君と臓器と功利主義
二十一世紀後半。
日本という国は、ある危機に瀕していた。
医療技術の目まぐるしい発達により、国民の平均寿命が著しく伸びた結果、がんや臓器の機能不全などの症状を訴える患者が全国で激増したのだ。
それは遂に社会問題にまで発展し、数多くの人間が頭を抱えることになる。そんな中、一人の敏腕政治家が問題解決に名乗りを上げた。
彼が提出した法案は、常軌を逸脱したものだった。
故に数年間否決され続けたのだが、一向に改善されない問題に政府は大いなる決断を迫られ、そして遂にその法律案を可決してしまう運びとなる。
その名は「臓器くじ法」
内容を端的に説明すれば、国民一人一人に与えられた番号を明記したくじによって、ドナーと移植対象者の決定を行うというものだ。国から健康であると認められた者の内からドナーを十人、要移植対象患者認定を受けた患者の中から移植対象者を数十人選出する。
三日に一度行われるそれは、公正且つ絶対に不正がないように徹底された状況下で、国民によってその結果を固唾を飲みながら見守られる。
まさか、自分が選ばれるわけがない。
誰もがそう思っている。しかし、こうしている間にもくじ引きによって、国内の人間が確実に選定されている。一度当選した者は、身柄を拘束されて臓器を取り出される。つまり、死ぬのだ。それを拒否すれば、犯罪者として扱われることになる。
つまり当選してしまえば、それですべてが終わりということだ。これまで積み上げてきた努力も、金も、人生でさえもが水の泡になる。
だから会社の上司も、部下も、社長でさえもが、固唾を飲んでテレビのモニターを見守っている。きっと全国の政治家や権力者たちも震えているだろう。貧富の差は、選定に一切関係しないのだから。
選定者の発表は、ドナーが正午に。移植対象者が午後三時にメディア各局によって報道される。当然ながら視聴率は高く、それだけ己の生死について国民が関心を持っていることが伺えた。
「今日の当選者はーー」
ニュースキャスターが、十人分の数字の羅列を口にする。緊張しているのか、いつものことながら声が震えていた。衆人環視の重圧に震えているのではない。くじの結果に怯えているのだ。当然だ、運が悪ければ彼女も死ぬことだってありえる。この国で健康な者にとっては、誰もが無関係な話ではない。
発表が終わり、俺は静かに立ち上がった。
一抹の緊張が包んでいた場の空気も一転、普段通りに舞い戻る。いつもと違うのは、親しい同僚たちの視線だ。彼らは知っている。俺の恋人が移植対象者認定を受けた重病人だということを。
「なあ、もう今日くらいは仕事休んだほうがいいんじゃないか?」
「ああ、そうだな」
同僚は心配を露わにしながら、そう言った。
俺はそれに力なく頷いた。仕事は午後六時過ぎまで終わらない。そのため恋人の生死を分ける発表を、彼女と共に見ることができなくなるのだ。
「すみません、部長」
「いや、いいんだ。早く彼女の下へ行ってやれ」
長年世話になっている上司には、恋人のことも話している。その上で、彼は事情を組んでくれているのだ。俺は上司に深く感謝した。そして、この会社で働くことができて本当に良かったと改めて思った。
会社を出ると、蒸し暑い初夏の日差しが照りつける。
高層ビルディングに反射して煌めく陽光に、思わず目を細めた。昼のオフィス街は活気に満ちている。一見、平和そうな顔をしている群衆の中にも、これから臓器くじに当選する者が現れるかもしれない。
決して他人事じゃないんだ。
ふと、分かりきっていたそんなことを再認識させられた気がした。
病院に駆けつける。
もはや顔馴染みである看護師に会釈し、彼女の病室へと向かう。階段を二段飛ばしで上って、ようやく辿り着いた三階。廊下を西に進んだ所に、彼女の病室はあった。
「やあ、体調は大丈夫?」
額にかいた汗を拭いながら、彼女に声をかける。
寝そべっていた彼女は、俺の姿を見るなり半身をベッドから起き上がらせた。俺は急いで彼女の動きを制止し、再びゆっくりとベッドに寝かせる。
「もう、起き上がるくらい良いじゃない」
「俺のために無理してほしくないんだよ」
そう言うと、彼女はぐっと息詰まり、プイッと顔を背けた。頬を膨らませて、まるで子供のようなその所作が、実に彼女らしくて笑えた。
「もう、何で笑うのよ!」
「ははは、いや、ごめん。何だかおかしくてさ」
いつも通りのやり取りに安心する。
本当の幸福が、安息が、この病室にはあった。
殺風景な白色の部屋でも、彼女がいるだけで如何様にも華々しく見える。まるで部屋が純白なキャンパスで、彼女が多彩な絵の具であるかのようだった。
「でも、こんな時間に来てくれるなんて珍しいね」
彼女に言われて時計を見ると、時刻は午後一時過ぎ。
まだ肝心の発表まで二時間近くあった。俺は頬を掻いて、返答に困った。さて、何と言えば良いだろうか。仕事を抜け出してきたと言ったら、彼女はきっと怒るだろう。
「まさか、仕事抜け出してきたの?」
案の定、不機嫌な声で彼女は訊いてきた。
ここで嘘を吐こうものなら、一瞬で看破される上に、手痛いしっぺ返しを食らうこと間違いなしだ。培った経験が、情けなくもそう告げている。
だから俺は、真実を伝えることにした。
「実は、早退してきた」
「はぁ......」
俺の自白に、彼女はため息を吐いた。
しかしそれは困ったというよりも、呆れたという意味合いが籠っているようだった。やれやれといった風に、彼女は言った。
「本当に仕事はいいの?」
「ああ、部長にも許可を貰ったし問題ない」
「問題ないって、問題あるでしょうよ。うーん、私のためなのは分かるから嬉しいんだけど、素直に喜べないなぁ」
彼女はそう言って肩を落とした。
その心中を察して、俺も何も言えなくなる。
彼女はおそらく、俺に迷惑ばかりかけていると思っているのだろう。
だがそれは違うのだ。俺こそ、彼女に救われている。彼女がいなければ俺の世界は著しくその色彩を欠いて、味気なく無価値なものになってしまうのだから。
「私のことは心配しないで。たまには自分のことも考えてあげなよ?」
「でも、俺は君のことが大切なんだ」
「うぅ、もう、何で恥ずかしげもなくそういうこと言うかな......」
彼女は耳まで赤く染めて俯いた。
こうしていると、付き合い始めた頃のことを思い出す。
あれはそう、今から五年前。
俺はまだ十九歳で、当時は大学生だった。
彼女とは大学の講義中に知り合った。きっかけはふとしたことで、予期せず彼女との交流は始まった。
話してみれば驚くほど気が合って、俺はみるみる内に彼女に惹かれていった。きっと彼女もそうだったのだろう。しかし彼女の時折見せる意味ありげな微笑みが、いつも俺の心を不安にさせた。いつか、別れも告げずに去ってしまうかのような、そんな不安が付きまとっていた。
だから、俺は決断したのだ。
「俺と、付き合ってください!」
彼女との交流が始まって一年が過ぎた頃。
行きつけのカフェで、俺は彼女に告白した。思いの外響いた声に、周囲の客や店員の視線が集まるのを感じる。身を切るような羞恥に苛まれたが、それよりも、沈黙した彼女がどういった返事をするのかが、不安で不安で仕方なかった。
「ごめん、なさい」
そして彼女は、拒絶の言葉を口にした。
瞬間、世界が反転するかのような感覚に陥った。おそらく彼女も同じ気持ちでいてくれていると思っていた。それは思い違いだった。思い上がりだった。失意に陥る中、しかし彼女の続けて言った言葉が、俺に更なる衝撃を与える。
「私も、好きよ。でも、駄目なの」
「どうして?」
何か、事情があるのだろうとは思っていた。
しかし今までも敢えてそれを聞こうとはしなかったし、無理やり聞こうとも思わなかった。しかし今は、その事情が聞きたかった。でないと、とても納得できる気がしなかったのだ。
彼女はゆっくりと、事情を語った。
それは俺の知らない彼女の話であり、彼女の置かれた凄絶な運命の話だった。
「私はね、もう、長くないの」
「長くないって、どういうことだ?」
「ここに時限爆弾を抱えているのよ」
彼女は、自分の左胸を指して言った。
涙に滲ませた瞳は、俺を真っ直ぐ見つめている。
「まさか......」
「そう、心臓病よ。助かる手立ては、心臓移植だけ」
彼女は寂しげに笑った。
俺はようやく、彼女の抱えた秘密を知った。彼女は要移植対象者だったのだ。その当時からテレビを賑わせていた臓器くじ法。その当選確率の低さは、誰もが知るところだった。
つまり、彼女の生存は絶望的なのだ。
幸い病状は安定していて、今は彼女自身の日常生活に然程の支障はない。だがいつ病状が悪化するかも分からないために、安心もできない。
だから彼女は、告白を断ったのだ。
自分に待っている結末が、俺を苦しませることになると分かっていたから。
「私は貴方が好きよ。でも、だからこそ、ごめんなさい。貴方にはもっと他の女の子と、幸せにーー」
「なれるわけ、ないだろ」
彼女は驚きに目を見開いた。
衆人環視の下、人目も憚らず俺は彼女を抱いていた。この時ばかりは、如何なる好奇の視線も気にならなかった。ただ手の中にある彼女の温もりだけが、確かに存在を主張していた。
俺は、もう一度、言った。
「俺と付き合ってくれ」
「後悔するわよ」
「構わない」
「貴方より先に死んじゃうかも」
「構うもんか」
「貴方の子供を産めないわ」
「......それは、少し残念だけど」
「ばか」
「ああ、ばかだよ。でも俺は、ここで君を諦めるくらいなら、一生ばかでいたい」
「もう、ほんと、ほんとにばかね」
「本当にばかだよ。だから、気の効いた台詞を思いつかなかった。でも、気持ちは本当だ。どうか、俺と付き合ってください」
「はい」
そうして俺たちは恋人になった。
それから五年が経ち、現在。
何も変わっていないかのように見える日常は、しかし確実にその姿を変容させていた。
彼女の顔色は、やはり優れない。
俺の前では気丈に振る舞っている彼女だが、その病状は日に日に悪化の一途を辿っている。
彼女はもう、長くない。
移植対象者に選ばれなければ、確実に命を落とす。
彼女の主治医はそう断言していた。信じられない話だが、医者が嘘を言っているわけではないのは、日に日に衰弱していく彼女の姿を見れば一目瞭然だった。
そんな彼女に、俺は何もしてやることができない。
できるのはただ傍にいて、他愛もない話で笑わせてあげるくらいだ。そんな自分が歯痒くて、情けない。
「ねえ」
「何だ?」
呼びかけに応じて視線を向けると、彼女はいつもの笑みを消して真剣な眼差しでこちらを見ていた。言わんとしていることは分かっている。最近、彼女がよく口にするようになったことだが、俺はずっと拒否し続けている。
「もう、会いに来ないほうがいいと思う」
「またそれか」
「誤解しないでね。今さら貴方を遠ざけようだなんて思ってないわ。ただ、限界なのよ。もう貴方の前でも余裕を保っていられなくなる。自分の体のことだから、よく分かるの」
彼女はそこで一旦、言葉を区切った。
俺は何も言えなかった。彼女が自分の前では無理をしていることは分かっていたから。それがかえって彼女を苦しめているのかもしれない。
「最近、夢を見るの。貴方が死んでしまう夢。私は貴方に泣いて縋っていたわ。とても辛かったし、苦しかった。それは夢だから終わりがあるけれど、私が死んだら、貴方はずっとその苦しみを味わう羽目になる」
そんなの酷すぎる、と彼女は言った。
その言葉に、俺は胸を抉られるかのような思いだった。彼女は自分が死んだ後のことまで、残される者のことまで考えているのだ。
「もう三時だ。くじが始まる」
居たたまれなくなった俺は、時計を確認してそう告げる。
気がつけば病室を訪れて二時間が経過していた。そろそろかと思い、テレビを点ける。
両親の話によれば、数十年前まではリモコンなどと言うものがあったらしいが、今や手で決まった動きを取るだけでテレビが簡単に点く時代だ。
「もしもくじに当たったら、私は貴方の子供を産みたいわ」
「ちょっ!」
彼女の言葉に頬が熱くなるのが分かる。
冗談なのは分かっているが、彼女はよくこういった反応に困ることを言う。その度に反応する俺も俺なのだが。
他愛ない会話をしていると、遂にテレビでくじの放送が始まった。途端に会話は途絶して、テレビの音だけが病室内に響く。
「本日の当選者はーー」
聞き慣れたニュースキャスターの声が、恋人の当選を伝えた。
彼女の国民番号が、テレビ画面に映し出されている。
何度も見て、何度も願った、忘れられない番号だ。間違えるはずもない。
ああ、まさかこんなことが。
互いが呆然としたまま、顔を見合せる。
「ね、ねぇ、私......」
「ああ、当たった。君は、これで助かるんだ」
俺の言葉で、ようやく現実に返ってきたのだろう。
勢いよく俺に抱きついてきた彼女は、声を大にして泣いた。子供のように感情を露にする彼女を、俺は無言で抱き締める。
気づけば、俺も泣いていた。
それが喜びから来るものなのか。
あるいは、悲しみから来るものなのか。
この時の俺には、分からなかった。
泣き疲れて眠ってしまった彼女を寝かせて、俺は病室を後にする。
退室する際、彼女を振り返って別れの言葉を伝えたが、きっと聞こえなかっただろう。
それで、いい。
それでいいのだ。
外は夜闇に閉ざされていた。
薄暗い夜道を街灯が照らしている。
自宅アパートへ向かう。数十分も歩けば、見慣れた建物が見えてきた。案の定、俺の部屋の前には、屈強そうな数人の黒服たちが待ち構えていた。
「××××さんですね?」
俺に気づいた黒服の男が、そう尋ねてきた。
肯定の意を示すために、首を立てに振って答える。
「臓器くじ法に基づき、ドナーに当選された貴方の身柄を拘束させて頂きます」
男は無感情にも思える起伏に乏しい声でそう告げた。
そう、恋人に移植される臓器の提供者は、他ならぬ俺自身だったのである。
臓器くじは、哲学者のジョン・ハリスが提案した思考実験。日本語圏では「サバイバル・ロッタリー」とカタカナ表記されることも多い。
「人を殺してそれより多くの人を助けるのはよいことだろうか?」という問題について考えるための思考実験で、ハリスは功利主義の観点からこの思考実験を検討した。
※Wikipediaより引用