えてしまっていたのではないでしょうか」
「解らない、解らないんだ。あの日からの記憶は俺自身もなんだかぼんやりとしか思い出せなんだよ。現に今見たおっさんの事だって俺はすっかり忘れちまっているんだ。あの鉄格子の填った病室の事も、俺はそれから一年近くの記憶をはっきりと思い出せなかった。でも、有ったんだな、確かに俺の中にこんな記憶が。なあ、那世。俺は正しかったのか? 親父を殺したのは俺じゃないか。それに、間接的に弟の直貴まで俺が殺したようなもんじゃないか。教えてくれ、俺は……」
「僕は、伊勢君の家族でもない僕がこんな事を言うのはおかしいのかも知れませんが、伊勢君は正しかったのだと思います。伊勢君の弟さんを救いたいと思う気持ちは間違いだった筈が無い、そう思います。僕は伊勢君を信じると言いました。そして結果的に信じて良かった、確かに伊勢君は弟さんを殺してしまっては居なかった、それで充分ではないですか」
「充分なんかじゃあない、充分なんかじゃあ。お前に解るのか、俺の気持ちが解るのかよ! 人の心を感じることが出来ないお前が俺の本当の気持ちなんか解るはず無い! 何でお前だけなんだよ、他の誰かじゃあ駄目なのか!」
伊勢君はそう叫ぶと頭を抱えて蹲ってしまった。同時に部屋の中心に黒い粉が集まり始める。部屋中に散っていた黒い粉が中心に向けて一斉に収束をし始めていた。
僕は確かに人の心が解らない、分析でしか人を測れない、そうだったのかもしれない。けれど、今なら少しだけ人の心が解る。陽さんや舞さん、伊勢君の心に触れて少しだけ感情の欠片を分けて貰えていた、そう感じていた。だからこそ、伊勢君に言われた言葉が僕の体に深く食い込んだのだろう。今まで感じた事の無い感情が僕の中で沸きあがる事を止められずにいた。僕は蹲る伊勢君の肩に手を乗せる、その手を振り払おうとする伊勢君の手を僕は逆に握り締めた。顔を上げた伊勢君に視線の位置を合わせた。何故かその時はそうした方がいい、そう思った。
僕は伊勢君を見つめる、すると自然と体に力がこもり、伊勢君の手の平を強く握り歯を食いしばる、これが友達の力になれない事に対しての悔しさなのだろうか、そうせずには居られなかった。そんな僕の変化に気がついたのか伊勢君は、僕の目を覗き込み、すぐに目を逸らした。
「悪かった。でも俺はもう、俺自身の事が解らなくなっちまった。今の俺は自分をコントロールする事も難しいんだよ。俺自身が俺を信用できないんじゃあな。俺の過去って一体何なんだろうな。俺は一体誰なんだ?」
僕の中で常に保たれていた冷静さが失われていた。考えるよりも先に反射的に言葉が出てしまう。
「そんな事は、大切な事では無いのではないですか……」
「どういう意味だ!」
僕に対して伊勢君が怒りを向けた時、僕の中で何かが爆発する。それは言葉となって伊勢君に向けて吐き出された。
「伊勢君は、何も変わらないじゃないですか。過去を知ったとしても変わらないと約束してくれたじゃないですか。伊勢君には戻る場所があるんです! 僕と違って戻る場所が有るじゃないですか! 伊勢君を待ってくれている人達もいるでしょう! 少なくとも伊勢君は必要とされています。だったら、過去の自分が解らなくても問題ではないんです。ここに来てからの伊勢君のままで居れば良いんです。難しくないじゃないですか、過去の事なんて悩む必要ないんですよ」
伊勢君は僕にそう言われ、硬直してしまう。
「お前、那世だよな…… でも、もう遅いんだよ。俺はもう知っちまったから、元の自分に戻れる自信が無いんだ。誰かを守る事なんて今の俺にはできそうも無い。逆に俺が守る対象の人間を殺してしまいそうだからだ。親父と同じ事を守る人間に対してしちまいそうなんだ。那世、お前なら解るだろ。俺は確かにお前を守ろうとしたが、どうだ、結果的にお前を殺しそうになっただけだ」
伊勢君の後に黒い結晶が出来上がり始めている。けれど僕は今、伊勢君との会話を止めるわけには行かない。
「それはもう、終わった話です。それにあれは僕が殴られに行っただけなんです。伊勢君が僕を殴りたくて殴ったわけじゃない」
やがて黒い結晶は人の形に姿を変え、それがすぐに伊勢君の父親の姿に変わった。けれどその姿はなんだか何十にも重なっているようにぶれて見えていた。もしかしたならば、あの影を倒す事で伊勢君は元の状態に戻れるのかもしれない。
「それでも俺は確かにお前を殴った、ただじゃあ済まないほどの傷をお前に作ってしまった。それにあの男の事も俺は殺してしまったかも知れない、親父の事も、俺は人殺しだ。そんな俺に、取り戻せるかな。元の自分を、取り戻せるのか」
「伊勢君のお父さんの時も、今回の男性の時も、伊勢君は誰かを助けようとしてやったことじゃないですか。人殺しなんかじゃない、僕は知っています。それに皆だって解ってくれる筈です。自分を取り戻す必要なんて無いじゃないですか、そのままの伊勢君で居れば良いんです。伊勢君、後を見てください」
僕の言葉に誘われて伊勢君が後方に視線を移すと底には真っ黒な伊勢君の父親がた佇んでいた。
「あれは、親父? いや、違う…… あれは俺だ、おれ自身の影だよ。確かに親父の事も怖かった、だけど本当は、そうか、俺が本当に怯えてたのは親父の影なんかじゃない、俺が親父と同様になってしまうんじゃないかって恐怖の方だったんだ」
その声と共に結晶の姿は伊勢君そのものに変わった、けれどその顔にはどこか寒気を感じさせるような笑いが張りつかせていた。その影がゆっくりと動き出す。その手には何時の間にか厚みのある刀、木刀の様な形状の黒い物体が握られていた。
影は何故か伊勢君には向かわず僕に向かって来ていた。その姿を伊勢君は呆然と見つめながら小さな声で何か独り言を呟いている。
「俺の人形は、消えちまったのか。俺にあれがやれるのか、こんな俺に、誰かを守る事なんてできるのか」
僕は覚悟を決めた。あの伊勢君の影とやれるだけの事をしなければならない。何も無い僕だけれど、走り回ったり、体当たりするだけの事くらいはできるはずだ。何もしないで逃げるよりもずっとその方が良いはずなのだから。
影はじりじりと僕に迫り続ける、僕は伊勢君からゆっくりと遠ざかり、伊勢君と僕の距離を離した。伊勢君を巻き込むわけには行かない、やれるだけやって時間を稼がなければならないんだ。やがて影が僕まであと数歩という位置まで迫ると、途端にその姿が視界から消えた。と、思うと部屋の天井まで一瞬で跳ね上がり、手にした物体を僕に向けて振り下ろす。
僕はそれを寸出の所で体を転げさせて避けたけれど、体を起き上がらせた次の瞬間には黒い木刀が僕の額の直前まで迫っていた。ああ、僕がどう頑張っても結局ここまでなのか、そう思った時、その黒い木刀は真っ白な木刀に遮られていた。
「やらせるかよ、俺の目の前で俺自身が那世を殺す姿なんて見たら俺はもう完全に立ち直れない。それにそんな状況にする訳には行かないんだ」
「伊勢君、その刀は」
「解らない、けどこれはきっと俺の人形だった奴さ。始めからこう有るべきだったんだ。自分で何とかするべきだったんだよ。何かに頼ってたら駄目だ、俺はこの木刀でこいつと決着つけなきゃあならないんだ。俺の恐怖に打ち勝たなきゃならない、おれ自身の力で!」
伊勢君はそう言うと、鍔迫っていた木刀を力任せに押し返し、伊勢君自身の影の胴に綺麗に一撃を入れた。それを受けた影はそのまま後に吹き飛ぶと見せかけて体を空中で反転させ、着地を確認する間も無く同じ位置まで跳躍して戻って来る。
影の打ち込みの速さはとても伊勢君の対応できるスピードではなくて次々に伊勢君の体に黒い木刀の一撃が繰り返されていった。その度に伊勢君が苦痛で表情を歪めている。
「こんな、俺自身が俺に勝てない訳が無い、そのはずなのに、俺は負けるのか。勝てないのかよ」
伊勢君は大声でそう言って力任せの一閃を影に加えた、けれどそれも簡単に受け止められてしまう。このままでは駄目だ、何か、何か僕もしなければ、そう思い、こう着状態の影に僕が走って体当たりをした。影の体勢が僅かに揺らぐ、そこに伊勢君が影の頭上から振りかぶった一撃を打ち下ろした。それを黒い木刀で受けようとする影、しかし、黒い刀身は白い刀身に砕かれて消えてしまい、その一撃は影の体に突き刺さった。
ノイズを上げてふらつく影、すぐに体勢を立て直し、砕かれた木刀を復活させて今度は僕に向かって執拗に攻撃を入れようと素早い打ち込みを繰り返してくる影、けれどそれを伊勢君は僕と影の間に入り込み、簡単に打ち返していた。先程よりも明らかに動きが良くなっている気がする。現に今度は影は伊勢君に押されていた。
「そうか、俺はこういった戦いでしか力を発揮できないのかもな。でもこれで良い、誰かを盾にするぐらいなら俺が盾になる。盾になりたいんだ、守りたいものを二度と失いたくは無いから……」
攻めていた影は伊勢君に攻守を入れ替えさせられ、徐々に後退してゆく、影はいつしか少しずつ体を削り取られたのか伊勢君の姿を失っていた。体を削られたからなのか、動きも着実に悪くなってきている。そうして影は壁際まで追い詰められ、壁を背にして伊勢君の攻撃を受け、御互いの動きが膠着する。と、黒い刀身にひびが入った。
伊勢君が更に力を込める、黒い刀身が音をたてて砕かれ、影は両膝を地面に突いて動きを止めてしまう。その影に伊勢君は白い木刀の先端を向ける。
「これでやっと決着をつけることが出来るな。でも、俺一人じゃ勝てなかった。やっぱり那世、お前が居なけりゃ俺は今この瞬間をこうしていられなかったよ。だから、先に礼を言っておく、ありがとう那世。お前は俺の親友で兄弟で家族だよ」
伊勢君は僕に向けて笑顔を向けた後、影に向き直り、その影の体に最後の一撃を振り下ろした。
轟音がルーム内に響く、伊勢君の振り下ろした一撃は、壁の亀裂から延びた巨大な腕に止められていた。
「これは、まさか」
「駄目だよ。私抜きでそんな面白そうな事しちゃ、ねえ、その子貰って良い?」
その声が天井から降って来た青い髪の女の子から発せられると壁から伸びる巨大な影の腕が伊勢君の影を掴み、そのまま亀裂の中へと消えていった。
「おい、その影を返せ! 俺はそいつと決着つけないとならないんだ」
「いいじゃん。遊ぼうよ、それともお兄さんも一緒に外に出たいのかな?」
再び亀裂から巨大な腕が伸びて伊勢君を掴む、僕の体は自然に動いていた。伊勢君の伸ばした手の平に僕の手の平を重ねる。
「那世、手を離せ、お前まで引き込まれるぞ。俺は良いから逃げろ」
「嫌です、僕はもう見ているだけは嫌なんです、絶対に離しません」
僕がそう答えた瞬間、巨大な腕が波打ち、伊勢君をその手から離した。どうやら亀裂が徐々に小さくなっていっている様だ。
「嘘、そんな事、あそっか。あの影を外に出したから、ま良いかな。そこの君、また会おうね! 次はゆっくり遊ぼうよ」
青い髪の女の子はそれだけ言残すと壁にドアを作り、消えていった。巨大な腕は縮小された亀裂に填り込み、徐々に絞り上げられて折れると、ノイズを上げて霧散した。
伊勢君は俯き気味に閉じた亀裂を見つめ、僕に問いかける。
「なあ那世、影を連れ去れた俺は一体、どうなっちまうんだろうな?」
伊勢君はふらりと体勢を崩すと片膝を地面に突いた。
過去の前書き、あとがきを一斉消去しました。なんだか随分と赤面物のコメントばかりしていたなと反省。次話UP時にこのコメも消します。何分推敲不足ゆえ、誤字等有りましたら申し訳なく思います。御気軽にご指摘など頂けたら嬉しく思います。