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05話「川と山の向こう側」

 全身に衝撃、体中から鋭い痛みが走る。白と灰の斑空から雨が降っている。色褪せた色は縁起がいいんだったか?

 抱き起こされる。酷ぇ臭いだと思ったら、見慣れた皺くちゃ白髭面のタルバジンだ。

「目ぇ覚めたか」

「ああ? よく分かんねぇ」 

「傷は全部縫った。おめぇのあれ、酒、洗うのに全部使っちまった。雑で破傷風になったとか言っても知らねぇからな」

「傷?」

 寝起きで頭がハッキリしないが、意識が朦朧としている中で敵に斬られたりなにか色々されてたことを思い出す。タルバジンの体に思い切り体重を掛けて支えにして立ち上がる。足元に見知らぬ馬が倒れてる。これに乗ってたのか?

「俺の馬は?」

「おめぇのもワシのももうどこ行ったか分からねぇ、こいつも誰かくたばった奴のだ。アルーマンの連中は馬の扱いに関しちゃ達人だ。いい奴に拾われたことを”獣の母”にでも祈っとけ。ワシはもうやった」

 タルバジンは短剣を抜く。ノルトバルは苦しそうに鼻息を吹いて喘いでいる馬を見つめる。水筒も取り出し、短剣で馬の首の血管を切って中に入れ始める。ノルトバルは自分の腰帯にぶら下げた水筒の中を飲んで空にし、手渡して満杯にしてもらう。それからは直接傷口に口を付けて血を飲む。飲み終わる頃には馬はもう息を止めた。あとは無言のまま二人で馬を解体。脳みそは手間だから省いて、内臓を浅く掘った穴に埋めて”獣の母”にお祈りを簡単に済ませてから肉を取り出す。雑に剥いだ皮を袋にして中に肉を詰め、木陰に移ってから塩塊を砕いて肉に揉み込む。

「行くぞ」

 黙ってタルバジンの背中を追う。川沿いの道に出る。道と言っても人通りが普段からないからかほとんど草に埋もれてる。雨で増水した川を唸りを上げ、泥を巻き上げて茶色く濁ってる。

「皆どうなった?」

「マリエン軍は壊滅だな。ルノロジャ連隊も同じだ。俺はおめぇ一人引っ張ってくるので……」

 言葉は途中で切れた。

「連隊長言ってたけどよ、負けたのに生きてていいのか?」

「馬鹿かおめぇ、あんなんただのハッパ掛けじゃねぇか。真に受けてたらワシなんざ百ぺんはくたばってる」

「そうなのか」

「家にも帰れるぞ。毎度毎度負ける度に皆殺しにされて骨になってたらキリがねぇぞ。それに誰が拾うんだよ。勝ち負けの分からねぇ戦だってある。気にすんな」

「うん」

「ただ、たぶん村にゃ向こうから移民やら役人やら何やらが入り込んでくる。直ぐか時間置いてからかは分からねぇがな」

「どうすんだ?」

「そんときゃ戦は終わったあとだ。馬鹿な真似はすんなよ、ほんとに骨になっちまうし拾ってもくれねぇ」

 川沿いにある村が見えてきた。普通ならここで喜ぶところだが、タルバジンの足取りは重くなってきた。

「この辺って今のマリエン軍でも匿ってくれる所あんのか?」

「旧ラップロープ軍の連中だったら問題ねぇと思うが、今誰が住んでるかなんて分からん。マリエンとザフカークの二つに軍を再編する前の昔だったらどこそこに誰がいるって勘で分かるんだがな……あぁー、再編で痩せた土地にしがみ付く必要がなくなっちまったから覚えてるとこに村がねぇんだよなぁ。まだ呆けてねぇなら昨日通り過ぎたとこにマンゼアから集団で逃げてきた農奴の村があったはずなんだけどな。あそこの熊みてぇな、あー名前何だっけな、ユーリカだかって呼んでた野郎がくたばってなきゃいたんだけどな。あの博打狂い、身包みどころか実まで剥がされそうになったの助けてやった借り返してもらってねぇんだよな」

「じゃあれ、通り過ぎんのか?」

「逃げるにゃ物がいる。槍ぶっ刺されようが腹減り尽くそうがくたばるんだ。協力してくれねぇなら協力しねぇさ。”慈悲なくば慈悲をなく”だ」

「二人で村襲えんのかよ」

「まだ襲うって決まってねぇよ。礼に礼で応えてもらえりゃそれでいいんだ」

「ザフカークだったら?」

「敵になっちまったもんは仕方ねぇ。いくらザフカークったって、もう木の弾使うわけにもいかねぇな」

「木の弾?」

「ああ。火薬の分量いじる必要があんだが、木ぃ削った弾で撃てばぶん殴った程度の威力になんだ。昔それで死人の出ねぇ撃ち合いの訓練やろうとした奴がいた」

「やったのか?」

「銃ぶっ壊れたり、くたばったり、ヘナチョコ弾で飛ばなくて、成功しても怪我人出て、おまけに木の弾作んの面倒くせぇから一回で終いだ。船大工のジジイいるだろ、奴が片目潰したのそん時だ」

 村に入ると、集会場からは喋り声やら物音がする。あとは静まり返っている。タルバジンは家の中を窓から覗いて様子を見ている。

 ノルトバルは縁なし帽を脱ぎ、胸に当てながらどう礼をして挨拶すればいいか考えながら集会場の扉を叩く。扉を開けたのは、剃り上げ頭に顎下まで伸びてる口髭で、高い鷲鼻が何度か骨折したようで鼻筋が複雑に曲がってる男だった。

「どうしたおめぇ、隊からはぐれちまったのか?」

 ノルトバルは体も口も動かなかった。男が履いているズボンはダブダブな物で、頭から爪先までザフカークの男そのものだ。自分の剃り上げ頭を見てマリエン軍とまだ気付いていない。マリエン軍の軍服が汚れていてよく分からないのだろうか、それとも酔っ払ってるのか?

「あん、どうした? 口利けなくなっちまったのか」

 頭を撫でられる。まるで同胞に接するかのように優しい。なにをどう誤魔化したらいいのか、それとも正直にマリエン軍と言った上で匿ってもらえばいいのか全く分からない。

「うん? あ、おめぇその服マリエン軍じゃねぇか。あ?」

 先に仕掛けて殺すしかないか?

「ふぅ、やれやれ」

 タルバジンの呆れたような声が聞こえたかと思うと突き飛ばされて地面に転がる。バタンっと勢いよく扉が閉まる音が聞こえ、起き上がって集会場を見れば扉は閉まっている。タルバジンが見えない。代わりに集会場の中からは怒声と刀がぶつかるような金属音に銃声も混じってる。何十人もの男の声が聞こえてくる、いくらタルバジンが歴戦だからって勝てる人数じゃない。退路も塞いでる。

 自分を逃がすために犠牲になりに行ったと理解した時、川に向かって足が動いた。桟橋に向かい、岸に上げられている小船を見繕い、その辺に転がってた櫂を放り込んで川に出そうとする。雨で増水した川を唸りを上げ、泥を巻き上げて茶色く濁っている。飛沫を上げて渦を巻いている所もある。戦ってスッパリ死ぬか、川に食われてみっともなく死ぬか……生きるか。

 今まで真剣に祈ったことはなかったが、死に際になると本当に縋りたくなる。”彷徨う者”に安全を祈る。遊牧が主体だが、旅や冒険にも恩恵をくれる世界の支配者らしい。”獣の母”じゃないので祈り方とかよく分からないが、頭でそれっぽく言葉にもならないが祈る。

 小船を川に入れる。縄で桟橋とつないであるがもう流されそうだ。転覆しないように小船に乗る。増水した時に川へ出たことはない。命と引き換えに一日二日分程度の魚なんて獲ってられない。縄を解こうとするが、川の流れで縄が突っ張って結び目も硬くなって手が出ない。短剣を縄に当てる。タルバジンは……縄を切る。

 小船はあっという間に濁流の中へ入っていく。揺れが酷くていつ転覆するか分からない。川で糞する時の要領を思い出し、小船が傾く時、傾く直前の時に体重を移動させ、時には船縁を足で押して傾けて安定を図る。向こう岸にでも着岸出来ればいいが、舵を取る余裕などない。命がけのまま流されるまま夜を向かえ、心も体もすり切れてくる。早くどこかへ座礁でも何でもいいから。

 昔から大抵隣には誰かいた。いなくても、息遣いや気配を感じないことはなかった。周囲に人がいなくても、直ぐに帰れる場所には気の置けない誰かが必ずいた。今は?

 寒さとなにかで体が震えてくる。それでも転覆しないように気を配り続ける。起きているのか寝ているのか分からないまま。

 黒い空が白くなって赤みが刺す頃、小船が水中から頭を出す草むらの中に突っ込んで、勢いが切れるまで突き進んで船底がどこかに当たって止る。どこかの岸に辿りついた。体は動かない。これで駄目ならもういいや、と諦めて目を閉じる。

 耳元に聞きなれた、甲高い羽音が聞こえて反射的に耳を叩く。蚊だ、命中したかは知らない。小船から身を起こし、浅瀬の草むらを掻き分けて岸に上がる。場所は不明、複雑なマリエン川は支流だらけで迷路だ。ここがどこだか分からない。空を確認、雨が晴れて青空も見えてすっきりしている。少しか丸一日か寝てしまったようだ。

 服に靴、道具を干す。小銃はなくなってる。拳銃と刀と短剣、金槌も無事。火薬は濡れている。折角の馬の肉はもうない。知らない内に落としたようだ。水筒、腐らない内に馬の血を飲み干す。乾いた喉には少々キツいが。所々ある、もう少し雑でいいだろうと言いたくなるぐらい丁寧に縫われた傷口は、服の上から雨にさらされた程度で汚れもない。仕立て屋じゃねぇんだぞ糞ジジイめ。石を拾ってその辺に投げる。

 しばらくなにも考えないようにして座り、日が天辺にきたあたりで立ち上がる。生乾きだが、歩いてる途中で乾くだろうと着替える。そういえば帽子がない。そして遥か上流の対岸を眺め、顔をグチャグチャに掻き回してから出発。

 人の足が入っているのかいないのか、川辺の近くにあった道はデコボコして泥だらけ。草の陰には落とし穴同然に水溜りがあり、何度も足が滑って落ちそうになる。泥に塗れたカラスの死体があり、拾い上げて食えそうか臭いを嗅ぐ。間違いなく腐ってる、捨てる。

 敵から逃れるように下流へ向かって歩く。肝心の敵、どころか人の気配すらないのは運がいいのか悪いのか。屋根が崩れた小屋が見えればこの世に留まっていると実感出来る。

 その小屋に簡単に手を加えて寝床を作る。そろそろ草も乾き始めたので、それを拳銃の火打石を使って火種を作り、小屋の木を使って焚き火を熾す。暗くなる前に周囲を漁って蜘蛛や飛蝗、蛇を捕まえて焼いて食う。まだ目が冴えているが、星明りに星座を頼りに進んでも怪我するだけなので寝なくても横になる。

 気付けば朝。朝焼けが見れる程度には早い。炭になった焚き火を踏ん付けて出発。

 日が照ってきて、暑さに汗ばむ頃には道なき道が大きな街道に合流する。人の足跡、馬の蹄跡、車の轍跡だらけ。轍の中には相当重い物を引っ張ったように道に深く刻まれたものがある。遠くから爆音……大砲か。

 無警戒だと分かりながらも堂々と道の真ん中を進む。胸にザルハル方面軍の勇敢勲章を付けているが外す気にもならない。偶然誰かに会ってそいつが敵なら殺してやる、と考える。

 しばらく進むと捕虜かなにかだったものか、ザルハル方面軍の兵士の死体が道の脇に並んでいる。軍服の胸には自分のより遥かに多い勲章を付けた物がある。シェテルの三角耳がこしらえた細工物についてる勇敢だとか言う名前になにか意味があるのか?

 考えながら道を歩いていると、マンゼア軍に砲撃されて噴煙を上げている川沿いの街が見えてくる。石造りの立派な塔には大穴が開いている。特段にのんびりして川沿いに進んでいるわけでもないのに、何なんだ奴等の進撃の早さは?

 その後もマンゼア軍に見付からないように道を進み、時には草むらに入って迂回し、寝る時は火を熾さないようにする。運よくノルトバルは発見されずに進んだ。そのお陰であちこちに敵の手が回っているのを見た。連隊旗が下ろされ、マンゼア軍の馬印、そしてザフカーク軍の連隊旗が揚がっている。

 街という街、村という村は包囲されて砲弾を撃ち込まれているか、陥落済みか。無傷の所は降伏したあとで、略奪品の列は逆にそんなものでいいのか? と思うほど少なく、捕虜の列には兵士や役人ぐらいしか見当たらない。そうかと思いきや、ザルハル語やシェテル語等で警告の看板が立っている周りには、道沿いに串刺しにされ、胡坐をかいて自分の首を抱え、収穫前の果樹のように首を吊るされた死体が整然と見せ物にされている。男も女も子供も年寄りも平等。看板には”逆らう者には死と灰を”と書かれている。その背後辺りには当然、焼けたか焼けている最中の街や村がある。

 ザルハル方面軍の敗北を嫌が応にも認めなくてはならない。ザルグラドの連中は知らないが、ザルハルは間違いなく負けた。

 消沈しながら、それでもまだ無事な所がないかと歩く。脇が沼地で、通りたくもないが串刺しにされて虫に集られた人達が並ぶ道を進む。全員がなにか語り掛けてきているような気がしてくる。

「んな面で見んなよ。俺がおめぇらの墓穴掘る余裕があるように見えるか? 死んでっから見えねぇか……アホくせ」

 呻り声が聞こえる。お化けかと思って一瞬背筋が跳ねるが、生き残りがいるのかと考え付いたら安堵の溜息が出た。

「くたばり損ないか? 返事しろおら!」

「きてくれぇ」

 声の方向に向かうと、串刺しの杭にケツこそ刺されているが、ケツで先が止まって死に切れてないおっさんがいた。隣の奴は大量出血の痕があるが、このおっさんは出血が止ってる。しかし治療手段もないし手遅れだろう。

「見ろよこれ、雑に作りやがって糞っ垂れめ。あそこのなんかあっちゅう間に胸から突き出やがったんだぞ、アホクソめ」

「トドメいるか?」

「んぁ、医者にも魔法使いにも見えねぇな。そうしてくれ」

「あ、そうだ。その前によ、奴等どこまで進んでるか分かるか?」

「ああ? ああ、ザルハルはもう駄目だ。ザルグラドなんざ道にゃ糞っ垂れどもが群れ成してるからやっぱ駄目だ。西行け、アファーズ山脈だ。あっちのタハル王国なら大丈夫じゃねぇか?」

「そうか」

 刀を抜いて、おっさんの胸骨の下、心臓の所に切っ先を当てる。

「あと何かあるか?」

「やってくれ」

「おう」

 心臓に刀を突き刺し、抉ってしゃくり上げる。刀身を伝って血が流れ出る。抜き、血を払う。串刺しにされてる人のズボンの裾を千切り、刀身を拭いながら西への道を探す。

 そうして西を目指して進む。歩いた日数は数えてないが、季節のわずかな進みが感じられる気がするのは大袈裟か?

 靴が途中で壊れた。木の皮剥いで縦に解してから捻って紐を作って修理、簡単な靴底にもする。途中にあった死体から靴を取っておけばよかった。方角の確認に気を取られていたせいだ。

 靴が原型をなくした頃、アファーズ山脈らしき白い山頂がチラチラ見え始める。大分遠くまできたが、マンゼア軍の姿はまだ見掛ける。足の皮が何度も剥け、ようやく死体から壊れた靴を剥ぎ取り、布切れやゴミクズを使って修理する。

 上り坂を、泥だらけのつま先を見ながら登る。日に何度もぶり返すどうしようもない後悔とその後悔を覆すような無力感。あの時ああしていれば! しかしもう一度その時に戻って何が出来るというのか? 上りの感覚がなくなり、ふと顔を上げる。

 遥か遠くまで続く花咲く草原、色褪せた頃には山麓を覆う森、どこまでも横に広がる黒い山腹、白く染まった山頂、雲ひとつない青空。世界と世界、天地を隔てる壮大な壁を前に風のようななにかが体の芯を突き抜ける。言葉に出来ない感情が叩き付けられて足が止る。

 ただこの言葉が浮かんだ。生きててよかった。

 少し時間がかかったが山から意識を取り戻す。前にタルバジンが言ってた言葉を思い出す。諺ってほどじゃあねぇが、昔からこんな言葉がある。”川を越えれば人が変わる。山を越えれば世界が変わる”と。

 山を目指す。川沿いより外に出たことがなかった。どうせ逃げるなら、なにかありそうな方へ逃げる。どこまでも行けそう、どこまでも続いてそう。目の前にあるのに距離が縮まらない。飛んでる鷹を眺めながら進む。

 途中で子供の背丈程度のひらたい岩の上で山を眺める先客の背中が見えてくる。その近くでは少しの荷物を背負ったロバが草を食んでる。

「おーい!」

 声を掛けるが、草を食みながらロバがこちらに横っ面を向けてきただけで先客には反応がない。近づいて見れば蝿や蟻が集り始めてる。山を一点に見つめる目の上を蝿が無遠慮に這い回る。何となく親近感を覚えて隣に座る。普段は小うるさい程度にしか思えない蝿も蟻も、何故か今は可愛いような気さえしてくる。ノルトバルの手の上を蟻の行列が通り始める。どうしようか考えようと思ったが、面倒くさいから止める。空を見ればカラスが集まり出している。

 草を食い終えたロバがノロノロと近寄ってきて、靴の残骸からはみ出てるつま先に鼻を寄せてくる。そうしてから顔を上げ、鼻を鳴らしてからこちらの鼻先に鼻を近付け、鼻息をかけてくる。

「何だよ」

 横っ面を向けたロバの目と目が合う。溜息を吐いてから、手の上を這う蟻を払ってロバの首を撫でる。

 岩から降りて、先客の正面に回っていい物がないか物色。ない。靴は履いてなくて、足の裏の肉が磨り減って蛆が湧いてる状態。ロバの荷物を確認。皮袋、汚い毛布、中途半端な長さの荒縄、錆びた包丁に砥石……あとは物のない今の状況でもハッキリとゴミと呼べるような物だけ。ロバのくつわを引く。抵抗もなくついてくる。試しに手を離してみるとそのままついてくる。

 ロバと寝食ともにしながら道を進み、山麓の森に入る。今は人通りがないが、足跡や轍、ゴミが落ちていることから普段から使われている道だと確認しながら進む。

 死体と荷物が散乱している野営地を通り過ぎる。熊や狼に鳥、蝶も漁っているので参加する気はない。敵の仕業かは分からないが、その可能性があると思うと恐ろしくなる。

 敵がいると思うと夜は火も焚けず、道から外れた所なら安心かと思ったら野獣から自分とロバを守らないといけないと考え付けば道から大きく外れることも出来ない。昼間に火を焚いて保存食料を作りながら遅々と森を進む。道がわざわざ通っているだけあって道中には川があり、水に関しては心配が必要ない。常に皮袋と水筒には水を確保しておく。

 上り坂を進むと段々と植物の種類が様変わりしてくる。気温が下がってきて耳が冷たくて痛くなり、スカーフで耳を隠すように頭に巻く。夜はロバと抱き合ってないと寒くて寝れない。木はなくなり、草もまばらになって石が目立ち始める。空気も薄く、歩くだけで精一杯で、時折見かける山羊なんか追い掛ける気力も沸かない。

 水も食料も尽きた。草の根を食って水気を吸うぐらいしかない。時期が悪いのか運が悪いのか雨が降らない。霧が出ることはあって、それで草に出来た水滴を舐める。

 ロバの方はこの辺に生えている草は気に入らないようで、腹が減って口を付けては直ぐに止めるということを繰り返している。草の根は食ってくれるが、標高の低い所の草のようには食ってくれない。

 ロバの血を飲むことを考える。ここまで一緒にきてくれた相棒相手には気が引ける。これがまだ食料豊富な所なら遠慮はしなかったかもしれない。短剣を見せ、首に当ててロバの反応を見る。静かにこっちを見つめるだけ。浮き出る血管に刃を当てて引く。直ぐに傷口に口を付けて飲む。ロバは微動だにしない。一しきり飲んだあと、血が止まるまで水筒に入れる。ロバの方を見ながら前に進むと、いつも通りに後ろをついてくる。

 血を飲むのは一回きりにした。しかしもう草も見えないような所まできた。どこに繋がっているかも分からない道は引き返すべきだろうか? ここまできたのなら突き進んだ方が正解か?

 寒さは増す。夏でも解けない万年雪が見える。

 ロバの足が止まる。いつもの糞に小便だ。こればかりは食ってなくても出てきやがる。村の年寄りどもの昔の武勇伝を急に思い出す。水がない時は馬の小便啜って、大飢饉の時はその糞を食って凌いだ。食わなかった奴は大体死んで、食った奴は大体死ななかった。

 迷わずロバの小便を手にして飲む。死んだ親父が作ってた不味い汁物だと思えばまだ上等な部類だ。糞を手に取る。流石にその湯気上げる代物となると死んだ親父の料理とは比較出来ない。どうやってその糞を食ってたか思い出そうとする。大飢饉の時は旱魃で作物が育たなくて、雨が降って洪水が起こってその作物が流され、大寒波がきて家畜が軒並みぶっ倒れたって話だった。湯気と臭いが立ち上るこの糞。暖かいと臭いが凄い、冷えると……いけるか?

 糞が冷えるのを待つ。割って中も冷やして食う……土を食ってると思えば気が紛れる。畑の土だって家畜の糞使ってるじゃないか。こんなこと続けて生きられるのか?

 何日か糞と小便で凌ぐが、ロバの出す物の量が減ってくる。

 森から始まった上り坂が終わる。近くの岩に上って眺めると一面、雪を被った岩肌が峰に谷を繰り返している。果てなく続き、きた道の方を見ても果てなく続いている。

 世界の壁の天辺。下には山だけ、上に空だけ、あとは自分だけ。しばらく眺めてから岩を降りる。暇そうにロバが寝転がっている。

「待たせた」

 久しぶりに気分よく声を出して歩くが、ロバは動かない。近寄って首を叩くがゆっくり目をこちらに向けるだけ。

「おめぇ四本も揃えてる癖に二本脚より先にへばってんじゃねぇぞ」

 首を抱えて起こそうとするが力を抜いたままでどうにもならない。しばらく休んでも動かない。ゆっくりと呼吸しているだけ。

 拳銃に弾薬を装填し、ロバのこめかみに当てる。即死させてやれるのはこれだけだ。

 撃つ、銃声が山々に反射してどこまでも響く。

 やせ細ったロバを解体する。皮は袋にする、肉も内臓も袋に入れる、血と小便は水筒へ。掘れそうな地面を探し、骨で掘って頭と骨を埋める。”獣の母”じゃなく”冥府の門”に、言葉は思い付かないが祈りを捧げる。

 下り坂になり、複数の山道と合流し始める。また上り坂になる道は避けて進む。肉を食ってるおかげで足取りも軽くなってきた。

 転がってる馬の糞を発見する。割ると中は乾燥していない。

 馬の糞を追って道を進むと隊商の成れの果てを発見する。馬車は燃えて炭になったあとで、中には焼けた死体や荷物の屑が転がっている。まだ腐ってもいない人と馬の死体も転がり、血は赤いまま。死体の頭の近くには丸帽子が転がっており、これは確かタハル人が被る帽子だ。時々村へ行商にくるので覚えている。

 なにか使えない物はないか漁る。靴を剥ぎ取って履く。

 先に進む道が分岐し始めるが、轍があるのでそれに沿って進む。道中、頭に手足を切断された死体が一人分転がり、そして近くには岩の上で手を組んだマンゼア軍の遊牧兵の死体が寝かされている。兜ごとカチ割られた頭には丁寧に布が巻かれ、刀が胸の上に置かれている。毛皮付きの外套は比較的綺麗で、剥ごうかどうか迷ってしまう。ただ誰かから敵と誤認されそうで止めた。

 寒さが薄れてくる。空気は濃くなり、背の低い草花が見え始める。岩の窪みに大きな水溜りがあり、久しぶりに水を飲む。

 銃声が鳴る。物陰を進みながら状況を確認しにいく。あの隊商と同じような連中が岩を挟んで、マンゼア軍の騎兵部隊と対峙している。敵の敵は味方だ。

 拳銃に弾薬を装填。金槌を持って敵の頭目掛けてぶん投げる。外れて、敵がこちらに気付く。

 刀を抜きながら走る。弓を番えようとしている奴を拳銃で撃つ、落馬。

 馬首を翻してこちらを向こうとする奴の、馬の尻を斬る。馬が驚いて暴走し、道を外れて崖から落ちる。

 甲冑に革鎧に鎖帷子を重ねた重装備の奴が奴等の言葉で掛け声を出し、三騎掛かりで迫る――これは助からないな。

 銃声、重装備の奴が馬にもたれかかって動かなくなる。白と青の鮮やかな模様の服をきた隊商の一人がこちらに駆けながら騎乗射撃で仕留めた。残る二騎が動揺している内に走って距離を取る。

 白と青の奴はすれ違いざまに一騎の首を綺麗に落とし、鞍の鞘から予備の火縄銃を抜いてもう一騎の頭を撃ち抜く。顔を布で隠しているせいか、妙にそいつは目が青く見えた。

 隊商の方から喚声が聞こえ、残りの敵はこちらに目もくれずに逃げていく。青と白の奴は馬に乗ったまま弾薬を装填し、逃げる敵遊牧騎兵の背中を撃つ。落馬。慌てず逃げる敵遊牧騎兵の方へ歩きながら弾薬を装填し、背中を撃つ。あぶみに足が引っかかったまま落馬し、馬が転ぶ。転んだ馬に巻き込まれて生き残りが転ぶ、崖から落ちる。こちらからかなり距離があるというのに最後の一人は観念して両手を上げ、奴等の言葉で命乞いの言葉を吐く。

 青と白の奴はノルトバルに、意味は分からないがシェテル語と分かる言葉で話し掛けてくる。そうしながら最後の一人を射殺。

「あー俺シェテルのベロベロ分かんねぇんだ」

 青と白の奴は首を傾げてなにか喋りながら馬を降りる。そして、あっ! っと思った時には拳銃食らっても死んでなかった奴が起き上がり、白と青の奴はそいつを捻じ伏せる。いつの間にか抜いた短剣が首に刺してある。

「訛りで直ぐ分からなかった。ザルハルからきたでしょ」

「おう」

「酷い格好、逃げてきたんでしょ。助けてくれたお礼もしたいからついてきて」

「え、あうん」

 馬のくつわを引く青と白の奴についていく。すれ違う隊商の連中はなんやかんやとシェテル語でもない言葉を掛けてきて、青と白の奴が応対する。

 男達が被っているのはタハルの丸帽子、タハル人か。他にも頭に黒い布を巻いている連中もいるが似たようなものだろう。それと武装していない、布で顔を隠した青と白の服と、黒や赤の全身を覆うような服を着た女達が敵の死体から装備を剥ぎ取っている。そういえばあっと言う間に敵を殺しまくったこいつも女か。

「あんたスゲぇな。あっちゅう間によ」

 なにも答えない――訛りで通じてないかもしれないが――その女に隊商の野営地に案内され、一番偉そうなおっさんの所まで連れて行かれる。おっさんは人懐っこそうな面で笑いながらなにか喋って頭や肩をバンバン叩いてくる。歓迎してくれてるらしい。

「何つってんだ?」

「奇襲攻撃のおかげで犠牲も出さずに勝てたことに感謝する。あとはまあ省略しましょうか。保護を求めるなら歓迎するって言ってるわ。ボロ雑巾みたいな旅よりはマシになるわよ」

「あー、うん。何とか頼んます」

 帽子取ろうと頭に手をやって、なにも被ってないことを思い出してから胸に手を当てて頭を下げる。おっさんは満足げに頷いてからなにか喋る。歓迎してくれたようだ。

「それじゃあ、さっきも言ったけどあなた酷い格好だからついてきて」

「うん」

 女に連れられて人気のない方へ向かう。

「なあ、あんたザルハル方面軍、今どうなってるか知ってるか?」

「推測が混じるけど、ザフカーク軍と共同でマンゼア軍がザルハルを征服、ザルグラドの方も首都が包囲されて陥落寸前。今タハル王国の国境まで迫ってきてるわ。さっきの連中ね。あとはシェテル帝国のウィーバル方面軍が反乱を起こして帝都に向かってる」

「もう完全に負けってことか」

「そうね」

 逃げてきて、軍は負けが決まってる。一体自分は何なんだろうか? まとまりもしない考え事をしていると、小さな滝がある川に着く。

「着替え持ってくるからそれまで体洗ってなさい」

 ボロボロで垢やら血やら泥でよく分からない物体になってる外套を脱ぐ。脱ぐだけで生地が破ける。靴は取り替えたばかりだからくたびれてる程度だが、足に巻いてた布は擦れて腐ってゴミっ切れになっている。赤いシャツはもう黒くなっている。もちろん穴だらけ。

 川に入って体を手でこする。汚れの固まりに、火を点けたら燃えそうなぐらいの脂も感じる。手じゃ用が足りないからひらべったい石でこする、というか削る。

 女が着替えを持ってくる。村じゃ恥ずかしがりもせずに素っ裸ぐらい見せてたが、なぜか妙に恥ずかしくなってくる。体を洗いながらチラチラと背後を伺ってると、あの女は服を脱ぎ始める。そして下着姿になるのを見て慌てて視線を反対に向ける。彼女に向けた背中の感覚が妙に鋭くなってくる。奇妙に、恐怖すら感じる。

 水面に足を入れて跳ねる水の音、脛で水を掻き分ける音。

「そのまま」

 布で背中をこすってくれる。水に布を付ける音 布を絞り、垂れた水が水面に落ちる音がしばらく響く。

 彼女は鼻水を啜り始める。泣いてる? 手は止めてない。

「どした?」

「私結婚したのが一四でね、次の年に息子が産まれたの」

「ああ」

 嗚咽が混じり始める。

「その息子が死んだって」

 手が止る。

「俺んとこきてていいのか?」

「死んだの五日も前。奴等いたから置いてきたって……」

 背中に抱き付かれる。柔らかい感触に少し固いようなものも混じる。押し付ける鼻と額が分かる。

「おいねえちゃん!?」

 抱き付かれた手を解いて、振り向きながら肩を押す。泣き顔の見たこともないような美人がいた。布に隠れていた彼女の顔だ。そして濡れた青い目に捕まる。

「こんな年増じゃ嫌よね」

 なにか諦めたように彼女は笑う。

 そうじゃない、と言葉を出そうと思ったが出ない。もどかしくて、彼女の首に腕を回して抱きしめた。

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