第十二話 現代日本のカースト制度
就職氷河期を生きる我々は、正社員職に拘る人が多い。
そこに入れれば……ブラック企業でなければという条件がつくが……安定した生活が見えてくるからだ。
とはいえ、その椅子の数は常に限られている。
新卒キップを逃した者は、なかなか正社員職を得るのが難しい。
正確にいうと、まともな正社員職か。
ただ正社員になるのであれば、ハローワークに行って、いつも求人情報が掲載されている会社に入ればいい。
誰でもすぐに入れるが、名ばかり正社員なので続けるのは難しいであろう。
「碌な会社がないな」
ハローワークの求人がクソなのは、いつものことだ。
あそこになんのために行くのかと言えば、自分が失業したことを認定してもらい、今回は自己都合退職扱いなので、九十日間の待期期間が終わるまでに新しい職を得られなかった場合、食い繋ぐための失業手当を貰うためであった。
失業手当を貰うため、求人を検索して条件を満たすわけだが、どうせ家に帰ってネットで求人情報を検索するから見ているフリをしているだけだ。
そうしなければ失業手当は出ないので、まあこれは義務というわけだ。
その前に次の仕事が決まれば、それに越したことはないけど。
「月に一度顔を出しておけば、もしもの時には失業手当が出るからな」
それに期待する自分はどうかと思うが、なにしろ人はお金がなければ生活できないので、失業手当てはワープアの最後の命綱というわけだ。
「期間工かぁ……正社員登用アリねぇ……」
週末、新聞に挟まっていた折り込み求人広告に記載された求人情報の中から、とある大企業の期間工募集の記事を発見した。
しかも、かなり近くにある工場で、自転車で通えるのがいい。
今の時代、新卒キップを逃した者たちが安定した大手企業に就職するなど、まさに針に糸を通すような確率でしかあり得ない。
派遣会社を通じて派遣社員で働くのが関の山であろう。
派遣会社の求人広告は珍しくないが、大手企業が直接期間工の募集をかけるのは珍しいと思った。
自動車メーカー以外だが。
ただ、正社員登用の件については眉唾であろう。
過去にそういう人が一人でもいれば、そう書くのが求人広告の定番であった。
そんなことがわかる私は、立派なワープアというわけだ。
それでも、待遇があの零細スーパーよりも圧倒的にいい。
繋ぎとしては悪くないと思い、私は早速その大手企業に電話をかけてみるのであった。
「よろしくお願いします」
電話をしてから一週間ほどで、私はその工場に入ることが決まった。
どうも、私が思っていた以上に応募者がいなかったそうだ。
面接して、工場を見学し、健康診断をしてから必要な書類を書いて、あとは人手不足の場所に配置されて終了である。
その工場は半導体の基板を作る工場で、私は基板に機械で塗装をする仕事の担当になった。
基板を塗装する機械の操作を早速習うのだが、教えてくれたのは派遣の人だった。
「いきなり期間工で入れたんだ。運がいいね」
三十代半ばだと思われる、桑木さんとという男性の派遣社員は、世間話で私が入社した経緯について聞くと、私にそう言った。
「やはり、派遣の人たちの中から推薦を受けて期間工に……みたいな感じですか?」
「そうなんだけど、どうもそれでも人が集まらないって班長がボヤいていたから、直接求人広告を出したのかもしれない」
正社員>準社員=期間工>派遣>パート>アルバイト。
某自民党をぶっ壊す総理の政策により、今の日本に身分差があることが公となってしまった。
とはいえ、必ずしも正社員になれればいいというものではない。
正社員でも、前にいた零細スーパーのような例も多々あるからだ。
不景気なのと、正社員になりたい願望の強い人たちを奴隷待遇で扱き使うブラック企業により、必ずしも正社員に拘ればいいというわけではない。
とはいえ、期間工以下には退職金もないし、もしこれ以上に不景気になれば、簡単に切られてしまう。
企業が人手不足でも正社員を増やさないのは、法律によってなかなか正社員を切れないからだ。
期間工や派遣は簡単に切れるので、求人広告を出すほど人手不足なのに、正社員を増やさないというわけだ。
じゃあ、正社員を簡単に切れるようにした方がいいのかといえば、今度は不景気になると正社員が一斉に切られてしまうであろう。
どちらでも経営者側はいつも有利で、我々はただ翻弄されるのみ。
結局は、同じことなのかもしれない。
私には、どちらがいいのか判断がつかなかった。
「派遣を期間工にしてしまうと、それは派遣会社さんの集めた人を取る行為にもなるから、なかなか難しいみたいだよ。向こうも向こうで、人集めに苦労しているみたいだし」
さらに、せっかく集めた派遣もすぐに辞めてしまう人が多いそうだ。
派遣がいなければ派遣会社は潰れてしまうので、その確保に必死なわけで、企業としてもそう簡単に派遣を期間工にできない事情があると、桑木さんは教えてくれた。
「大丈夫そうだね。初めはちょっと覚えるのが大変だと思うけど、慣れればどうってことないから」
まあ、それでも辞める人は多いと、桑木さんは言っていたが。
「立ちっ放しが辛いって人も多いのさ」
私の場合、一日平均十時間以上も立ちっ放しで、他に重たい商品の運搬や陳列もあった。
工場は肉体労働とは聞いたけど、本当に重たい物はハンドリフトなどが使えるのでそう大変でもなかった。
スーパーにはそんなものはなく、米や飲料のケース、トイレットペーパーやティッシュペーパーの入ったダンボール箱の運搬で、腰を悪くする人も多かったのだから。
なにより、工場は決められた時間で終わるのがいい。
残業や休出があっても、決められた残業代もつく。
カレンダーで休みは決まっている。
不景気や事業の終了でクビを切られるかもしれないが、あのスーパーでは正社員でも社長の決定ですぐにクビを切られてしまった。
大企業の正社員でもなければ、どっちも同じなのであろう。
ああ、給料はこちらの方がよかった。
ボーナスも、正社員ほどではないけどちゃんと出るのもいい。
前の会社のボーナスは、あれは寸志と呼んだ方がいいくらいだったからな。
「スーパーも大変なんだね。でも、ここもそれなりに大変だと思うよ。ちょっとザワついていてね。派遣の連中がさ」
ああ、なんとなく想像がついてきた。
「私が、いきなり期間工として入ってきたからですか?
そういえば、入社する時に給料のことは誰にも言わないでくれと言われたな。
「期間工になれば給料も上がるからね。何年も目指している人がいるんだよ。彼らからすれば、いきなり期間工で入ってきた人に文句や嫌がらせもあるかもなって」
「あの、殴られますかね?」
「えっ! それはないんじゃないかな? さすがに」
「胸倉掴まれたりは?」
「それもないと思うよ。そういう系統のことはないはず。陰口くらいかなと」
「じゃあ大丈夫ですよ」
「君がいたスーパーって、どんな魔境だったの?」
魔境というか、奴隷船というか。
初の工場勤務であったが、私は勤められないというほどではなかった。
だが、桑木さんの言う通り、早速古株の派遣たちから口撃を受けることになる。
「そういえば、会社の連中がいきなり期間工を取ったんだってさ」
「いきなりかよ」
「派遣会社が人を集め切れないから、待遇をよくすれば人が来るかもって話らしい」
「順番が逆だろうが! 俺たちを期間工にするのが先だっての!」
「そうすると、派遣会社はいなくなった俺たちの代わりの人間と、足りない分の新しい人を集め切れない可能性が高い。だから派遣から期間工の採用はないんだと」
「ふざけるなだよな。こっちは何年やっていると思っているんだよ」
「期間工って、基礎時給が1200円らしいぞ。俺らは1050円なのによ」
「入ったばかりの役立たずにその時給かよ。やってられないな」
工場はいい。
決められた時間に休憩を取れるのが最高だ。
そう思いながら休憩室で休んでいると、早速桑木さんの言う通りの状況になった。
四十代と思われる派遣二人が、私の傍で、私に聞こえるように、私の悪口を言っていた。
あきらかにわざと聞こえるように言っているのだ。
会社としては、人手集めを派遣会社に依頼している手前、そう簡単に長年勤めてくれている派遣たちを期間工にはできないというわけだ。
期間工になると、雇用が派遣会社から大企業の方に切り替わる。
派遣会社は一人分実入りが減ってしまうのだ。
新しく人を取ればいいと、多くの人たちは思うであろうが、派遣はすぐに辞めてしまう人が多い。
私がこの工場に入って一か月経つが、新しい派遣二名は一週間と保たなかった。
派遣会社としても、派遣社員とはいえ社会保険などの手続きがあるので、そんなすぐに辞められると手間ばかりかかって大変なのであろう。
なにしろ派遣会社は、派遣がそれなりの期間働いてくれないことには収益にならないのだから。
ちゃんと働く人の確保が大変というわけだ。
同時に、ちゃんと働いても派遣のままだと給料も上がらず、では期間工になれるのかと言われればそれも事情があって難しい。
そんな中で、いきなり期間工として入ってきた私。
嫌味を言われるのも不思議ではないのか。
「内緒にしてくれって言われたのに、もうバレてる」
「期間工の時給なんて、ベテランの人に聞けば教えてくれるから、内緒にしても意味はないよ」
「桑木さんは、腹が立たないんですか?」
「いや、私はもうすぐ辞めるからね。代わりに塗装ができる人ができたから」
「桑木さん、辞めるんですか?」
それは、今初めて聞いたな。
「私もここは一年くらいなんだ。あくまでも次の繋ぎってわけで。思ったよりも長くなったけど」
桑木さんは、友人が立ち上げた会社に誘われたので、そこに入るそうだ。
必要な資格を持っているそうで、だから私が代わりに基板の塗装を習っていたわけか。
習うというほど大して面倒でもなかったけど。
口さがない社員に言わせると、ここの仕事は『誰にでもできる』というわけだ。
でも、その『誰にでもできる』仕事で昔は全員正社員になれた。
給料も毎年上がって、昔の人たちも大変だったのはわかるが、報われるだけマシとも言える。
なにしろ、派遣や期間工に混じって同じ仕事をしている五十代の正社員は、年収一千万以上貰っているそうだから。
同じ仕事をしている派遣は年収がその四分の一で、これは世代間で対立が深まるわけだ。
「一通りできるようになってくれたからよかったよ。でも、これからは夜勤の江田さんに注意しないと」
「江田さんですか?」
江田さんとは、夜勤専門の派遣であった。
夜勤専門なので、収入は昼勤の派遣よりもかなりいい。
その代わり、夜勤は体を壊すらしいと聞いたことがあったけど。
その夜勤専門で基板の塗装をしている江田さんは、朝、引継ぎの時くらいにしか会わないけど、普通のオジサンだと思う。
年齢は五十代後半であろうことは確実で、彼がどういう経緯で派遣になったのかは知らないけど、それを私が知る必要はないと思う。
「あの人、意地悪するから気をつけてね」
「意地悪ですか? どんなです?」
「そろそろ仕掛けてくると思うんだよね」
桑木さんの予想は、彼が退職してから当たった。
朝出勤して、江田さんから塗装の仕事を引き継いだのだが、機械がうんともすんとも動かなくなってしまったのだ。
私はマニュアルに従って、リーダーである若い正社員に報告する。
彼は正社員だが、江田さんに比べると機械にそこまで詳しくない。
暫く色々と原因を探っていたが、一向に機械は動かないので、班長を呼び出した。
なんということもない流れだが、前のスーパーでレジの機械が壊れた時、大塚店長はレジの機械を販売したメーカーに『一秒でも早く来い!』と脅しをかけていた。
ここではそんなこともなく、これが中小企業と大企業の差なのかもしれない。
どこかノンビリしているのだ。
「またか……」
「また?」
「江田さんだよ。時おりこうして機械を止めるのさ」
「どうしてです?」
「さあ? 俺が知りたいくらいだ」
結局、機械は直らなかった。
機械が直るまで仕事がない私は、上の命令で掃除だけしていたのだが、定時では帰れなかった。
夜勤にちゃんと引継ぐようにと、班長から言われたのだ。
引き継ぐと言っても、機械が動かないですと伝えるだけなのだが。
あと、リーダーが生産がひっ迫しているので、江田さんに最優先する製品のリストを渡すそうだ。
「機械が故障……わかった」
掃除だけするという暇な時間、さらに残業も掃除のみ、ただ江田さんに機械の故障の件を伝えるだけなので、今日はとにかく暇だった。
機械の故障の件を江田さんに伝えると、彼は途端に渋い顔を浮かべた。
まさか、自分のしでかしたことが、自分にそのまま跳ね返ってくるとは思わなかったのであろう。
半日機械が止まっていたので、生産は非常に切迫しており、私の責任も一パーセントくらいはあるかもしれないが、結局上も機械に詳しくなくて直せなかった。
かなり古い機械で、実はその機会に一番慣れていたのが江田さんだったというわけだ。
だから、こんな意地悪をしたのであろうが。
「そうだなぁ……ここの配線の接触が悪いとか……過去にあったかな」
江田さんはすぐさま塗装機械の故障個所を発見し、一瞬で直してしまった。
彼がその機械に詳しいので変とは言わないが、やはりリーダーや班長の懸念どおり、彼がわざと機械に細工をしたのであろう。
その後彼は、不機嫌そうな表情で仕事を始めた。
「またか。とはいえ証拠がないからな。会社としても、夜勤で塗装してくれる人もいないわけで、そう簡単には江田をクビにはできないだろう」
もう一人いる定年退職直前の正社員村田さんに、先日の機械故障の件を説明すると、彼も『またか』という表情を浮かべた。
「今さら江田の奴を期間工にもできず、奴もどうせ給料は同じだから、なるべく仕事をしたくないのさ。新人が入って塗装を習うと、定着した新入りはどうしても真面目に生産してしまう。それに釘を刺すためのイタズラさ」
私があまり真面目に仕事をしないよう、自分で機械止めて釘を刺したというわけか。
故意に生産を止めているので、クビになるのではと思わなくもなかったが、夜勤で塗装をする人がいないので、彼をクビにするわけにはいかないらしい。
それに、機械へのイタズラはたまにしかしないそうだ。
あとはちゃんと生産しているので、会社としてもクビにしにくいというわけだ。
そこに正社員を配置すると、どうしてもコストが上がってしまう。
夜勤専門の若い人を入れて江田さんに指導を任せると、彼は自分の仕事を奪われるのではないかと、苛めてなかなか定着しないそうだ。
これまで、何人も辞めているらしい。
そのせいで、派遣会社側も頭を抱えているそうだ。
機械をわざと動かなくするのも、自分の経験と知識をアピールして、若い人に自分の仕事を奪われないようにするため、というのもあるそうだ。
江田さんはそう簡単に次の仕事が決まる年齢でもなく、とにかく無理をしないで給料を貰いたいわけだ。
彼は基板を塗布する装置に詳しく、ただ機械を操作するだけなら一か月もあれば覚えられるが、故障時の対応、機械が古いゆえの塗りムラなどへの対応では、江田さんに勝てる人はいない。
そのアドバンテージがあるので、このような妨害行為をしても、証拠がないと言って社員たちも対応しないわけだ。
下手にそこを突いて江田さんに責任を負わせたとして、じゃあ誰がずっと夜勤で基板の塗装をするかという問題もある。
会社は、江田さんの立場を理解して辛い夜勤を押しつけている。
そこに正社員を配置するのは難しい。
どっちもどっちというか、この工場は日本でも屈指の大企業が操業している。
もし大塚店長なら、江田さんをぶん殴ってからクビにして終わりだろうが、その点、大企業の社員たちは上品な人が多い……と思えてしまう私も末期なのであろうが。
「機械が止まった時は、わかれば対応する。俺も江田ほどじゃないけど、それなりにあの機械には詳しいから」
ただし、『タイミングよくこの部署に来ている時だけだけど……』と村田さんは言った。
「お前さんは、ようやく長続きしそうな塗装ができる期間工だからな。班長やリーダーも、機械の故障でどうこうは言わないだろう」
「言われても、原因が故意だとどうにもなりませんよ」
「そう言うな。原因不明ってことにするのが一番都合いいからな」
「はあ……」
この仕事は、前の零細スーパーよりも圧倒的に楽な仕事だが、やはり問題のない職場なんてないのだなと、私はある意味納得してしまうのであった。