18話「いざウルヴィニィ」
雪の降る演台にリーレスは礼装の軍服姿の上に毛皮の外套を羽織って立つ。自分の顔が見えやすいように毛皮の帽子を気持ち後ろにずらす。ザルグラド大公として全軍に、今こそザルグラド奪還に向けて船出することを告げる。似たような機会は昔にもあったが、簡単に一言二言で終わらせてた。今回もそうするべきとは思わないが、どうしようか?
中大洋社社員はこの場にいないが、陸海軍に軍属合わせて五万名超。全てが海へ出るわけではないが。陸軍は連隊ごとに番号、序列順に整列して連隊旗を掲げ、海軍は艦籍ごとに、黄地に黒獅子と一つ黒星の海軍旗を掲げ、僧兵や聖職者や神学生を中心にする民兵は真鍮の三重円を吊るした竿を掲げている。軍属は後ろで並んでおり、全体を多めの篝火で囲んでいる。
演習場に旗が雪交じりの風にはためく音と、鼻を啜ったり咳き込む音だけ響く。
「ザルグラドより脱出し、ルファーランで訓練に明け暮れる日々は終わった。今日我々は我等が海軍と中大洋社の艦隊に分乗し、ザルグラド奪還を目指す」
統制の緩い軍属側から喚声が上がる。陸海軍民兵の方は衝動を堪えているかのようだ。ザルグラド大公領のどこかに真っ直ぐ強襲上陸すると勘違いしてる空気がむず痒い。喚声を手を上げて抑える。
「船旅は少し掛かるが、そのあとの戦いは歴史に残る。諸君、難しいことは言わない。やるべきことをやれ、以上だ」
そして、次に演説をすることになってる大司教が歩いてくる。くるのだが、あの爺さまは裸足で粗末な衣一枚だ。そして腰に巻いた縄には拳銃や短剣、ランプと瓶の一本まで吊り下げている。今日は呆けてない日のようだが何をぶちかます気だ?
大司教と立ち位置を代わる。風に揺れる白髭に雪をまとわりつかせ、こちらにだけ見えるようニヤリと笑う。
「共同体防衛の責を果たさんとする諸君、遂に時がきた。諸君が捧げてきた信仰と忠誠は、ここまでついてきたことで証明されている。勝利を得て、故郷を取り戻すのだ。諸君が今死のうとも、次の者が意志を繋いで行く。決して恐れるな。銃弾と銃剣に槍を体で受け止めて死ね。そうすれば後ろに控える同志が仇を討ってくれる。その次はその後ろの者が前に出ろ。見えないほど後ろ、守るべき信者達のために全員敵と刺し違えろ。生き残ることは考えるな、神は見ておられる。臆病者と勇者の違いは当然ご承知であられる。栄誉有る死者の魂は楽園へと導かれるであろう。卑劣なる者の罪は永劫消えず、死者となった時には魂の牢獄で永遠の責め苦を受けるであろう」
少し沈黙して全体を見渡す。
「口だけでは何とでも言えるな」
また少し沈黙。
「私は諸君等とともに聖戦に赴けるような体力は残っていない。であるから、せめて諸君には命の捨て方を見せよう。ザルグラドに神の祝福あれ!」
短剣を逆手に抜いて振り上げる。
「剣を恐れるな!」
そして自分の腹に突きたて、掻っ捌いて内臓を取り出す。どよめきが走る。リーレスもビックリした。
「恐るるに足らず! 銃弾を恐れるな!」
短剣を捨て、拳銃で右目を撃ち抜く。
「戦う意志さえあればこの程度で倒れない!」
拳銃を捨て、瓶の蓋を口で開けて中の油を被る。
「火を恐れるな!」
ランプの火種に手を入れ、燃える手で体を触って火達磨になりながら両手を広げる。
「いつでも神は我等を見ておられるぞォ!」
大司教は絶叫したあとも、焦げるままに体勢を崩さない。明らかに絶命しても立ったまま。
僧兵や聖職者や神学生達から跪き始め、倣って他も跪き始める。全く、呆けジジイかと思っていたら最後に役に立った。リーレスも跪く。しばらく大司教の焼ける臭いを嗅ぎ、鎮火して黒焦げになっても倒れる気配が見られない、と思ったら風でぐらつく。咄嗟にリーレスは正面からは見えない角度で倒れないよう、肉の残る背骨を直に掴んで支える。そっと宰相が近づいてきて耳打ちをする。
「このまま教会関係者をここへ呼び、大司教を聖人認定させましょう。少々難しい言葉が必要なので私がやります。閣下はそのまま支えていてください」
「名案だ」
宰相が大仰な仕草で新たに演説を始める。リーレスは大司教が倒れないように立ち上がって、自然に見えるように支えながら横に立つ。
喜んで死ぬ覚悟が出来た連中の顔が次々と見えてくる。これよりこの無茶な作戦に付き合ってもらう連中の顔はこのぐらい狂ってないといけない。
全く、こんなことでもない限り喜んで死ににいけないとは不器用な連中だ。
休学申請は出したし、先生は一番古くからいる下宿生に管理を任せてどこかに行った。結局顔を合わせないまま出港してしまった。ただ、今の自分を見たら何を言うか分からないのでありがたかったり、そうでなかったり、頭をぶっ叩いてくる相手が欲しかったり。
下宿の皆には挨拶はしてきた。クリちゃんが半泣きで「手紙送ってね、私も送る、欲しい物あったら送るから教えてね」と言ってたのが可愛いかった。それと東大洋からきた下宿生の入れ知恵で、集めた処女の下の毛が入った弾避けのお守りが懐にある。黒、茶、金、赤、銀と五色揃っていて、シーシャとノルトバル用に一つずつ。黒は発案者、茶は募金活動やってた修道女、金は下宿生の一人、赤はクリちゃん、銀は図書館にいたおっぱいデカい美人だそうだ。
北から寒い風が吹く中を中大洋社旗艦バスマンの嵐が、大河ザフカークの流れに逆らって北上中。自然の北風と魔法使いの南風がぶつかり合い、船が不規則に揺れる。船内でも十分感じるがこの空気の冷たさは、ザフカーク川がマリエン川周辺と気候が違わないのならそろそろ川が凍り付き始めるじき頃だ。このくらいの寒さの時に川から船を引っ張りあげる作業を手伝ったのを思い出す。
水夫達と帆走補助の魔法使い達が神経すり減らした顔を見せている。艦隊の先頭集団だけは北風の干渉をモロに受けるが、その後続は特殊な操船の素人でも出来るらしい……ということをやることないから部屋に引きこもっている魔法使いの糞女どもが言っていた。冗談のつもりで男にちょっかい掛けようとして、今ではサイちゃんが監視して出入りを必要がない限り禁止している。
シーシャは男の格好、ズボン履いて体の線隠すような毛皮の外套着て、長い髪も毛皮の帽子の中に隠してる。刀も腰帯に差してるし、用事で船内歩き回っても特に何も言われないし注目も集めない。ただ魔法使いの糞女ども、その一部は嬌声上げてスカートわざと捲ったり、胸の谷間見える服着たり、絵みたいに顔に化粧塗りたくって、鼻が痛くなるほど香水付けてる。そうじゃない者いる。風紀が乱れないように馬鹿な仕事してるサイちゃんが可哀想。
それとは別に、船には男女別なんてお上品な措置が取られていない便所でケツなんて出していたら問題が発生しかねない。ということで、中でも下っ端も下っ端もいいとこのシーシャが便所桶運びをしている。外に出る用事とはこれだ。畜生、こりゃまるで悪夢の魔女の釜の底だ。部屋の中で好き放題ゲロ吐く痰吐く、糞垂れて小便垂れて女だから血も垂れる。この世の不浄が凝縮されてるかのような地獄絵図だ。見ただけで五つは病気がうつりそう。
文字通りの糞っ垂れババアどもめ、人が運ぶからって好き放題ケツからひり出しやがってからに。労いの言葉も鼻糞程度。魔法使いってのは性格もまともじゃないし、仲よくしようとしてもへんてこ捻じ曲がりな態度ばかり。口と手と尻から糞垂れるのが魔法使い、とはアウリュディア先生の代理の言葉。そう割り切らないともう一人のアレが暴れだしそう。
あの変化した晩の時のようにハッキリしていないが、頭の中に変な声が響く時がある。その時はぶち切れそうな時で、それに従うと大変なことになる。全てが障害物に見えてきて、人の声を聞くと耳に響いて頭が痛い。我慢してるが胃が締め付けられる感じがするし、気が付いたら歯軋りしてる。壁に思い切り頭突きしたいが、怪我するからしない。あの緑の光をとにかく使いたい、壊したい、船ごと全員を切り刻んで、落ちたら助からない冷たい川に放り込んだ上でまた殺したい。腹減ってなくても食いたい、飲みたい。今すれ違った水夫、鼻も曲がるような体臭だったのに美味そうな臭いに思った。頭がおかしくなりそう。頭カチ割って開いて脳みそ洗いたくなってくる。周囲に変に思われないよう船縁まで我慢して歩き、吐いてるフリして収まるのを待つ。先生が使い魔に乗っ取られたということが頭を過ぎり、胸の中が削ぎ落とされるように気持ちが悪い。
しばらく堪えていると、冷たい空気もあって頭が冷えてくる。雪のカーテンに仕切られた、広いのに狭く見える川を見つめる。今みたいにこの風景がいつまで見れるのかと思ってしまうと涙が出てくる。
顔を袖で拭い、便所桶の取っ手に縄を結んで洗う準備を済ませる。
「おうシーシャ、何だそれ?」
後ろから近づいてきたノルトバルにシーシャは驚き、便所桶の中を見たノルトバルはこの世の悪全てを見たような顔をして仰け反る。
便所桶を水中に投下する。完全に水没させると桶が持っていかれるのでうまく半分だけ入れ、水流で洗う。
「おい何だそりゃ!」
「何って口と股と尻から出たもんだよ」
「小まめに捨てねぇと引っ繰り返って病気なるぞ。溜めて豚に食わすわけじゃねぇだろ」
「魔法使いの七割以上が女で、おまけに馬鹿だから出入り禁止。大所帯さまは中で垂れるから溜まるのあっちゅう間。常識あるのはごくわずか、その中で若ぇの私、それで親玉ババアは私を指名。これも仕事だから堪える、堪えられなくなった船ごと沈める、分かった?」
「オチンチンに感謝します」
「よろしい」
粗方洗い終わった便所桶を引き上げる。取れ残りはヘラでこすって剥ぎ落とし、もう一度水中へ入れ、洗って引き上げる。
「はい完了。どうせまた直ぐだ糞っ垂れ」
ノルトバルに微妙な笑顔を振りまいて部屋に戻る。
「おらお嬢さん方、新鮮な便所桶だ。遠慮なく古臭いケツ出して糞垂れろ」
と言って部屋を出る。サイちゃんの足元に座って反応を待つ。何度か視線を上に向けたが鉄人形のように反応しない。そりゃないぜ。
それでもしばらく待っていると、船で飼ってるネズミ捕り猫がしなやかに歩いてくる。姿勢を猫の高さにし、努めて受身の姿勢にする。
「ほらこいにゃんこ、食ってやる、ほいほいほい」
人なれしているので寄ってきて、鼻先寄せてくるので指でつつく。ケツを向けてきたのでマンコに軽くデコピン。ウニャーンと鳴いたあとに手のにおいを嗅いでくる。
「このにゃんこ、船の偉い人の子供?」
「本人の前で言わないでね。今だけとは言え、シーシャはその人の指揮下にある。相応の敬意を表しなさい」
サイの目の高さに持ち上げる。
「艦長代理であーる! 頭が高いにゃー」
サイが目をパチクリさせ、鼻から溜息を吐く。そうして戯れていると黒毛の猫頭、猫艦長が通りかかる。
「お疲れさまです」
「ご苦労」
と真っ当な猫艦長とサイのやり取りのあと、
「艦長のおっちゃん、お疲れさんです」
シーシャは猫艦長の前に猫を持ち上げる。
「にゃーにゃにゃー、あたしも疲れたよー」
猫艦長は一睨みして立ち去る。立ち去ったあと、シーシャにサイは拳骨をくれる。驚いた猫は手から逃れて走り去る。
「え、サイちゃん何で手加減したの? その拳だったら一発で地に這わすでしょ」
「どういう教育受けてきたのあなた」
「んあ? 修道学校で二年で魔法学部でー、一年まだ経ってないねぇ」
「そういうことじゃない。いいわ、偉い人とどう接するかぐらい分からないの?」
「んん? 兄さんって呼べばよかった? ちょっと若かったかもね」
そしてサイちゃんが無言で睨んでくる。次は骨潰すようなのが降ってきそうなので、豚みたいに鼻を二回鳴らして外へ走る。
外へ出て、ノルトバルが立っている所に向かう。船に積もった雪をかき集め、雪玉を二つ作って船縁に雪だるまを置く。ノルトバルがそれ殴って川に落とす。もう一つ作ろうとすると、雪のカーテンの向こうに不思議な形と色で船が見える。目でもイカれたかと思って袖で顔を拭うが、やっぱり見える。
「ねえ、あそこに船見えない?」
「あん? 見えねぇよ」
顎の下に手首をくっつけ、指を真っ直ぐ前に伸ばす。
「ほらこの方向」
シーシャの後ろから頭越しにその方向をノルトバルが見るが、見えない。近くの士官をノルトバルが呼んで、その方向を望遠鏡で見てみるが見えない。
「この雪じゃ陰も見えねぇよ」
「見えるんだけどなぁ。そういえば最近、目ぇ凝らせば壁越しでも中見えるからそれのせいかも」
流石の士官も鼻で笑いやがる。緑の光で見えた船の形を作ってみる。帆はないかもしれない、背がたぶん低いやつだ。何をしているのかと猫艦長も寄ってきて見てみるが見えない。作った船の形からして櫂船らしいことは分かるが、何とも言えない感じ。猫艦長が背を向ける。士官は一応悩んだ顔をしてくれる。ノルトバルはちゃんと見ようとしてくれてるが、見えない。
埒が開かんと、シーシャが緑の光で船を斬る。騒ぐ声が遠くから聞こえ、猫艦長が「各員に通達、静かに戦闘配置に付け」と近くの者に命令を下す。使い魔の鳥にも伝令が下る。
そんなの待ってられるかと、毛皮の帽子を取って髪を広げ、雪の向こうに隠れた糞船に攻撃を仕掛ける。斬った船の水面ギリギリの所を緑の光で斬りまくる。騒ぐ声が一層大きくなる。
半透明の目蓋を下ろし、見たい物だけ見たいような感じにすると、その櫂船のような船、うねる水面、遠くの陸地、雲までもが変な色で見えてくる。士官を髪の毛で捕まえて引っ張り込む。
「さっき見せたような形の船って全部沈めていいの?」
「この艦隊は全部帆船で大きいのばかりだ。小さいのは艦隊中央だ」
両手を広げ、敵と思しき船が見える範囲を示す。
「こっから先に見えるの全部敵?」
「艦隊の列が崩れてなければそうなる」
「分かった」
あとは緑の光で刺して斬り、風や川を掻き分ける船の音を聞く。ザルハル、マンゼア、アルーマン、シェテルの言葉が混じったような叫び声が遠くから聞こえてくる。音もなく、緑色にパっと光ったら船が水夫がスパっと斬れて浸水してくるんだから怖いだろう。敵船を沈めている間にも、静かに船は戦闘準備を整えていくが、必要ない。クソボロ手袋もいらない。腕組んで立ち、髪だけ動かして緑の光で沈める、殺す、腹減った。
砲声が鳴り始める。他でもやっと攻撃を始めたようだ。遅すぎる。
沈めた船の残骸、凍える川に落ちた死体が流れてきて船隊がガツガツぶつかる。辛うじて息のある敵も流れてくる。見るからにザフカーク人のハゲ頭と髭をしている。
「助けてくれ、降伏だ! 頼む!」
ザルハル語にはザルハル語で返す。
「ぶっ殺しにきたくせにぶっ殺されて文句垂れてんじゃねぇよ糞っ垂れ!」
静粛な船上に大きく響く。緑の光で斬り殺す。咄嗟に口に出たよく分からない言葉が出てきて、残る船に緑の光で穴を開けていく。戦闘配置から離れたノルトバルが足元でしゃがんで、ゆっくり何か喋っているが聞き取れない。散々沈め、もう見える範囲には浮いている敵船がいなくなる。あとは息のある――どうせ冷たい水に殺されるが――敵を仕留めて他の余計な連中も……顔に何か付く。
「誰かと思ったらお前かシーシャ、何のつもりだ」
顔に付いた飛蝗が、翅を人間の言葉のように鳴らす。そして飛蝗が体中を覆い始める。飛蝗のこすれる音に殺意が芽生え、緑の光で周囲をなぎ払ってやろうと思ったら、頭を棒で殴られる。急に頭が冷えてくる。
この痛さに衝撃力はまさか? 振り向けば、飛蝗の群れを服の中に吸い込んでいるという変な状況にあるアウリュディア先生。
「げ、何で先生がここにいるの?」
「何故私がわざわざ船を移ってきたか分かるか?」
「分かりました先生!」
「ほう? 言ってみろ」
「それは、おマンコの力ですね」
棒でぶった叩かれる。
「冗談以前に意味が通らんこの馬鹿者め。おいノルトバル、貴様は何をしていた」
飛蝗に対して顔を腕で庇っていたノルトバルが、恐る恐る視線を上に向ける。
「あの、シーシャのうんこ垂れが面接受けやがって、不合格なってもうすんなって怒ったら、次の日に何かその緑のピカピカになってて合格した」
「合格させたのかあのうつけめ。おい、話が出来る所はあるか?」
「え? っと、ん?」
一応戦闘配置中だし、話が出来る所というのは周囲に人がいない所。船にそんな所と言えば、艦長とか提督、代表の部屋。
「ああ、そうだった、下っ端に聞いても船じゃ駄目だな。ついてこい。ノルトバルお前もだ」
先生に腕を引かれ、代表の部屋に入る。その部屋では面接官がベットに横になっていた。
「おい外せ」
「あらまぁアウリュディアもどきじゃない。何、その若いのと三人で楽しいことするの? 混ぜてくれない? それとも三人相手じゃ……」
言い切る前に飛蝗が面接官の顔に殺到し、もがき始める。そして何もなかったように部屋の隅に紐で固定されていた椅子を三つ引っ張り出して座る。勧められてシーシャとノルトバルも座る。忘れていた毛皮の帽子をノルトバルが被せてくれる。怒られる気分になって両膝に手を置く。先生は何か考えるように首を傾げてから口を開く。
「何をした?」
「敵の船沈めました」
「そうじゃない。そのお前に分不相応な力のことを言っている」
「えっと、真の力に目覚めちゃった?」
全てを許しちゃうシーシャちゃん笑顔を繰り出す。先生の表情に変化になし。ノルトバルの方はそわそわし始める。
「怒らないから正直に言え」
「それは言ったら怒るという前フリですね?」
両耳を掴まれて引っ張られる。
「痛ぇ! うぉ!」
「茶化したら怒る。言え」
「えっと、先生の部屋に入って、ちゃっちゃと強くなる方法として使い魔がいいかなぁって思って、その中に”彷徨う者”の召喚ってあったからやってみたの」
「どういう論理だ? あー、待て待て、迷える者達の道標だから呼んだら何とかしてくれるとか飛躍した考えに行き着いたのか?」
「お、流石」
「その結果を見ればあの方法で召喚が成功したわけなんだな」
「うん。メチャ簡単だったよ」
「”彷徨う者”ってのは思った以上に世界の支配者の中では腰が軽い奴だ。興味があれば呼んでも呼ばなくてもやってくる。今回は、おそらく偶然近くを通りかかった時にその儀式を聞いて遊び半分で立ち寄ったんだろう。あれは”彷徨う者”を拝一する連中の単なるお祈りなんだがな。で、何を願った?」
「うん。ババっと戦争に勝っちゃう力」
先生が手を握る。魔法で何かチクチクやられている感触がある。手を離してからもまだ感触がある。探ってる?
「私の覚書には方法だけで危険性や有効性については記述がほとんどなかっただろう」
「たぶん」
「何があるか分からない泥沼に頭から突っ込むようなもんだ。分かるか」
「そう、かも」
「安易に力を得るような上手い話に裏がないとは考えなかったのか」
「いやーそこまでは」
「お前」
先生はシーシャの鼻の穴に人差し指と親指を突っ込んで摘み上げる。
「ふがっ」
「私の授業聞いてたか?」
「しぇん人の知恵を借りりょって」
摘んだまま左右に振る。
「魔法使いの覚書のようなものは鵜呑みにするな。本人が常識と思っていて省略していることがある。それが決定的な失敗につながることがある。だぁかぁらぁ」
「痛い痛い痛い!」
「嘘か本当か、抜けている内容は何かと推測する教養が必要になるって言っただろうが」
「ごめんなしゃい」
先生は鼻から指を抜き、ズボンに拭う。そしてチクチクがなくなる。
「よりにもよって情報生物を融合させられたな。意識が切り替わるっていうかな、頭が乗っ取られる感覚は味わったか? いつもの自分と性格が違う、そういう感覚もだ」
便所桶掃除の時も船沈めてる時も、先生の言う通りになってた。またあの感覚を思い出し、胸を押さえる。ノルトバルが膝を握ってくれると楽になってくる。
「自覚症状ありか。これだけ強力な奴ならそれもそうだな……まずは力に頼らないようにして侵食を抑える。あとは、長い時間掛けてでも御せるようになることだな」
「どゆこと?」
「私と同じ状態になりつつある。お前は、融合させられた情報生物に食われて体を乗っ取られる危険がある。私の場合は虎視眈々と弱る機会を狙い、そしてその時に奪ったものだ。その情報生物は一体何を考えているかな? 会話でも出来ればいいが」
ノルトバルが先生の肩を掴む。
「その何とかを取り出せねぇのか?」
「不可能だ。もし取り出すのならばそれは死ぬ時だ」
「長い時間掛けて御せるってのは?」
「類稀なる才能があるという前提で努力を諦めずに何十、何百年と重ねるというしかない。ただこれだけ強力な情報生物なのに直ぐさま乗っ取られてないところを見ると意外といい線をいってるかもしれんが、何とも言えんな」
「ババアでもどうもなんねぇのか?」
「やってやれることならいいんだがな。今この世に生きている世界の支配者ってのは超が五つ六つ付く魔法使いが大抵でな、そこでもがいてるのも私も含めて永遠の憧れみたいなもんだ」
「どうしようもないの?」
先生がシーシャの頭を抱く。先生からは考え付かない行動に頭が追い付かない。
「私を頼れ、お前がよければ一緒に対処方法を研究しよう。何であれ学術研究は先人を追い越すためにある。魔法学部ってのは生徒に教えるためだけにあるんじゃないぞ、新しいことを発見するのが一番の仕事なんだ。そのためにもそこの男に稼いでもらわないとな」
口からでも頭の中でも言葉が生まれてこないが、先生を抱き返して返事にする。体を離す、先生の頭に蹴りが入る。
「アッウリュディアァ! クサい、クゥッサい、止めて、さぶイボ出るわ、おお気持ち悪っ、反吐出るわぁ」
殴り合いが始まったので、ノルトがシーシャを部屋から連れ出す。部屋から出ると、サイが外で待っていた。
「戦闘配置は解除。代理置いてるからとっとと戻りなさい」
ノルトバルは頭を軽く下げて走っていく。サイを見ていると、は軽く笑って頭を撫でてくる。とりあえずサイにも抱きついてから外へ出る。
ノルトバルの足元でしゃがむ。船上での雪掻きが行われている。たぶん、戦闘配置に付く時に転んだ人がいるんだろう。
雪掻きが終わる。寒いからノルトバルにくっつく。仕事中だと言わんばかりに直ぐ離れる。士官に無言で酷いと仕草で抗議してみると、二角帽を被り直して知るかと頭を振る。
バルメーク派のお祈りが艦隊全体、そして船の中からも響き始める。先程の戦いでの死者に冥福を祈る言葉だ。長い戦いじゃなかったが、他所では死人が出たらしい。
バルメーク派式で指全てを軽く絡ませながら手を合わせる。ノルトバルを肘でつっつく。
「別に神さんなんて信じてなくてもいいから、やろ」
ノルトバルが手を合わせる。テムル派式で、指は真っ直ぐ上に向けて手を合わせる。
「それテムルのやり方だね」
「あ? 何か違うか」
「手の組み方が違う。バルメークは融和、テムルは純粋を表してるの」
「坊主の勉強はしてねぇな」
「信者じゃねぇからどうでもいいんだけどね。あのお経死人に祈ってるけど、ついでに何祈る?」
「俺は無事に帰ることを”獣の母”に祈る。一番信用出来るからな」
「私は正しい道を”彷徨う者”に祈る」
「あ? おめぇババアの話聞いてたのかよ」
「バルメークとは融和の思想なのです」
「信心替えしたのか?」
「別にぃ」