09話「血まみれの船出」
パルドノヴォは一気に緊張状態になっている、ブリバク人の門衛が、何を間違ったかマンゼア王国からきた使者を殺してしまい、生き残りを逃がしてしまったらしい。しかも太守が公然とその門衛と――意識していたのかいないのか――ブリバク人達の悪口を喚きたててから公開処刑にして、街の中央広場に腐るままに吊るしてある。おまけにこの前、石打ちで処刑された魔法使い容疑の者はブリバク人だったそうだ。
少し前までは仲よくしていたように見えたタハル人とブリバク人の間で喧嘩がよく起こるようになっている。隊商の仲間内ではそんなことはないが、ブリバク人達は外出を控えるようにしている。
こんな時期だからか、隊長からは結婚の話の続きはない。断る理由は探しても全くないのでもう少し状況が落ち着いてからと考える。考えていても落ち着かないので、数日前にどうせならばと当人のメサリアに、隊長から結婚しないかと言われたことを相談したが、「恋人程度の軽い関係ならいい。でもね、結婚は全く別の話よ。私が嫁入りするんだったら気にする必要ないけど、その話は婿入りなの。ここの一員になって習慣を切り替えないといけない。私と結婚するということは、ここの皆と結婚するということでもあるの。一番にテムル派に改宗し、本当に信仰しているか証明を続けながら風習を身に付ける必要がある。道中の生活を想像してるかもしれないけれど、あれはあくまでも客人として扱った態度。私との結婚を勧めたのも、こんな年増で財産もない女の扱いに困ってたからよ。彼から話は色々聞いたかもしれないけど、根っから商人だからいいことしか言わないの。人好きするような態度しかとらないから余計騙される。歳も考えなさい、私は母親ぐらいの歳なのよ。二番目三番目もらうっていうのならまた別だけど。他にまだ言い切れないぐらいあるけど、そういうこと全部理解してからにしなさい」と説教された。
だが考えれば考えるほどメサリア以外に考えられない。今日は話を少しでも進める話をしようと思い、いつものように勉強や訓練に引っ張り出しにくるのを持つ。待っていると、これから旅にでも行くように身支度を整えたメサリアがやってくる。
「どうしたその格好?」
「直ぐに出られる用意をしてきなさい」
何か言おうと思ったが、威圧感が強くてそれ以上言えない。自分の荷物を全部まとめ、メサリアの後ろをついていくと荷物を積んだ馬が二頭。泊りがけでどこか行くということか?
二人は馬に乗り、街中を進み、門の外まで出てしまう。会話もなく街道を進む。道を塞ぐ羊の群れをメサリアが空砲で追い払う。抗議しようとした羊飼いだが、銃口を向けられて引き下がる。いつもの彼女じゃない。
日が昇ってくる頃には風のにおいが変わり、海が見えてくる。ここからでは小さいが、大きな船が沖合いにいるようだ。メサリアは望遠鏡で海を見て息を長く吐く。
「どうした?」
「商船旗が青地で割銀円の右が錨、社旗は星食らう八頭龍、あの規模の大型船。もしやと思ったけど運がいいわ」
「ん?」
昼になる前に海側の港町に到着する。もうこの海はマリエン川やザフカーク川が注ぐアモラタト海だ。市場には海の魚が蝿に集られて並ぶ。川魚とは比較にならないような魚、人の背丈を越える魚を解体しながら売っている店がある。
中央広場には仰向けに倒れた化物に槍を突きたてている騎馬銅像があり、台座にはパルドノヴォの英雄リーレス=ザルンゲレンと銅版が打たれてる。
「なぁ、これルノロジャ卿じゃないよな」
「ルノロジャ……そう、その本人よ。知ってるみたいね」
「え、マジで!? でもあの人、ザルハル方面軍の軍人だろ」
「アルドカリス朝になってからシェテル帝国は戦争続きでね。金欠になってここを売ったのよ。ウィーバル方面軍が心血注いで整備したこのパルドノヴォをね。反乱起こすのも分かるわ」
「嘘だろ」
「ヤキが回ると嘘みたいなことをやり出すものよ」
広場を過ぎて港に入ると、行きかう人が水夫や作業員、そして漁師ばかりになってくる。
灰色の制服や青い制服を着た軍隊のような人達がいるところに一般人の行列が出来ており、メサリアが馬から降りて並ぶのでそれに従う。星に齧りついている頭が八つの蛇みたいな旗の下に立て看板があり、中大洋社臨時面接会場と書かれている。シェテル語は一つ一つの単語が分かってもまだそれが複数並ぶと意味不明なことが多い。読めたが意味が不明だ。
メサリアの順番になり、そうかと思うとメサリアが自分を先に席へ座らせる。正面には長机があり、そこの席に三人が座ってこちらと対面している。
向かって左、背景に溶け込むように身じろぎしない灰色の制服の色男。制帽に付けた牙飾りがシャレてる。
向かって右、青い制服を着た、賊ものの圧力を発する長毛の猫頭。イシュラの狼頭は村でも時折見るので驚きはしない。机の上に二角帽を置いている。
中央、両隣と違って純真な少女のような笑みを浮かべる女。白の半袖の、昔見たことがある東方の遊牧民族の服を着ている。襟元、袖元から伸びた刺青の蛇みたいな頭が首の両側面、両手首まで絡みながら伸びている。ある意味一番悪党に見える。
メサリアが耳元で呟く。
「あの女、にこやかに見えるけど気を抜いたら駄目よ。馬鹿はあれで簡単にだまされる」
「何だそりゃ?」
やる気のなさそうな両隣をさて置いて、愛想のいい女が両手を合わせながら口を開く。
「これはメサリアさん、お久しぶりですね。去年は素晴らしい本を十七冊も紹介して頂いて感謝しております。航路のよき友となりました」
愛想のいい女は膝に手を置いて深々と頭を下げる。
「こちらこそ代表、価値が分かる方にそう言って頂けると助かります」
「ふふふ……あなたは商品を売りにきたようには見えませんが、お連れの男性の方が入社を希望されているのですか?」
「そうです」
何を言っているか直ぐに理解出来なかったが、望み通りではないことに気付いて声を上げる。
「どういうことだよ?」
「言う通りにしなさい。あなたみたいに若い奴はここで犬死しちゃいけない」
「何だよ犬死っていきなりよ」
「マンゼア軍がここに攻めてくる」
心臓が跳ね上がる。
「え!? 何でだよ」
「使者殺しの話は聞いたでしょ。報復にくる」
「メサリアはどうすんだよ。一緒にこねぇのかよ、一緒じゃねぇのかよ?」
「こんな年増に拘るんじゃない。あなたは外に出なさい」
席を立とうとしたら引っ叩かれる。拳骨でも蹴りでもない、平手打ちだ。全然痛くない。
「座りなさい」
反抗の気力がなくなり、席に座り直す。気を取り直さんと代表は手を叩く。
「よろしいでしょうか? お二人とも始めますよ」
その声に応じて、色男が目線だけこちらに向け、猫頭は鼻を啜りながら頬杖を突く。
「まずは自己紹介をして頂きましょうか。どうぞ」
混乱から完全に覚めてはいないが、ここで馬鹿な真似は出来ないと悟る。
「名前はノルトバルです。出身はザルハルのマリエン軍。歳はたぶん一六、七から二○くらいです」
「ノルトバルさんですね。はい、今までされていたお仕事を教えてください」
「住んでた村の仕事の手伝いなら一通り、刈り入れとか家畜の世話とか狩りとか漁とか、道具作りも大体やってます。それからマリエン軍ルノロジャ連隊に従軍して、負けて、タハル人とブリバク人の隊商に入りました」
「なるほど、色んなご経験をされていますね。従軍していた時に何か功績を挙げましたか?」
「あ、あります」
荷物袋を漁って、勇敢勲章を出して見せる。
「敵の野営地に突撃して、大砲に釘打ってた時に士官を生け捕りにして貰いました」
「それはシェテル帝国の勇敢勲章ですね。その若さで授与されるとは立派なことです」
代表が何か言って欲しそうに両隣を見やる。
「提督、お願いします」
猫提督が口を開く。
「野蛮人の若造にくれてやるにしちゃ色っぽい代物だな。証拠があれば信じてやる」
頭に血が上りそうになるのを我慢する。
「次、先任海兵士官、お願いします」
色男が口を開く。
「大事にしなさい」
随分渋みがかっているが女の声に聞こえた。髪が短いのに女?
「んー、ふふふ、うん、はい、このくらいでいいでしょう。では次に移りますよ」
そうしてから矢継ぎ早に質問が始まる。まず最初、木の板に即興で書いたシェテル語の文章を読まされる。次に喋った言葉をシェテル語で木の板に書く。簡単な足し算引き算を暗算でやって、掛け算割り算もやる。木の板に書かれた星座の名前を当てる。ある国の特徴が挙げられ、そこから国名を当てる。各種族の特徴を聞かれる。他に色々なことを聞かれ、考えさせられるが比較的簡単でスラスラ答えることが出来た。
「素晴らしいです。一般教養に関しては問題ありませんね。じゃあちょっと難しくしてみましょう。イシュラ哲学を要約して説明してください」
「狼頭どもは糞真面目で、え?」
急激に難しくなった。
「はい。次は少々予測等が入っても構いません。シンパラで品質に問題のない三○樽の胡椒を銀で買いました。これをヘジャンで完売して金で受け取りました。胡椒、銀、金の相場はその地域での五年内の値ならどれでも構いません。利益は何フェントですか?」
まず相場が分からず、今まで見た本や隊商の皆の会話から拾い上げようと記憶を巡らす。
「ちょっと難しかったですか。相場は常識範囲内での仮想値にしていいので、代わりに計算式からお答えください」
それは難易度が下がったのか? と疑問に思っているうちに時間切れ。
「なるほど。ナレザキーヤ、俗にウジャニ騎士道と呼ばれる思想に必要とされるものは何でしょう」
「ナレザキ?」
「はいありがとうございます。じゃあちょっと身近な話題で、八大貿易港に数えられるザルグラドとルファーランですが、その位置は非常に近い所にあります。貿易を行う上で競合しないところを挙げてください」
知っている地名で安心させておいて、その次には全く理解不能なことが続く。
「そうですよね。世界最古の共和制国家で今も続くルファーラン共和国には終身国家元首と呼ばれる地位がありますが、どのような批判が一般的ですか?」
共和制は選挙権がある奴が選んだ議員が国を運営する。それで終身国家元首?
「選挙と無関係でズルい」
「ええ、そういう言い方もあるかもしれませんね。うん、いいでしょう。では次からは自由にお答えください、どう答えれば正解という質問ではありません」
そう言われると裏がありそうで怖くなってくる。
「人に暴力を振るったことはありますか」
「あります」
「お金はどれくらい欲しいですか」
「はっきりしねぇけど、困らないぐらい」
「嘘を吐いたことはないと言えますか」
「あると思うけど、あ、思います」
「戦士と学者どちらが優れてますか」
「何とも言えないです」
「”天の目”をどう思いますか」
「”天の目”が見てるから悪ぃことはすんなってジジイどもが言ってました」
「じゃあこれで最後です。私を見てどう思いますか」
「え?」
今まで真面目な質問が続いてきたと思ったらこれか。何を企んでる? 表情からは意図なんて伺えない。まず分析か? 髪は黒くて長くて綺麗、メサリアすら負けそうだ。肌は白い。笑った顔が可愛いような不気味なようなで、目が狐っぽい。刺青も不気味、服は立派。全体的に金持ちっぽい。言葉を決めた。
「何か、狐みてぇな面してますね」
メサリアから拳骨をお見舞いされる。代表は口に手を当てて笑い、猫提督は歯を食いしばって笑い、先任海兵士官はニヤっと笑う。周りも笑ってる。
「謝りなさい」
「何だよ、狐可愛いじゃねぇかよ」
「まあ、メサリアさん結構ですよ。さて私からは終わりです。さて提督、先任海兵士官、どちらから始めます?」
猫提督は「むう」と唸って先任海兵士官に顎を向ける。先任海兵士官は立ち上がり、舳先で羽を休めているカモメを指差す。
「銃の腕前を見せて」
先任海兵士官には膨らんだ胸があった。あれで女なのか? 雑念は振り払って、火縄の用意をして、弾薬を装填する。そして当てる自信がなくなる寸前まで距離を取る。周囲からは軽い口笛や心配するような小声、駄目だこりゃと首を振られたりもする。カモメが飛び立つ。「あーあ」などと声が上がるが慌てないし足も動かさない。
船の旗が風に揺れる方角をみて風向風速を確かめる。向かって右奥に時折やや強めに吹いている。息を止めるか止めないかぐらいにゆっくり吐きながらカモメに風向風速分を調整して照準を合わせながら引き金も引きながら、火縄銃を揺らさないようにしていると引き金が引かさる。
銃声、カモメが羽根を散らして墜落、命中だ。歓声と拍手と甲高い指笛が鳴る。
席に戻る。代表は小さく拍手をする。両隣は大きな反応はない。
「これはお世辞ではありません、将来有望とお見受けしました。海兵隊員として預からさせて頂きます」
契約書を取り出し、代表がまず署名し、反転してノルトバルへ。
「契約内容のご確認をお願いします。納得して頂けましたら署名をお願いします」
メサリアが肩を叩く。契約書に目を通し、納得がいかないのかどうなのかわからないままに自分の名前を書く。代表が受け取る。
「はい確かに、ノルトバルさんですね。正式に我が社の海兵隊員として登録させて頂きました。我々も後程乗船いたしますので、先にノルトバルさんは乗船していてください。海兵隊員の先輩の方に何の仕事をすればいいか聞いて下さい。それでは次の方どうぞ」
面接会場から離れる。海兵らしき人がこちらに歩いてきて、メサリアがノルトバルの肩に手を置いたら足を止めて背を向けた。
「メサリア、一緒じゃ駄目なのか? 俺よりウン倍も凄ぇんだし、あんなん楽勝だろ」
「私達は都市から生きる糧を得て、普段は商売をして、有事には命を持って報いるのが義務。客人で、他人でまだいられるあなたは逃げなさい」
「俺じゃ駄目なのかよ」
メサリアは眉間に皺を寄せ、そいて堪えきれなくなったように抱き付く。横顔がすり合わさり、髪が鳴る。
「あんたがきた時、旦那と息子が戻ってきたみたいだった」
深呼吸一つ。
「これで私の夢は終わり。ありがとう、愛してる」
体が離れる。
「さようなら」
ノルトバルの思考は停止したまま、メサリアの青い目から離れない。メサリアが顔を背けてやっと意識が戻った。いつの間にか地面に落ちていた荷物を持ち上げる。気まずそうにしていた海兵が手招きする。
突然大きな音が二回鳴り、崩れる音が聞こえる。振り返ると、港町の建物が煙を上げている。
猫提督が信じ難い大声を出す。
「伝令、各艦長に出港用意させろッ! 海兵隊は陸で酔っ払ってる連中を掻き集めてこい、死体になってでもだ!」
水夫と海兵達が弾かれたように動き出す。
また大きな音が鳴る。メサリアがノルトバルの襟首掴んで何か叫ぼうとする、引かれて頭を下げたノルトバルの頭上を何かがものすごい勢いで風を切って通り過ぎる。何かが過ぎた先を見ると、地面が抉れ、その先にあった倉庫の石壁に穴が空いている。これ、大砲か?
頭を上げると何か顔に掛かって視界が塞がれる。メサリアに土で目潰し食らった時を思い出しながら顔を手で拭うと妙に暖かい泥? 色は赤いような黒いような。
赤くて赤黒くて白い、変な物が顔の近くにある。何だこれ? 変な物はノルトバルの襟首を掴んでいる。誰だこれ?
顔がないわけではないが、下顎と舌に残った髪の毛、耳も一つぶら下がってるだけの死体だ。メサリアに冗談一つでも最後に吹いてやろうと見回すがいない。死体がのしかかってくる。受け止めると、この感触は覚えている。
見下ろす。いつもなら頭かどこかに当たるが、そのまま下に顔が向く。首から血が噴き出ている。
これがあの美人のメサリア?
顔に衝撃があってノルトバルは転がる。一緒に死んじゃったかと思っていたら、先任海兵士官が胸倉を掴んできて無理やり立たされる。急にどうしたかと立っていると、先任海兵士官がメサリアの身体を探って取り出した物をメサリアの荷物袋に詰めて背負わせてくる。刀も腰帯に突っ込まれ、火縄銃の負い紐も肩に掛けられる。
「自分で歩ける?」
声が聞こえたがよく理解出来ずにいたら肩に担ぎ上げられる。そして運ばれて、配置について櫂を持つ水夫達が乗る小型艇に放り込まれる。
それから次々に水夫に海兵達が乗り込んでくる中に混じってこちらの隣に先任海兵士官が座り、小型艇の係留索が外される。
「よし出せ!」
桟橋に引っ掛けてた鉤竿を水夫が離し、長い棒を持った水夫が桟橋を押して小型艇を離し、櫂を持つ水夫達は一斉に漕ぎ出す。櫂が波を掻き、水夫達が荒い息を吐く。まだ街を砲撃している爆音が轟いている。
揺らいで見える港。そこにメサリアを残してきてしまった。荷物袋に手を突っ込むと血まみれの首飾りだ。そう言えばこんな物も付けてたかな。
小型艇が船に近付く。耳を塞いでも聞こえてくるような、鼓膜に突き刺さるような号笛の鋭くて甲高い音が図をするような調子で吹奏される。
あとからきた小型艇が先に船に取り付き、猫提督や代表に偉そうな連中が乗り込み始める。「艦長、揚描、船舶、人員物資収容の他、出港用意よしッ!」と声が響く。
次はこちらの番になって小型艇から船に乗り移る。波に揺さぶられ、小型艇と船の胴体が獲物を食おうとしている化物の口みたいにガツンガツンとぶつかり合う。
「そこの血塗れの陸もん! 波が緩いからって油断するなよ! 船に挟まれたら簡単に潰れちまうぞ」
派手に上下する船上は立つのがやっと。手馴れたように水夫達はひょいひょいと船にぶら下がる縄の網に掴まって乗り移っていく。
「私の田舎じゃ”魂には救った者の手形が付く”と言う。あなたにはある?」
じっと座っていると先任海兵士官がそう耳打ちしてくる。糞っ垂れ、タルバジンとロバとメサリアの手形が血が付くぐらいある。
小型艇が波で押し上げられ、一瞬安定したところを見計らって縄の網に掴まり、上って、体勢を崩して転がるように乗り込む。
「邪魔だ転んでんじゃねぇ!」
脇腹を誰かに蹴飛ばされ、ぶち殺してやろうと刀に手を掛けながら立ち上がると、もう乗り込んだ先任海兵士官に身体を押され、服をふん掴まれて何も出来ずに引っ張られて船上を進む。
「あんたの仕事はこっち」
縄が頭のイカれた大蜘蛛の巣のように張り巡らされ、見たこともないような連立する巨大な柱には広場も覆い尽くせるような馬鹿デカい帆が括り付けられている。
途中にあった部屋にノルトバルの荷物は放り込まれ、血塗れの外套も脱がされて雑巾か何かで顔を拭かれ、身軽になってから船の奥に連れ込まれる。
長くて太い押し棒が何本も差し込まれた円柱が中央にある部屋に到着。意味は分からないが細い縄や特別太い縄があったりする。水夫に海兵達が次々に押し棒へ取り付く。先任海兵士官に肩を叩かれ、同じように押し棒へ取り付く。隣で押し棒を掴む先任海兵士官の手は二回り以上はデカい。
士官の号令が入り、どこからか太鼓が一定の調子で鳴り始めてそれに合わせるように押す。全員呻き声を上げながら力の限り押す。となりの先任海兵士官も呻り声を上げ、噛み合せた犬みたいな牙を光らせて踏ん張る。張り詰めた縄がビシビシとはち切れそうな音を立てる。押し棒と足が前に進むたびにガチンガチンと規則正しく機械の音が部屋に響く。
一番太い縄がどんどん引き込まれてくる。海水の臭いが、汗の臭いに混じり始める。床は皆の顎から垂れる汗で黒ずむ。
腕の感覚がなくなってきて肘が曲がり、胸が押し棒に張り付く。足がそのまま空へ飛んでいくような浮付いた感じになってくる。そして急に巨大な柱が動かなくなる。これでお終いか?
「まだ索だけだぞ、次は描だ! 気合入れろ!」
まだ、らしい。渾身の力で押す、周りの皆も押すが、やはり動かない。靴の底が剥げるんじゃないかと思えてくる。
頭の中で、マリエン川で村の持ち回りで船曳きの仕事をやっていた時の歌が流れる
エイ、ホーヤ、エイ、ホーラ! 村は直ぐそこ
エイ、ホーヤ、エイ、ホーラ! まだ曳け、次まで曳け
だったっけ? 頭が朦朧として腰が抜けるかと思い始めた頃、酒臭い連中が駆け足で入ってきて押し棒へ取り付き始める。
「やっときたか酔っ払いども! 索切って出港するところだったぞ!」
それからも士官は矢継ぎ早に口汚く声援を出し続ける。海水に底の泥、血と汗と酒と食い物と香水のような臭いが入り混じり、疲労も手伝って吐き気がしてくる。目の前で緑色の光がチカチカし始める。
巨大な柱がまた動き始め、足が前に進む。機械がガチンガチンとまた音を立てる。
「いいぞ! ここまでくればあと少しだ、踏ん張って男を見せろ男を! おお、一人男より凄い女がいたな!」
まだか、まだか?
「押し方止めェ! 揚描作業収め方始め! よしよくやったぞお前ら! 力自慢の大仕事は終わりだ!」
終わりを告げられ、力が抜けて膝が床に付く。顔が身体が息が熱い。
「邪魔になる」
先任海兵士官に担がれ、成す術もなく運ばれる。ヘロヘロになりながらも水夫達は部屋の後片付けをテキパキと始める。
「まず寝床を決める。それから荷物の整理、血塗れでうろつかれても困るから洗濯。それが終わったら配置を決める。私が着てるこの制服、灰色は海兵のものね。これの支給はたぶんしばらくない。分かった?」
息が切れて言葉も出ないがそれらしい返事をする。