21話「洟っ垂れ」
冬が明けて春になってもここは雪解け水で増水しない。マリエン川ではなく、ここはルファーラン海峡。中大洋とアモラタト海を隔てる。
最近は暇なのでよくシーシャと一緒に散歩をする。そしてここを見付けた。海峡を渡す大橋に、建物や停泊してる船の帆柱が視界に入らない場所。海沿いの草の茂る何もないところ。においも騒がしさも風景も違うが、ここが一番村で眺めたマリエン川に近い。まだ肌寒くて日向ぼっこの季節じゃないがここに座る。隣にシーシャも座る。村じゃこんな風に座ったことはなかった。
ザルグラド大公国とアルーマンと中大洋社の船が隊列を組んで海峡を跨いでいる。偉いさん方の取り決めで仲直りしたらしい。こんなことになるなら初めから戦争なんかするんじゃねぇと思うが、士官になるための勉強をしてるとそんな単純じゃないと何となくでも分かってきて複雑な気持ちになる。
最近のシーシャはサイのために藍色のスカーフに刺繍を入れてる。「サイちゃんはたぶん地味な色が好き」と言っていた。完成するまで内緒だ。
「まだ船乗らなくていいの? ずっと暇そうじゃん」
「しばらくこっちで倉庫番だ。海兵隊の陸上勤務の奴と艦船勤務の交代があって、あと戦争やったご褒美の休暇もくっついてきてるから長ぇんだよ」
「今度見に行っていい?」
「いいけどよ、かなりデカい荷物手伝う以外は交代で休みながら突っ立ってるだけだぞ?」
シーシャは鼻を長めに鳴らす。
ノルトバルはアウリュディアから勧められた本を読み続けている。名作文学で勉強に使っても問題ない物らしい。「基礎的な教養がなってないなら、まずある程度楽しんで長い文章を読み続ける能力を得るように」と年寄りらしい説教も付け忘れなかった。
魔法の勉強、引いては研究のために金がいる。今のところシーシャが金を得る方法はノルトバルが稼ぐしかない。せめて自立するまでは頑張らないといけない。マハンリとかいうシーシャに混ざった化物を御せるようになれば、中々とんでもない魔法使いになれる可能性があるとアウリュディアが言っていた。想像は付かないがたぶん凄いんだろう。
「慣れりゃここも結構いいとこだよな」
「ねー」
スカーフに刺繍を入れるシーシャの脇の下に頭をねじ込んで膝枕の体勢に移る。嗅ぎ慣れた匂いに目を閉じたくなるのを堪え、本に目を通す。
タルバジンにはガキの頃から言葉に出来ないような、何か色々多すぎて挙げれないことを教わった。
ロバは、あいつがいなければあそこまで歩けなかった。あいつが食えなかったら野垂れ死んでた。
メサリアは勉強に武芸に女まで教えてくれ、それが実際に役立った。最後には命まで守ってくれた。
サイには仕事はもとより、シーシャに関することではもう礼が言い切れない。
シーシャは生きる目標だ。
魂に手形が付くってのはよく分かった。手形にも色々あって、血塗れだったり獣臭かったり、飯のにおいもしてることも。
「あ」
シーシャがスカーフを脇に退ける。日の光から陰になったシーシャの顔が触れるほど近くに見える。こんな風にまじまじと見つめあったことは、あまりない。
胸が高鳴る。そう言えば、ハッキリ女として扱ったことがなかったような気がする。もういいのか? メサリアに義理立てするような段階じゃもうないだろう。
シーシャが目を閉じ、意を決したように息を吸い込んで顔を下げてくる。
「ぶぇっくしょいクッソァい!」
べっちゃり顔に鼻水が飛んで、鼻から伸びた半透明の鼻汁の柱がノルトバルの顔にくっついてる。先程より顔が近い。
「およ?」
「およよんじゃねぇぞてめぇこの洟っ垂れ女! 鼻に糞でも詰めてろ!」
起き上がるのに手間取っている内に逃げられる。
「うわっほい逃げろアホー」
「アホはてめぇだ糞っ垂れ!」
「うっせぇアホ!」
ひたすら追い掛ける。




