Room18 斜陽の記憶、伊勢夕貴の箱
僕等はどこかの住宅街の中、古びた二階建てのアパートの前に佇んでいた。伊勢君はしきりに周りを見渡し何かを思い出すようにアパートの錆びついた階段を見上げ、苦痛なのか顔を歪ませている。
「思い出した、ここが俺の元家さ。本当なら思い出したくも無い場所なんだが。あの頃、俺は自分が幸せだ何て思ったことは無かった。けど、今思えば幸せだったのかもしれない。弟が居たあの頃が」
伊勢君は階段を見上げたまま、僅かな声でそう呻くと、やがて決心したように頷き僕に言う。
「よし、行こう。俺は思い出さなきゃならない。親父の事を、そして弟の事を。もう一度全てを思い出してあいつにちゃんと向き合わないと」
僕は伊勢君に手を引かれ、そうして錆びついた階段を音をたてて登り、アパートの二階に辿り着くと二階に並ぶドアの内、一室のドアだけが異様に錆びついてその前方に黒い霧のようなものが漂っているのが見えた。
「あの黒い霧の向こうが伊勢君の?」
僕がそう聞くと伊勢君は静かに頷いた。
「そうだ、あの霧のあるドアの先に俺の過去の記憶がある、その筈なんだ。今までどうしてもあのドアを開ける事が出来なかった。弟を守れなかった、俺が殺した、そう憶えているのに何故か、俺がそう思っているかの理由がいつの間にか解らなくなっていた。薬のお陰なのか、それとも俺自身が記憶を曖昧なものにしたのか、それは解らない。解らないけど、嫌な事全て忘れる事が良い事なのか? 違うだろ、違うはずなんだ。弟は決して忘れられる事なんか願ってない。俺が本当に弟を殺したとしたならそんなの卑怯すぎるだろ? そう思うんだよ」
僕の手を握る伊勢君の手に力が入り、僕の手の平を締め付ける。
「那世、お願いだ。俺と一緒にあのドアを開けてくれないか。一人じゃあどうしてもあの扉が開けられないんだ、あのドアを開こうとするといつも、恐れで俺の意識が崩れてしまう。そうする内に何重にも鍵をかけて、この場所すら俺はすっかり忘れていた。俺自身が何故あのドアを恐れているのか解らない。あんな事までしてしまった俺がお前に頼み事するなんて、本当なら許されないだろう。すまない、こんな弱い俺を許してくれ」
「僕は言ったはずですよ。伊勢君の役に立ちたい、だから伊勢君は僕の事を好きに利用して頂いて良いんです」
「ありがとう、ごめんな、那世」
伊勢君は片手で目頭を押さえ少しの間、立ったまま震えていた。やがて片手を目の位置から離すと拳を握り、真直ぐにドアを見つめる。
「よし、行こう。扉の先に何があってもこの手を離さないでくれ、俺も離さないから」
「はい、解りました。今度は僕が伊勢君の支えになる事が出来るよう努力します」
伊勢君は僕の言葉を聞いて少し口に笑みを浮かべると僕とドアの前まで移動する。黒い霧の中に沈む様にして存在するドア、そのドアノブを伊勢君が握り、すぐに僕を見つめた。僕は頷いて伊勢君の握るドアノブに手を寄せる、すると伊勢君の手が震えている事が解る。少し力を込めて伊勢君の手に被せるように僕の手を重ねると僕等は御互い頷き合い、ノブを同時に回した。
「お兄」
途端に僕等にそんな声が届く、黒い霧が広がり、僕等はまた元の部屋の中に戻されていた。白い人形の前に僕と伊勢君が佇んでいる、伊勢君は驚いた表情のまま固まっていた。周りの黒い影達は居なくなっている、すぐに部屋の壁が崩れ奥から巨大な影が姿を現した。伊勢君の部屋に何体も居た者と同種の巨大な影だ。
「直貴、お前の事を俺はなんで……」
先程の声を聞いて伊勢君がそう呟く。その間に、右手だけ異様に膨れ上がった巨大な影が僕等にその手を伸ばす。すると、今まで全く動かなかった白い人形が立ち上がり、影の腕を削り取るようにして奔った。影は悲鳴を上げ、黒い破片が辺りに舞い落ちる。その破片を浴びると僕の頭の中に映像が走った。
どこかの暗い部屋の隅、隣の部屋から光が漏れている。体の端が目に映る、これは、僕の体ではない。半ズボンと半そでから覗く腕と足、両手と両足を組んで丸くなっているみたいだ。その手足に光が当たると切り傷や青あざがついているのがわかる。何故か解らないけれど、この映像の中の人物は震えていた。
「夕貴、どこいった。こっちに来い、俺の相手をしろ!」
奥の部屋から脅迫的な声が聞こえる、しかし、震える体は立ち上がろうともせずに動く事が無い。
「お前、俺の言う事が聞けないのか、来いと言っているだろうが」
その声の主が立ち上がりこちらに向かってくる、隣の部屋からの光がその人物のシルエットを浮かび上がらせる、逆光で顔は見えない、しかしその姿は光の加減で歪んで片手だけが巨大に見えた。やがて映像の中の自分は頭を抱え込んだ足と手の中に潜り込ませ、全てを遮った。
「なんでお前は俺の言う事が聞けないんだ、また痛い目見たいのか」
その声と共に体に鈍い痛みが走る。嫌だ、嫌だ、痛いよ。もう止めてよ。そんな声が響くようにして僕に伝わった。すると、その体から意識が離れた。殴られ、蹴られて小さくなっている男の子を上から見下ろすように僕が見ている。やがて男の子の姿が何か別の物と重なり合い、薄れてゆくと白い人形に変わった。
「そうだ、俺はずっと親父に虐待されていた。そんな時、俺の中にあの人形が生まれたんだ。白い人形は俺の代わりにずっと親父の虐待に耐えてくれていた。それを俺は、ずっと上から眺めてただけだったんだ」
伊勢君の声が聞こえ、映像が途切れる。そうか、あれは幼い頃の伊勢君の記憶なんだ、そう気がつく。目の前では巨大な影は腕を削り取られたまま未だに叫びを上げていた。すると腕が萎み、代わりに左足が巨大化する。巨大な影は器用に肥大化した足を伸ばし僕等に向けて横なぎに払う、巨大な脚払いを簡単に白い人形が止め受け、抱えてへし折った。折れた足は弾け、黒い粉が舞う、と再び僕は映像に捕われる。
「お兄、お兄、直くんと遊んで」
目の前には幼い三歳程の男の子が居て、しきりにこちらに対して話しかけていた。
「直、兄ちゃんは今忙しいんだ。お父さんにお使い頼まれたんだよ。お前は好きな所で遊んできな」
「お兄、直くんお兄いと遊びたい。遊んでよ」
男の子の頭を優しく撫でながら映像の中の伊勢君が言う。
「解った、すぐにいってくるからその後に遊ぼう」
「ほんと? 約束だよ、お兄い、約束」
「うん、約束だ」
錆びた階段を駆け下りて体は道へと飛び出してゆく。アパートの1階には掃除をしているおじさんが居てこちらに話しかけて来る。
「お使いかい? 親父さんは酒、まだ止められないのか。夕貴君、その痣、親父さんにつけられたんだろ? 今日は弟君も帰ってきてるみたいじゃないか、大丈夫なのかい?」
映像は叔父さんから目を逸らし、下を向いている。
「うん、大丈夫です。お父さんもその内元に戻ってくれる。そう思ってるから、直貴の事は、なんとか俺が守ります。だって兄貴だから」
顔を上げ、おじさんの顔を見てそう言うと先を急ぐように振り返り、体が走り出した。おじさんはなんだかとても寂しそうな顔をこちらに見せていた。
「そうか、そうだった。親父と母さんが離婚して、俺が親父に引き取られて、直貴は母さんに引き取られたんだ。元々ある時期から暴力が絶えなかった親父は離婚してから尚更、暴力が激しくなった。直貴は月に一度、母さんと共に俺達に会いに来た。離婚してからも暫くの間は母さんは親父の様子を見に来てたんだ。昔の優しかった親父を思い出してなのかは解らない、でも俺は嬉しかった。地獄の生活の中に居て安らぎを得られるのはその日だけだった。俺は母さんの下でぬくぬくと暮らしている弟の事を恨んでいた事があった。俺ばっかりが暴力を振るわれるなんておかしいじゃないかと思ったんだ」
伊勢君の声が響く、映像は引き戻され、影と部屋が浮かび上がる。脚を折り消された影は新しい脚を再生させ今度は左手を巨大化させる、けれど、徐々に少しずつ全体の大きさが小さくなってきている事が解る。影は左手を振り上げるとノイズを咆えて頭上に掲げ、白い人形に向けて振り下ろす。けれど人形はその手を両手で受け、左右に引き裂いた。裂け目は腕の付け根まで到達して一瞬で粉々に爆砕する。黒い粉が舞い、僕達を伊勢君の記憶に迷い込ませた。
周りには沢山の瓶が並べられている。様々な漢字で銘柄が書き記されているそれは日本酒の様だ。目線は自分の手が持つメモに向けられていた。メモには日本酒の銘柄が書かれている。
「おや、夕貴君かい? こんな事、あたしら商売人が言う事じゃないが、良い大人が小学生の子供にこんな事させるのは良くないね。いい加減立ち直って、失敗なんて忘れるべきじゃないかねえ」
声を聞いて顔を上げると店のレジの向うにこの店の店員なのか、丸顔のおばさんがこちらを見てそう言っていた。
「いいんです、俺はお父さんの事恨んでないから。お酒を飲んでない時は優しいんです、だけど、お酒が入るとその時を思い出して、お父さんだって辛いんだと思います」
「夕貴君は偉いねえ。親父さんも見習えって今度言っとくよ、今日もいつものでいいのかい?」
「いや、今日は違うお酒でお願いします」
そう言って頼んだお酒は、メモに書かれているものとは違っていた。やがてアパートの前まで戻ると、弟の直貴君が先程のおじさんの足元で地面に絵を描いていた。こちらを見て気が付くと、走り寄って来る。
「お兄い、もう良いの? 遊んでくれる? お母さんいつも直くんと遊んでくれないんだ。忙しいんだって、直くん、お兄がいなくて寂しいよ。なんで一緒にいれないの」
寂しげな表情を顔に浮かべ直樹君が伊勢君に話しかける、すると体の中で何か熱い感情が蠢き始めるのを感じた。深くて重く、どろどろとしたそれは体の中で渦巻くと口から吐き出される。
「直、お前はお母さんといつも一緒だから、偶にはお父さんと話してみないか? 俺がお父さんから頼まれたお酒、買ってきたからこれをお父さんに届けてあげるんだ。きっとお父さん喜ぶよ」
直貴君は喜んで頷いた。
「お父さん、本当に喜んでくれるかな? 前みたいに直君と、お兄と一緒に遊んでくれるかな?」
「遊んでくれるさ。お父さんだって本気で俺達いじめたりしない、そう思うだろ?」
そう聞かれ、すぐに再び頷く。伊勢君はお酒を抱え二階へと移動してドアの前でお酒を置くと、ドアを開けた。
「それじゃ頼む。気をつけて、割らないように運ぶんだぞ。そうすればきっとお父さん褒めてくれるはずだから」
「うん、お兄。お父さん喜んだらまた三人で遊ぼうね。おっかけっこがいいかな、かくれんぼかな」
「解ったから、早く行きな。お父さん待ち疲れているよ。きっと」
「うん」
直貴君は身長の半分もある瓶を抱えて家の中に入っていった。
「親父は、会社で企画した仕事を同僚に奪われたって言ってた。随分それに賭けてたらしくて、それから飲んだくれの毎日さ。俺達に暴力を振るい続け、遂に母さんとも離婚だ。親戚に説得させられて離婚した母さんはそれでも親父を心配してた。時折親父に会うには理由が必要だった。だから、俺の親権を親父から奪わなかったんだ、俺も最初は親父がいつか戻ってくれると思ってた、普段は良い親父なんだよ。酒さえ飲まなければ、だけど、徐々に酒を飲む時間が増えていった。俺は殴られてばかりだった。あの日も朝から親父は飲んだくれていた、母さんとは素面で会う勇気が無いって言っていた。だから一度くらい弟の直貴にも同じ苦しみを味あわせてやりたくて俺はわざと違う酒を買い、それを弟に持たせた。軽い悪戯のつもりだったんだ」
金切り音をあげる影の姿が瞬間的に目の前に戻される。無くなった左腕を再び再生させると巨大だった影は人形よりも僅かに大きい程の大きさに縮んでいた。影は右足を一瞬で伸ばし、人形を攻撃する。けれど見切ったように大きく避けた人形は一瞬で影に近づき、影の胴体にその腕を突き抜けさせた。影は再び金切り音をあげ、頭を巨大化させて、最後に破裂させた。頭の無い影はぐったりと人形に体を預け、後から黒い粉が僕等に降りかかる。
目はドアの先を見つめていた、すぐに瓶が割れる音が響き直貴君の泣き声があがった。すると体が突然熱くなり、走り出す。部屋の中にへたり込んで泣く弟の姿、横には割れた瓶が横たわり中の液体が流れ出していた。透明なアルコールが何故か赤く色付いている。倒れた椅子の先には女性が倒れていて、その背中には木の柄が立っていた。床には血溜まりが出来ていてそれがアルコールに交じり合っていた。
「こんなはずじゃあ、無かったんだ。こんなはずじゃあ…… 泣くな、煩いぞ」
横たわる女性の向うに黒い影が居た。それがこちらに向かってきて、泣いている直貴君を思い切り蹴り上げようとした。咄嗟に体が動き、直貴君の体を押し退けるとお腹の辺りに鋭い痛みが走った。すぐに丸くなり床に顔を押し付ける、アルコールと血の臭いが鼻を霞めた。
「お前が悪いんだ、どこにいってた。俺はお前に買って来いと言っただろ、お前がもっと早く戻ればこんな事にはならなかった」
そう言って蹴り続けられる幼い伊勢君の姿を僕等は彼の上空から見下ろしてみている。
「ごめんなさい、お父さん。お兄、お兄をいじめないで」
泣き止んだ直貴君がその場から動けないながらも必死で止めようと声をかけている。すると影が直貴君を見た。
「何でお前は残らなかった。俺についてこなかったお前ら全員同罪だ、こっちに来い」
影が直貴君の頭を掴もうと手を伸ばす、すると突然体の中に突き上げる熱い感情が沸いてそれが吹き上がった。
それはかつて、まだ弟と同じ暮らしを続けていた頃の伊勢君の記憶だろうか、兄弟で犬に追いかけられた時に弟を庇って代わりに噛まれたり、泣き虫の直貴君を他の小学生に馬鹿にされた時に怒って喧嘩したりする自分の姿だ。いつも何か有ると自分の背中にしがみ付き泣いている直貴君の姿だ。それに、何か新しいものを見つけるとすぐに兄の伊勢君に報告しようとする直貴君の姿だった。それらの思い出が集約されたかと思うと、体の中に弟を守らなくてはと言う気持ちが堅い形に変わり、傍観している僕等の前で動かない人形だったはずの体が動き出した。
それは、到底小学生の身体では不可能な動きを素早くこなし、母親につき立てられていた木の柄を引き抜いた。包丁を手にした人形は、驚き固まる影に飛び上がりその刃を突き立てようと飛び上がった。瞬間全てが暗闇に包まれる。
再び気がつきドアの前で立ちすくむ自分。血濡れのドアノブを握り、再び部屋に足を踏み入れたその先には冷たくなった三人の体が静かに横たわっていて、それを見た伊勢君が幼いながらもそれ以上出せない程に強烈な大声で悲鳴をあげた。
「そうだったんだ、やっぱり、俺が殺したんだよ。親父も、直貴の事も、俺が殺したんだ。あの包丁で一突きにして、あはは、俺はとっくに人殺しだったんだ。それも一番に守らなきゃあならない弟まで殺してた。なんて馬鹿なんだ、俺はそんなで誰かを助けようなんて、誰かの役に立ちたいなんて、出来る訳無かったんだ」
僕の手を離すと頭を抱え伊勢君が叫ぶ、すると頭の無い影を抱えた白い人形が身じろぎした。すっかり弱まったはずの頭の無い影が再び動き、白い人形を飲み込んで巨大化する。無い頭は再生され、胸には磔のように白い人形が埋め込まれていた。
「違う、違いますよ。伊勢君は少なくとも弟さんは殺していない」
「嘘だ、止めてくれ、今更慰めは必要ない。俺はもう、俺は……」
僕は気がついていた、弟さんの亡骸は他の二人と比べて不自然だったんだ。
「直貴君の体には裂傷はありませんでした、とすると伊勢君がけして刺し殺した訳では無いはずです」
「じゃあ、一体誰が弟を殺したんだ! あの場には俺と親父、それに弟しか居なかった。親父を刺したのが俺なら、当然殺したのは俺だ、俺の筈なんだよ!」
「伊勢君、僕を信じて下さい。僕は伊勢君と一緒に記憶を見てきた、だから伊勢君が弟の直貴君を思う気持ちが偽者じゃないと解っています。だから、そんな伊勢君が直貴君を殺してしまえるはずが無い、そんなはず無いんです」
「そんな、だが」
僕は伊勢君の手を堅く握る。
「伊勢君は僕が襲われた時助けてくれたじゃないですか、また、あの男性を襲っていた時に、一度は僕を攻撃してしまったけれど、次には僕の顔を見て、攻撃を止めてくれたじゃないですか。だから、僕は伊勢君を信じたいんです。伊勢君の記憶はまだ抜けている部分が有るでしょう、その部分に必ず本当の出来事が記憶されているはず。それを確認してからで無いと結論付けするのはまだ早過ぎます」
胸に白い人形を磔にしたままの巨大な影は再び、右手を巨大化させて僕等の頭上に振りかざした。
「解った、信じるよ。悪かった、勝手にお前から手を離したのは結局俺だった。そうだな、俺が俺自身を信じなくてどうするんだろうな。そうだ、信じるよ」
伊勢君が僕の手を握り返すと影の胸に埋め込まれた白い人形が光り輝いて影の胸から飛び出した。やがて影が左右にその体を震わせると全体が膨れ上がり、球体に変わり、臨界点まで膨れると破裂音を上げて割れた。黒い粉が部屋全体に舞い散り、黒い雪のような結晶を降らせる。
やがて影が立っていた位置に透明に透けて見える一人の男性の姿が浮かび上がった。彼は何故か穏やかな顔をして空を見上げている伊勢君に似た中年男性だった。
「あれは、親父か、ずっと思い出せなかったんだ、親父の顔が。忘れていた、いや、忘れようとしてたのか。そうか、あんな穏やかな顔をしていた頃の親父も確かに居たんだ」
僕等がその男性を見ていると戦っていた白い人形がこちらに向かって歩いて来る。伊勢君は懐かしそうにお父さんの姿を見ていてそれに気がつかない。やがて、白い人形が僕の前に移動すると、胸の部分に正方形の光のラインが走り、その部分が開く、中から白い正方形の小箱を出して僕に渡すと、部屋の中に溶け込むようにして消えてしまった。
僕は気がつく、この箱の中に伊勢君の本当に知りたかった記憶が隠されて居るのかも知れない。そして思う、本当を知ってしまう事が果たして伊勢君の為になるのだろうかと。確かに今の時点では伊勢君が弟さんを殺したとは言えない、けれどこの箱の中には殺してしまった事実が隠されているのかも知れない。もしそれが真実だった時、伊勢君は二度と元には戻れない気がした。僕がその小箱を開こうかどうか迷っていると、伊勢君がそれに気がついて僕に話しかけた。
「それが、俺の最後の記憶のピースなんだろ。ここに来てやっと解ったよ。俺は親父みたいに暴力を振るうのが怖かった。だから代わりに人形に任せてたんだ。何か有ったらあれに何とかして貰えば良いってな。だけど、それじゃあ駄目なんだ、自分の力で何とかしなきゃな。あの歪な影は俺が思い描いてた親父の姿だったって事にも気がついたよ。俺は今まで何してたんだろうな、肝心な時は人形に任せて、おれ自身は見守るだけか。もう、変らなきゃあならない時だ。俺は本当を知りたい、もし俺が何をしていたとしてもそれを受け入れるよ。もう逃げない、親父も否定しない。だからその箱を開けて良い。開いてくれ」
「解りました、一つだけ言わせて下さい。僕は何が現実であっても伊勢君とずっと友達で居たいです。だから約束して下さい。何が真実でも必ず元の伊勢君に戻って下さい。僕や舞さんや他の皆を悲しませないで下さい」
「解ってる、俺にはまだやり残した事が有るからな。あのおっちょこちょいを一人前にするまではおかしくなったりはしない、約束する」
目を細め、そう言う伊勢君の言葉を聞き、僕は決心する。
「解りました」
そうして、僕は手元の小箱を開いた。
果たして、ここまで読み進めて頂けているのかどうか。