Room10 想いの形、描く心象、望み高ぶる箱への救い
僕等は食堂に戻ると、それぞれの考えを纏めて意見を出し合う事にした。食堂のテーブル、椅子に皆が腰を下ろし、誰もが呆然とした面持ちで俯いている。自分達で描いた行動は結局何も功を奏さなかった。その事に対して皆、抱いている思いが有るのか、それとも、舞さんの変貌を目の当たりにして戸惑っているのかもしれない。
「僕は、どうしてここにいるんだろう? 今この時こそ、舞は僕を必要としているのに」
僕は未だ、体の操作を陽さんに譲ったままだった。ともあれ、色々と人の目に付く場所なので、陽さんは一人称を偽装している。陽さんはきっと、皆と話したいことが有るのだろう。一人で考えるより、大人数で考えた方がよい結果が得られるはず、陽さんはそう思っているはずなのだから。
「陽っち、ごめんな。うち、何の役にもたてへんかった。薬も結局意味が無かったみたいやし。うち、少しは役に立てたと思て喜んでたのに結局、ごめんな、空回りや」
陽さんの言葉に反応して名瀬さんが俯いたまま上目使いで言う。僅かに目が涙で潤んでいた。
「ごめん、ありさ達を責めるつもりで言った訳じゃないんだ。だけど、僕にも整理がつかないよ。予想してなかった事だもの、でも僕の焦燥も皆に感じて貰いたい。舞や月に何か有ったら僕は」
突然、何時の間にか立ち上がっていた伊勢君がテーブルを拳で叩いた。食堂が一瞬、静寂に包まれる。直ぐに、あ、悪い。無意識にちょっとな。と言い、座り直す伊勢君。やがて食堂が元の喧騒を取り戻していった。少し間をおいて、伊勢君が再び口を開く。
「陽、ここは舞達を信じるしかない。今までずっと耐え続けて来れたんだ。大丈夫だ、堪えてくれるさ。そう思うしかないんだ、俺にも何も出来なかったからな。今すぐ助けに行ってやりたいが、これから授業があるからな。くそっ」
伊勢君が悔しそうに歯軋りする。
僕の中で陽さんの感情が渦を巻いていた、僅かな怒りと巨大な焦燥感、そして今ここで皆と向合った時に湧き出した感情は暖かな気持ちだった。それらが複雑に交じり合って回転を続けている。
「自分も同じ気持ちです。今の彼女達の状況を考えると居た堪れない」
「私モ悔シイデス。ケレド、私達二舞サンニ対シテ今出来ル事ハハ無イト思イマス。今考エルベキ事ハ、今後ドウスルカデハナイデショウカ?」
阿須間君、相模さんが口々にそう告げると、それを追うように僕の口が開いた。
「どうするかって、結局あたし達が眠ることが出来る時間まで待つしかないんでしょ?そんな長い時間、あたしには……耐えられないよ。今この間にも舞や月は、危険にされているかもしれない。そうでしょ?」
興奮からか、陽さんの偽装が一瞬解けてしまっている。
「でも、どうにもならない。そうだろ、仮眠で部屋に入れるか解らない。もし入れたとしても、そんな短時間であいつ等を救えるとは思えない。ごめんな陽。お前の気持ち解ってやってるつもりだ。だから今は耐えてくれないか」
「あ、そうだ。うちなら、先に行っていてもばれへんやん。いつもの事やし」
「それは駄目ですよ。名瀬さんだけでは危険すぎます。それに、いま鳳さんの本体が寝ているとは限らない。本体が眠らなければ部屋には入れない、それに、あの人格が掴めない以上、慎重に行った方がいい。自分はそう思いますが」
「陽チャン。必ズ私達ガ何トカスルカラ、今ハ我慢シテ欲シイノ。根拠ハ無イケレド、キットアノ2人ナラ大丈夫ダヨ。ソレニ月サンモ居ル、彼女ガ居ルナラバ、少ナクテモ2人ニ危害ハ届カナイハズダカラ」
四人がそれぞれに面を上げて、僕の目を見つめながらそう話す。何時の間にか、僕の彼等の視線に対する恐怖が無くなっていた。僕の中に流れ込む暖かな気持ちがいっそうの事大きくなった気がした。僕は思う。
陽さん、皆良く考えて言ってくれている様です。なんとか僕も陽さんを支えますから、2人を信じて、僕等の事も信じて頂いて時間まで頑張ってもらえませんか。
「ありがとう、皆。あたしの事はどうでもいいよ。でも、舞と月が無事だって信じ続けていて欲しい。応援していて欲しい。そうすればあの子達も心強いと思うから。ごめん、あたしがこんな調子じゃいけないよね。強くならなきゃ、弱音なんて吐いていられないんだ」
僕は渦が萎んでゆくのを感じていた。陽さんの気持ちが固まったという事なのかもしれない。
僕たちは学科の授業が始まる時間が迫るまで、ずっと食堂で話し合っていた。けれど、陽さんの中から現れた女の子の正体は結局解らずじまいだった。誰にも心当たりが無い事は、いつも共に居た陽さんが知らないのだから当然だといえる。僕がまだ確認した事の無い、来訪者なのかも、でも、本来なら乗っ取られる事なんてありえないと彼等は言っていた。今、僕等は話しながら学科の建物まで向かっている。
「そう言えば、今日は教授が授業担当だったか」
「ああ、そうですね。今日は教授でした。という事は、入間君はまだ会った事が無かったのでしたね」
2人はなんだか意味有り気な苦笑を浮かべている。すると、教授は変ってるからね。那世ちゃんも一度会えば解るよ。と、陽さんの声が僕の中で流れた。
「教授ハ私ノ音声出力装置ヲ作ッテ頂ケタ人デモ有ルンデス。人間工学トイウ分野ヲ大学デゴ教授サレテイルラシイデスヨ。デモ、変ッタ人ナノハ確カデス」
相模さんが歩きながらそう入力して、微かに笑っているのが横目に見えた。
「教授の話聴くといつも眠くなるね。教授の授業受けるたびに、うちは大学って大変やなっていつも思う」
「それはお前だけだ、と言いたい所だが。確かにあれは眠くなるな。一方的に話し続けるからな、あの人。でも、教えてるのは美術や音楽だろ?後は講義か。なんだか特に必要ない事ばっかりだよな。でも息抜きになるから悪くはないか」
「僕はそっち系は苦手分野だからなあ。大体は月に任せてるんだけど、あ、ごめん。絵や音楽は苦手だから時間中は那世ちゃんに頼むよ」
中途半端な偽装が陽さんに戻っていた。落ち着いてきた様だ。
「お前ちょっと気を使いすぎだよ。でも確かに、絵や音楽にかけては月は上手いからな。音楽にかけては尋には誰も敵わないとは思うが」
「私ハタダ、普段カラタイプヲ続ケテイルノデ、指ヲ使ウ作業ニハ馴レテイル、ソレダケダト思ッテイマスヨ」
伊勢君に話を振られた相模さんが入力を終えて、照れながら下を向いた。ここぞとばかりに名瀬さんが急に口を開く。
「陽っちの絵は一見の価値ありやと思うわ。あれ、ピカソ級やから」
「く、そこを突かれるとあた、いや僕は反論できないのですが。ありさ君には言われたくはないですね。あなたも似た様なものではないですか」
いつもの雰囲気が少しでも取り戻せた、そう思って僕は安心した。完全ではないけれど、陽さんも自分を取り戻しつつあるようだ。
「まあ、いいのではないですか。絵や音楽は捉え方次第だと言いますし。自分も得意な方ではないので。個性を尊重してもらえると有り難いです」
阿須間君が苦笑いしながら頭を掻く。すぐに名瀬さんが、
「只由っちにそう言われると嫌味に聞こえるわ。あれだけ描けるのに」
と食って掛かる、僕は陽さんとそれを面白そうに横目で見ていた。
やがて僕らは教室につき、中へと入るとホワイトボードに只管数式を書いているスーツ姿の男性が立っていた。良く見つめると、顔の部分は金属的なマスクで覆っているので良く解らない。背中には巨大な別の装置がついていて、そこからコードが何本か伸びてマスクに繋がれていた。すぐに陽さんの声が、
ほら、あれが教授だよ。直ぐに変ってるって解るよね。なんだか、いつも変な装置体に付けてるんだよ。あたし、あの人苦手だからさ、この場は那世ちゃんに任せるよ。暫く静かにしてるから。たぶん那世ちゃん、すぐに目を付けられると思うからさ。大変だと思うけど頑張って。
と、僕の中で響く。それだけ言って僕の返答も受けないまま僕に体の制御を譲った。
「あれが教授だよ。な、変ってるだろ? 今回は又すげえの付けてるな。あのマスクはいつも通りだけど、背中のは前よりでかくなってる気がする」
伊勢君が呆れ顔でそう説明すると、教授と呼ばれていた人がこちらに気がついたのか顔を僕らに向けた。
「やあやあ、これは諸君お揃いで。いえね、少々時間が余ったもので、色々と計算をね、していた訳ですよ。おっと、君は新顔ですね。ああ、君が噂の入間 那世君。ふむ、これは興味深い、僕に初めに会わせてくれないかと上に頼んだのですがね、あっさり断られてしまいまして。ああ、この装置気になりますか、これは今開発中のインターフェイスマシンでして。見たもの全てを背中の記憶媒体に記録すると言うものです。同時に脳波もスキャンして被験者の感情が何を見てどの様に変化するのかを記録する、それを最終的な目的として作ったマシンなのです。所が、今の所は装備者の視覚映像の記録と視覚情報の流れを記録する程度でしか開発が成されていません。どうにもサイズ的に難しいのですよ。これでも大分小型化されてきている方なのです。
しかし、このフォルムはどうです? 美しいでしょう? カーボン材とアラミド繊維を混合させて作り出された外殻にファイバー機器を内蔵させていますから、強度耐性は抜群ですよ。その上軽量です。どうです、入間君、君用に作ってあげましょうか? おっと、失礼。まだ自己紹介がされていませんでしたね。僕は杉原兼行と言います。この特殊学科の主要な権利は僕が抱えていることになっています。何か有れば僕に言って下さいね。あ、そうです」
「杉原先生、今日は自分等はどんな授業を受ければ良いのでしょうか」
良いタイミングで阿須間君に話しを割り込んで貰えたお陰で僕は助かったと感じた。でなければ杉原先生の話が延々と続いてゆきそうだ。
「おっと済みません。今日は美術を行いたいと思います。公園で好きに絵を描いてください。提出はしていただきますよ。あなた方がどんな風景を選び、どのような絵を描くのか、とても興味が沸きます。こちらに画板と画用紙が用意してありますので、各自それをもって外へ出てください。ああ、筆記用具は机の上に用意しておきました。夜なので対象が捉え難いかもしれませんが、それがまた味になる、そう期待しています。入間君はここに残ってください。僕は君と話がしたくてうずうずしているのですよ。いやー、こんなに好奇心がそそられるのは久しぶりだ」
どうやら僕に対して、杉原先生は必要以上の好奇心を抱いているようだ。陽さんの予想は外れなかった。
「悪いな那世、あの人、いつも初めて会う生徒に対してあの調子なんだよ。長くなると思うが我慢してくれよ」
「入間君、ご愁傷様です。少しの辛抱ですよ」
「災難やね那っち。眠くなると思う。やけど別に教授、寝ても怒らへんから、根は良い人やね。外で待ってるからがんばりや」
「ゴメンナサイ。私モ先ニ行カセテモライマスネ。大丈夫、何カサレルワケデハ無イデスカラ。速ク終ワル事ヲ願ッテイマス」
四人がそれぞれに筆記用具と画材を手にすると、僕に笑顔を向けて一言かけながら外に出て行ってしまった。皆の反応を見る限り、通過儀礼の様な物なのかなと僕は思ってしまった。
僕が教室のテーブルに付き杉原先生が僕以外の皆が出て行ったことを確認すると。失礼、と言い、顔を覆っていたマスクを外した。マスクの下から現れた顔は僕が想像していた以上に不自然に皺一つ無い、若々しい顔つきだった。
「うん、はやり君は僕の顔を見ても全く驚いた表情を見せませんね、面白い。僕は顔の上半面が神経麻痺の状態なので表情が現れないのです。それ故に常に筋肉の緊張状態が保たれ、通常より老化が進まない。もう随分前の事なのですが、失敗をしましてね、特殊な薬品をかぶってしまったのですよ。その影響で僕の両目も前より随分と視力が低下しました、ですから普段はこのようにサングラスやマスクで顔の上部を隠しているのです」
そう言われ、杉原先生の瞳を見つめると、通常より瞳の色が随分と薄いように見えた。黒ではなく白に近い灰色だ。
「君はクオリアというものについて、知っている事はありますか?」
突然の質問で僕は驚いてしまったけれど。それについての知識は僕は僅かしか、もっていなかった。
「確か、感覚的な意味を持つ単語ではなかったでしょうか? 詳しくは解らないです」
それを聞いて杉原先生は満足そうに口元を緩め、頷いた。
「おお、素晴しい、その通りですよ。クオリアとは人間の感覚、感情。ものの感じ方に密接に関係する直感の様なものの事を指します。現象的意識、主観的体験を元に幼い頃に形成される感じ方、それがクオリアなのですよ。ええ、しかしながら、幼児期に強烈な体験、または苦境に立たされた人間はクオリアが完全に形成される前に知識が先行してしまうと言われています。そうした人間は感覚で感じた事を口にするのではなく、周りから得た大多数がそう感じた、という基準データを元に、感情や感覚を表に表現するという事です。彼等の事は哲学的ゾンビと呼ばれるのですが、それは今は上げるべき話題ではありませんね、うん。
僕が言いたいのは入間君に欠けているのはそのクオリアの存在なのではないか、そう思うのです。クオリアには五感が密接に関係していると言います。君は他の方に食べ物の味覚の感じ方、服装やものの形状に関する興味、音に感じられる安らぎの感覚、鼻腔をくすぐる匂いからの連想、見たものを触れたいと思う積極性、それらが薄いといわれた事は無いですか?」
確かに僕は今までそう言った物に興味を持てずにいた。色々な事を表現する事も苦手だった。とすると僕に足りないのは本当にクオリアなのかもしれない。とすると、陽さんが表側にでていた時に感じた色々な感覚こそが、クオリアなのだろうかと僕は思った。
「僕に足りないものがそれだとすると、僕はどうしたらよいのでしょうか?」
「それは解りません。入間君の成長を止めている原因が解明されれば、入間君にもクオリアが戻るのやもしれませんね。君は確か、幼い頃の記憶が思い出せないのでしたね、私は君の成長が抑制されている原因が、記憶の抑圧によって起きているのだと思っています。
人の脳とは不思議なもので、強烈な恐怖やストレスに曝され、精神が限界まで達した時、脳の中でグルココルチコイドというホルモンが分泌されるそうです。このホルモンは脳の記憶部分を破壊する為に作られるホルモンなのですが、こういった反応が脳内で起きた場合、記憶を取り戻す事はとても困難になると考えられます。しかし、君は記憶だけで無く外の肉体にまで影響が及んでいる、うん。僕の考えが正しければ、君には当時の記憶に強力な鍵がかけられているだけなのだと、そう思います。
因みに僕が教えている人間工学という分野は人間が日々を快適に過ごしてゆくために、様々な周りの環境を変えて行く研究の事を言うのです。その上で心理学からの観点は非常に人間工学には必要な要素だといえるでしょう、うん。その為に僕は人間の感情の流れについて詳しく在る必要が存在するのです。何も人間工学は人間を分解したり、組み立てたりするわけではありませんよ。怖がらないで頂きたい。その辺はご理解いただけると助かります」
杉原先生はそう言ってあははと笑った。ああ、今のは冗談だったのかと言われてから気がつく。
「そこで、なのですが、クオリアを持たないロボット的な存在が居たとするでしょう。そうした存在は新しい芸術作品をけして生み出せないと言うのです。なぜならば、彼らには芸術を形に転化させるための感覚が存在しない。ですから、データ上の二番煎じ的な芸術作品しか作れないという事なのです。私は入間君、あなたをロボットだと言うつもりは全くありません。しかし、あなたに今日、絵を描いていただきたかった。クオリアの存在が薄いあなたがどの様な絵を描くことができるのか、とても興味があるのです。さあ、ここで話をしている場合ではない。すぐに皆を追いかけてください。素敵な絵を期待していますよ」
杉原先生はそれだけ話すと満足したのかマスクを被り直し、僕に画材を渡すと促すように手を出口へと向けた。僕は確かに変った人だなと実感しながら画材と筆記用具を抱えると外へと出た。
教室を出てすぐに、出口のすぐ横の壁で名瀬さんが膝を抱えて寝ているのを発見した。それを見て僕の口が動く。
「話をしている場合ではないって、殆どあの人一人で話してたよね。ああ、長かった。相変わらず、教授の話は難しすぎてあたしには理解できないよ。それよかこの子、なんでこんな所で寝ているのかね。このまま放置するのも面白いかも」
陽さんがそう言ったけれど、流石にそれは悪い気がしたので僕が肩を揺すって起こしてあげた。
「名瀬さん、絵を書き上げないと杉原先生に何か言われてしまいますよ」
「おあ、那っちか。待っててあげよ思たんやけど、だめやったわ。あはは」
名瀬さんは片手でボサボサの頭を掻きながら僕の手をとり立ち上がった。
「あーあ、別に起さなくても良かったのに。君のそのどこでも眠れる能力。羨ましいよありさ君」
僕の口が勝手にそう告げると、名瀬さんは那っちの優しさを少しは見習え、と膨れていた。
僕等2人が公園へつき、皆を探して歩いていると、やがて公園の中心の小高い、いかにも人工的な丘の上に巨大な一本の木が植えられている場所へとついた。芝生で覆われた木の周りには木製の長ベンチが円形に配置されていて、ベンチに座った相模さんと阿須間君の姿が見える。伊勢君は画材を放り出して芝生に横になって空を見上げていた。
それを見つけた名瀬さんが伊勢君の方へ向けて走り出す。僕は阿須間君と相模さんが座っているベンチへと向かった。
相模さんと阿須間君は真剣にベンチから木を見つめ、鉛筆を走らせていた。どうやらまだ作業中の様だ。僕はどうしようかと考え、2人の座るベンチの間隔に十分な空きがあったため、間に座ることにした。何故か意図的にか、2人はベンチの両脇に座り作画を続けていた。僕が座ると相模さんが僕に気がつき、タイピングを始める。
「ア、コノ空キハ別ニ只由君ヲ意識シテ空ケテイル訳ジャナイデスヨ。夕貴君ガモトハココニ座ッテイタンデス。ソレジャ入間君モ絵、頑張ッテ描イテ下サイ」
相模さんが僕に向かってにこりと笑った。
僕は気が向かなかったけれど画材と鉛筆を出し、正面の巨大な木を描き始めようとする。と、名瀬さんが伊勢君を起こしてこちら側に連れてくるのが見えた。伊勢君はあまり乗り気ではないのか、面倒そうなしぐさで名瀬さんに手を引かれて連れて来られていた。
「俺はもう、描き終えたんだからいいんだよ。全く、ありさは厄介な奴だ」
「いいやんか、みんなで見せっこしよ。うちより上手いんやから恥ずかしがる事あらへん」
「それを言うならお前、早く描いた方がいいんじゃねえの? っと、那世、やっぱり話しにつき合わされたな。まあ、絵なんて適当でいいぜ、俺のも殴り描きみたいなもんだから。すぐに終わらせてゆっくりした方が得だ」
伊勢君はベンチの裏に回ると画材を背に立てかけ、芝生に倒れこんで目を閉じてしまった。名瀬さんがそれを確認すると立てかけてある絵を取り出して僕らに見せて回る。
「はい、これが伊勢画伯の作品です。どやろ?」
伊勢君の描いた絵は荒々しいもので、短い時間で力を入れて描いた事が良く解るものだった。伊勢君は名瀬さんの行動を無視するように背中を僕らに向けた。
「いつもより荒さが目立ちますね。仕方がありませんか、こんな状態ですから、自分も集中できない」
阿須間君が伊勢君の絵を見つめ、画材を脇において上を見上げた。相模さんはそれを聞いて溜息を一つ吐いて、ソウデスネと入力した。
「折角うちが盛り上げようとしてるのになあ」
名瀬さんはそう言いながら僕と相模さんの間に無理やり割り込んで座る。
「夕貴の絵はいいからさ、僕はありさ君の絵が見たいな」
僕の口がそう告げた、僕は会話は陽さんに任せて絵を描き始めていた。その間、ずっと名瀬さんと陽さんの会話が続けられていた様だけれど、僕は良く覚えていなかった。