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ルビーのジャム

作者: 亀沢かおり

くらかけ山という山には、大きな熊が住んでいました。熊は木の実や果物、それに木の皮なんかを食べて暮らしていました。

しかし山の動物たちはこの熊のことをとても恐れています。彼らは熊みたいに大きな生き物はいつか自分たちを食べてしまうに違いないと考えているのです。初めはそんなことはない、自分が他の動物を食べたりするはずがないと主張していた熊もいつからか彼らとは離れた場所で暮らすようになりました。誰にも信じてもらえないくらいならひとりでいるほうがずうっとましだと、そう思ったからでした。


その日、熊はとてもお腹が空いていました。他の動物たちとうっかり出会ってしまわないようにといつも同じ場所にいたせいで、自分の住処近くの食べ物はほとんど食べつくしてしまっていたのです。

「少しだけ、今日は少しだけ遠くへ行ってみよう。」

ぽつりと呟き、大きな体を揺らしながら歩きはじめます。のっしのっしと地面を踏むたびに、ずしんと重たい音が響きます。この音が誰かに聞こえてしまわないようにと熊は静かにしずかに歩きました。

「なんだかこっちの方から甘酸っぱい匂いがするぞ。」

あちこちに伸びている枝をそうっと掻き分けながら、美味しそうな匂いの方へのしのし進んでいきます。一歩足を踏み出すたびに漂う匂いは濃くなっていきます。

二十分ばかりそうして歩き続けると、不意に熊の目にひどく鮮やかな赤色が目に飛びこんできました。

「うわあ……。」

そこは一面のやまもも畑でした。まるでルビーのように透き通った果実が身を寄せ合ってあちらこちらにぶら下がっています。

熊はたまらずその宝石のような実を一つ口に含みました。ぷちりとはじけるような音とともに、甘味と酸味が口いっぱいに広がります。

「こりゃあ美味しい!いくつだって食べられそうだ。」

熊はもう夢中になってやまももを食べ続けました。

「あのう……。」

ふと、どこからかか細く声が聞こえてきました。けれど辺りを見渡してみても、声の主は見当たりません。

「下です、下。木の根元のあたりを見てください。」

「した……うわあっ。」

言われた通り視線を下に向けてみると、そこには真っ白なうさぎが一羽立っていました。微かに震えながらも小さな足をすくっと地につけ、まっすぐに熊を見つめています。

「この畑、実は私のものなんです。」

「あれ、そうだったんですか。それはごめんなさい。あんまり美味しいやまももだったからつい。」

小さなうさぎを怖がらせてしまわないように熊はぺこりと丁寧に頭を下げました。うさぎはなんだか拍子抜けしてしまいました。畑を守るために勇気を振り絞って声をかけたはいいけれど、熊はひどく恐ろしいものであると聞いていたのです。しかしいま自分の目の前にいるこの熊が、話に聞いていたような生き物であるとはとても思えませんでした。

「あのっ。」

「どうしましたか。」

なのでうさぎは思わずのっしりと立ち去ろうとする後ろ姿を呼び止めました。振り返った熊はたしかに大きく鋭い爪と牙とを持っていましたが、やはり他の動物を襲うようには見えません。

「あ、えっと……。」

「ああ、大丈夫ですよ。もうここにやまももを食べにきたりなんてしませんから。先ほど食べてしまった分はまた集めてこの木の根元に置いておきますね。」

熊の方はというと、もう早くこの場からいなくなりたい気持ちでいっぱいでした。きっとこのうさぎは僕のことを怖がっている、それでも声をかけてくるくらいこのやまももが大切だったんだろうなあ。とても悪いことをした。もうこれ以上いやな思いをさせたくないなあと、そんなことを考えていたためでした。この熊は本当に優しい熊なのです。

「あの、あなたはおなかが空いているのでしょう。」

熊はぽかんとした表情を浮かべました。今まで他の動物に、それもうさぎなどという小さな生き物にこのような質問をされたことがなかったのですから。言われた言葉をゆっくりとかみ砕いて飲みこんでから、熊はゆっくりと首を縦に振りました。

「それじゃあこのやまももをもう少しお食べになったらいかがです。」

「え、でもこれはあなたが大切に育ててきまものなのでしょう。」

「いえいいんです。どうせ毎年余らせてジャムにしているくらいですから。」

「じゃむ?」

熊は小首を傾げました。ジャムというものが一体なんなのか、てんで見当がつかなかったのです。

「ええ、ジャムです。そのまま食べるよりもずうっと甘くて、心がぽかぽかする味がするんですよ。去年の分でよければ少しお食べになりますか。」

うさぎが持ってきた瓶はまるで朝露をいっぱいに詰め込んだかのようにつやつやと輝いていました。熊はとろりとしたそれを恐る恐るすくって口へと運びました。

「どうですか。」

うさぎの問いかけに熊は言葉を返すことができず、ただ首を大きく縦に振りました。

こんなに甘くて美味しいものは生まれて初めて食べたぞ。少し舐めただけで心が温かくなってくる。ジャムはまるで魔法みたいな食べ物だなあ。

熊は自分の胸がいっぱいになるのを感じながら、口の中のジャムをこくりと飲み込みました。

「よろしければその瓶を差し上げましょう。ぜひお家に持って帰ってください。」

「え、でも……。」

「いいんです、私ひとりじゃあ食べきれなくて困っていたところですから。ああでも、瓶は今度また返しにきてください。今年のジャムを作るのに必要ですからね。」

熊は目の奥がじんと熱くなるのを感じました。それは生まれて初めて誰かと交わした約束だったのです。胸にきゅっと手を置いてこくこくと何遍も頷く姿を見たうさぎは、まん丸な目をふうわりと細めました。その小さな体は、もう少しだって震えてはいませんでした。


その夜は満月でした。自分の寝床へ帰った熊は宝物に触れるかのようにそっと瓶のふたをあけました。甘くてやさしい香りが辺り一面に広がります。

「あのうさぎは今度と言った。つまり僕はまたあそこへ行ってもいいということだろう。誰かと約束を交わすのがこんなにも幸せなことだなんて、今まで知らなかったなあ。」

夜空ではまん丸な月が柔らかな光を惜しみなく降り注いでいます。赤く透き通った瓶をぎゅっと抱えこみながら、熊は今までで一番幸せな眠りへと落ちていきました。


まあるい月が半分に欠けてしまうよりもずっと前に、熊はもらったジャムをすべて食べつくしてしまいました。本当はもっと時間をかけて味わいたかったのですが、それよりも早くうさぎに会いに行ってみたい気持ちの方が強かったのです。

「うさぎさん、この前の瓶を返しにきましたよう。」

太陽の光がさんさんと降り注ぐやまもも畑の真ん中でそう叫ぶと草の陰からうさぎがぴょこんと顔を出しました。

「おや熊さん、ずいぶんと早く食べ終わったんですねえ。」

「ええ。あまりに美味しかったので思わずいっぺんに食べてしまいました。」

熊はほんの少しのうそを交えながら答えました。うさぎさんに早く会いたくて、とはとても言えなかったのです。半分はどうにも抜けなかった照れ臭さのため、もう半分は自分がそんなことを言ったらうさぎさんを困らせてしまうのではないかという不安のためでした。

「そうだ、はいうさぎさん。これはこの前のおわびです。」

差し出したのはかごいっぱいのやまももでした。熊は色んな場所を探し回って、自分が食べてしまったよりも少し多いくらいのやまももを集めてきたのです。

「おわびだなんて、そんな。あそこが私の畑だって知らなかったんでしょう。仕方がないじゃあありませんか。」

「それでも僕が勝手に食べたことにちがいはありません。それにきっと、あの畑はうさぎさんにとってとても大切な場所なんでしょう。」

やまももが柔らかな風に吹かれてつややかな色を放っています。かごを受け取ったうさぎは目尻を下げて、言いました。

「じゃあこのやまももと木になっているものとを使って、今から一緒にジャムを作りませんか。」


ことことと煮詰めた鍋から甘い香りが漂ってきました。焦がさないように、でも混ぜすぎないように、熊は慎重に木べらを動かします。ころんと可愛らしい木の実が段々とろとろしたジャムに形を変えていきます。

「じゃあ最後にレモン汁を入れて、すこし冷ましましょうか。」

鮮やかなレモンをひとしぼりしてうさぎは火を止めました。

「ありがとうございます、熊さん。誰かと一緒にジャムを作ったのなんて久しぶりです。」

「そうなんですか?」

「ええ、前はよく父と一緒に作ってたのですが……。」

うさぎは言葉の途中で不意にうつむきました。その横顔が今の晴れた空にそぐわないようなものに見えて、熊はあわてて話をそらしました。

「そういえば、うさぎさんは怖くはなかったんですか。」

「なにがです?」

「僕のことがですよ。この山に住んでいる動物たちはみんな、いつか僕に食べられるんじゃないかって怯えているみたいだから。」

するとうさぎは先ほど伏せた目を真っ直ぐに熊の方に向けました。

「熊さんは他の動物を食べるんですか。」

「食べるわけがありませんよ。僕は木の実や果物なんかが大好きで、それ以外のものは食べたことも、食べようとしたこともありません。」

熊は内心どきどきして言いました。今まで誰かがその言葉を信じてくれたことなんてただの一度もなかったのですから。

けれどもうさぎはちがいました。小さな背をりんと伸ばして、高く澄んだ青空みたいな声で「やっぱり。」と微笑んで言いました。

「熊さんはやさしい方です。そんなの話をしていればわかります。他の動物たちがあなたのことをなんて言おうと、私は、もう決して怖いだなんて思いませんよ。」

ティースプーンからはちみつを垂らした時のように、とろとろと温かな感情が熊の胸に広がっていきました。それは熊が心の底でずっと願っていた言葉だったのです。

その後味見をしたジャムはなんだか前より甘くて、幸せに味があったらこんな味に違いないと熊は思ったのでした。


それからうさぎと熊はたくさんの時間を一緒に過ごしました。ある時は花をつんで冠を作ったり、またある時は川へ行って水浴びをしたりしました。熊にとってはうさぎとするすべてのことが新鮮で、まぶしくて、灰色だった毎日がきらきらと色づいていくのを感じていました。

「あのね、この畑のことなんだけど。」

カラッとした暑さも和らぎ木の葉の端が赤や黄色に染まり始めたある日、小さな切り株に腰をかけてうさぎはぽつりと切り出しました。

「本当はね、ここ、お父さんの畑なんだ。」

足元に咲いているりんどうの花を見つめたまま言葉を続けます。

「でもお父さん連れてかれちゃったの。去年の冬頃、人間に。」

「ニンゲンって?」

「あのね、二本足で立って、毛皮の代わりに布切れを身にまとっている生き物のことよ。たまに山に来ては山菜や私たちの仲間を捕まえて、麓の村に持ち帰ってるみたいなの。」

怖いよね、とうさぎは笑いました。けれどもその笑顔はひどくぎこちなく、いつもはやさしい色をいっぱいに蓄えている瞳もまるで星空を映した湖のように不安定に揺らめいていました。その後二匹はなにを喋るわけでもなく、ただ太陽が沈み月が夜を連れてくるまで、静かに寄り添いあっていました。


「寒くなってきたね。」

ジャムを溶かした紅茶にふうふう息を吹きかけながら今日も二匹は一緒にいます。山の木々はすっかり葉を色とりどりに染めており、まるで豪華なドレスパーティを行なっているかのようでした。

「今年も雪は降るのかしら。」

「どうだろう、降るといいけどね。」

「あらどうして?雪なんてただ寒いだけじゃない。」

「だってうさぎさんみたいで綺麗じゃないか。」

去年までは僕も好きじゃあなかったけどねと言うと、うさぎは照れ臭そうに笑いました。熊も胸に手を置いて微笑みました。

「なんだか天気が悪くなってきたわ。」

「本当だ。雨が降る前に、そろそろ帰ろうかな。」

「ええ、また明日。」

どんよりと厚い雲が秋の山を包み込み始めました。冷えた空気が二匹の間を通り抜けます。

もうすぐ冬が来るのです。


木が色とりどりのドレスを脱ぎ始めた頃、いつものようにうさぎに会いにいく道の途中で熊はふと聞き慣れない声を耳にして、慌てて茂みの陰に隠れました。どことなく冷たい声が耳に流れ込んできます。

「あの子、どうやらあれとまだ会ってるらしいよ。」

「去年の冬から少し様子がおかしくなったとは思ってたけどまさかここまでとはねえ。」

「本当、いつ食べられるかわかったもんじゃないって言うのに。」

自分とうさぎの話をしているのだな、と熊は直感的に思いました。そしてそれが、あまり良くない話であることも。

「まあ、誰とも関われない嫌われ者と身寄りをなくした可哀想な子、ひとりぼっち同士お似合いなんじゃない。」

熊ははっと目を見開きました。


そうだ。うさぎさんと過ごしているうちに忘れかけていたけれど、僕はみんなから怖がられている嫌われ者なんだ。そしていま、そんな僕と一緒にいるせいで優しいうさぎさんまでこうして悪口を言われてしまっている。大好きなうさぎさんに迷惑をかけるのは、ひとりぼっちでいるよりもずっと辛いことだなあ。


熊はなるべく音をたてないようにもと来た道を戻りました。その日から、熊はぱったりとうさぎに会いにいくのをやめました。


熊はあまり外へでかけなくなりました。もうきっと触れた花の甘い香りや目の覚めるような川の水の冷たさを、そしてそれを誰かと分かち合う幸せを味わうことはないのだと思うとひどく胸のあたりが痛みましたが、ただ元の生活に戻っただけだと考えることでその痛みにむりやり蓋をしていました。実際その考えは、あのあたたかな時間を失ってしまったのだと思うよりは幾分熊の心を軽くするのでした。

枝を揺らす風が冷たく体を刺します。雲が幾重にもかさなり、太陽が光を地面に届けようとするのを妨げます。

「久しぶりにうさぎさんの作ったジャムが食べたいなあ。」

熊は戸棚の奥に大切にしまっていた瓶を取り出しました。もう小指の先程しか残っていないそれを机に置き蓋を空けます。

その時、一際大きな風がびゅうと吹きました。

「うわあっ。」

そして運の悪いことに、熊はその音に驚いた拍子にぐらりと大きく揺らめき机にぶつかってしまったのです。瓶は床に落ち派手な音をたてて割れました。ガラスと幸せの味がする甘いジャムが床一面にとびちります。

熊は泣きました。声をあげて泣きました。破片をつなぎ合わせジャムをすべてすくい上げたとしても、それらは決してもう元の形に戻ることはないのです。

こんこんというノックの音でふんわり意識が浮き上がります。熊は泣き疲れていつのまにか眠ってしまっていたのです。

「かぜのおと……?」

腫れぼったい目をこすりながらぼんやり扉を見つめていると、今度は控えめな音とともにか細い声が聞こえてきました。

「熊さん。」

それは確かにうさぎの声でした。

熊はパッとはねおき、粉々のガラスの中で呆然と立ち尽くしました。まだ夢の中にいるんじゃないかとも思いましたが、足の裏にささった小さなガラス片がこれは現実なのだとささやいています。

「あのね、少しでいいから聞いてほしいの。熊さんがどうして私を避けるようになったのか、正直私にはよくわからない。また明日って言ったのにどうしてって、ずっと考えてはみたんだけど。」

ごめんね、とうさぎは絞るような声で言いました。ひどく苦しげで、胸が締め付けられるような声でした。

「でも私は熊さんと過ごす時間が本当に幸せだったの。これだけはどうか忘れないでいて。」

風の音が強くなってきました。けれどもかすかな声は不思議なくらい真っ直ぐ熊の耳に届いてきました。

熊はいますぐ扉を開けてうさぎに会いたい気持ちでいっぱいでした。しかしいままで積み重ねてきた臆病な自分がそれを拒みます。

「これからもずっと、熊さんは私の……ッ。」

突然言葉が不自然に途切れました。風がびゅうびゅう吹いています。心の奥が逆さまに撫でられたかのようにざわざわとして、熊はそうっと扉を開けました。

「まったくこの山のうさぎは間抜けなやつらばかりだなあ。」

そこには見慣れぬ生き物が不恰好に口元を歪めて立っていました。二本足で毛皮の代わりに布切れを身にまとっている。これが人間だと、熊はすぐにわかりました。

白くふわふわした耳を片手でひとまとめにつかみながら人間は冷めた声で笑います。

「まだ少し小さいな。もしかしたら去年捕まえたあのうさぎの子供かもしれないぞ。」

うさぎが目をめいいっぱいに見開くのが見えました。熊は目の前が真っ赤になりました。そして気がつけば扉を突き破り、人間めがけて襲いかかっていました。

「うわ、なんだこの熊は!」

たあんッと鋭い音が山じゅうに響きました。細長い筒が人間の浅黒い手の中で煙を上げます。腹のあたりに焼けるような痛みが広がります。

「いますぐこの山からでていけ。」

けれども熊は倒れませんでした。大きな足を地につけて、燃え盛るような眼光で目の前の侵入者をにらみつけます。舌打ちをひとつ残して人間は山を走り去って行きました。

「熊さんッ。」

名前を呼ぶ声を合図にしたかのように、大きな体がぐらりと傾きました。重たい音とともに枯れ草が舞い上がり、じわじわと赤黒く染まっていきます。

「熊さん、ねえ、熊さんったら。」

「うさぎ、さん……。」

ヒューヒューと嫌な呼吸の合間に弱々しい声が漏れ出てきます。一言だって聞き逃さないようにと、うさぎはその長い耳を近づけました。

「あのね、ごめん……ジャムのびん、わっちゃったんだ。」

「いい、いいよそんなこと。瓶なんてまた買えばいいんだし、ね、ジャムもまた一緒に作ればいいじゃない。」

「うん……ごめんね、うさぎさん。ごめん。」

うさぎの目からはぼたぼたと、夜の空気を閉じ込めたかのように透明で大粒の涙が流れ落ちていました。それが頬に当たるのを感じながら、胸のあたりできゅっと手を握り、熊はくしゃりとした顔で笑いました。

「僕もね、うさぎさんと出会えてからずっと、幸せだったよ。」

すうっと眠るように熊は目をつむりました。どれだけ名前を呼んだってもう首を縦に振ることすらありません。

西の空では昼と夜が何かの責任を押し付け合うかのようにぐちゃぐちゃと混ざり合っています。うさぎはもう、世界中の音がいっぺんに姿を消してしまったのではないかという心地がしました。

その夜、この冬初めての雪が降りました。



季節が巡り何度目かの春がやってきました。草木が溶けかけた雪の間から恥ずかしそうに顔を出し、小鳥のさえずる声が美しく響き渡っています。

「うさぎさんっ。」

草の陰からぴょこんとくまが飛び出してきました。まだ幼い手足をぱたぱたと動かし、うさぎの腰かける切り株へ弾むように駆けていきます。

「どうしたの。」

「ねえ、この前のジャムってまだある?友だちが食べてみたいっていってるんだあ。」

「じゃあ今度連れておいで。まだ少し残っているから。」

「やったあ!ありがとう、うさぎさん。」

こぐまは小さな手を叩き、ぴょこぴょことあたりを飛び跳ねました。

数年前の冬の日、熊がずしんと倒れた後、甲高い銃声を耳にして山じゅうの動物たちが二匹の元へ集まってきました。そこで彼らは知ったのです。今まで知らなかった、知ろうともしなかった熊の孤独と優しさを。

動かなくなった熊は山のみんなで協力して弔いました。柔らかな土の上に横たわった表情はとても穏やかなものだったといいます。

それから少しずつ山は変わっていきました。知らず知らずのうちに持ってしまっていた他の動物たちに対する決めつけや偏見を、無くしていこうという運動が起こり始めたのです。それを最前列で引っ張っていたのは他でもないこのうさぎでした。

目の前にいるこのこぐまにこんな昔話をしても信じてもらえないかもしれません。うさぎさんはお話を作るのが上手なんだねえと、笑うかもしれません。しかしそれはこぐまにとっても、そしてうさぎにとっても、本当に幸福なことであるように思われました。

まりのようにぽんぽんとはねていたこぐまは、ふと動くのをやめてこてんと首を傾げました。大きな瞳がまっすぐと、すっかり歳を取り一回り小さくなったうさぎへと向けられます。

「でもどうしてうさぎさんはこんなにたくさんジャムを作っているの?」

うさぎは澄み渡るような春の空を見上げ、ふくふくとばら色の頬をしたこぐまに目を向け、胸に手を置いてほほえみました。

「大切な友達の大好物なの。」

やまもものつぼみがこもれびを浴びてふっくら柔らかくふくらみはじめています。今年もきっと、ルビーのように鮮やかな実をつけることでしょう。





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[良い点] くまさんとうさぎさんのジャムを作っているときの光景が頭に浮かんでとってもほっこりしました。 [一言] 読めてよかったです。
[良い点] 文章・物語がまとまっていて、読みやすかったです。メッセージ性も分かりやすかったです。 [気になる点] 最後の方に教訓的なものを文章で出してしまったのは余計な部分だったかなと思います。
[良い点]  まるで、綺麗に折り紙を折って行くような、素敵な文章構成。  あらすじにあった「二匹に影が差す」の下りも丁寧に回収/描写され「うっ」と小生のハート(笑)を撃ち抜いて行きました。  子供達の…
2019/07/09 16:53 退会済み
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