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16話「彷徨う者の力」

 下宿で起床。船で寝起きしないといけない当直日以外は下宿で寝泊りしている。船の整備は終わり、休暇期間は終わった。訓練航海や会社の部隊だけの訓練、ザルグラド大公国軍との合同訓練、そして会社の仕事の繰り返し。

 シーシャは朝が早いので部屋にはいない。ノルトバルは自分の格好が寝相程度に乱れ気味なのを確認し、面倒くさいので整えないまま部屋を出る。部屋を出ると、掃布で廊下を掃除中のアウリュディア。

「私が言うことじゃあないが、お互い支え合え」

「あ、はい」

 何のつもりか特に意識もしていないのか、このアウリュディアは意味深で説教くさい台詞を時折吐く。まあ年寄りってのはそういうもんかと思い、ズボンに手を突っ込みながら食堂に入る。

 今日は学校が休みでゆっくり寝てる連中が多いようで、食卓に置かれた椀の数が少ない。ズボンに突っ込んだ手のにおいを何となく嗅いで、鼻で民謡を歌いながら朝食を作ってるシーシャと、手伝っているクリスティアのケツを見比べる。シーシャが頭に巻いたスカーフから背中へ垂れる髪が揺れるのを眺める。首を少し曲げる度に換金しなかったメサリアの耳飾が朝日に反射して光る。この時のためなら何でもしてやろうという気になったところで外に出る。

 白くなった吐息で遊びながら、裏の水場で全裸になって桶で水を汲んで被る。寒くて全身が震える。あとうがいしてそのまま飲んで、手鼻かんで水路に体を沈める。ビリビリと痛いが目が覚める。

 水路から上がって、寒気で固まろうとしている体を適当な体操で暖めて動くようにする。手で体の水気を払ってから靴とズボンだけ履いて、シャツは肩に引っ掛けて薪置き場へ向かう。シーシャと同じ部屋だがタダで食って寝てをしているので、共用暖炉と炊事用の薪を割ることを自主的に仕事にしている。その二つは本来は下宿生が交代してやっていた。

 錆びて茶色くなった斧を持って、薪をボロボロの切り株に乗せて叩き割る。目が覚めたと思ったらやはり出て来る欠伸を出して叩き割る。割った薪は十分に用意してあるが、少しづつでも足しておくと留守が長くても安心。

 そろそろここでも雪が降る季節で、寒がりはもう暖炉を使っている。自分の分の薪を割りにきた下宿生に斧を渡して、割った薪を積んでからシャツを着て食堂に戻る。

「おう」

「よっ」

「おはようございます」

 今になって朝の挨拶をし、朝食を出された順番に食べる。時間はまだあるが仕事のある日なのでゆっくりはしない。部屋に戻って着替える。

 最近になってようやく支給された中大洋社の灰色の制服を着て、市場に出回ってたマリエン軍の外套の中古を上から羽織り、腰帯を巻く。。シーシャが縁取りの刺繍を入れた黒い布を綺麗に頭に巻く。見た目がいいなら制帽じゃなくても可能で、外套については規定がない。刀と短剣と拳銃を差し、村を出る時に貰ったスカーフを首に巻き、頭蓋骨に挨拶してから部屋を出る。すると、玄関でシーシャが待ち構えてる。

「行ってくる」

「へへん」

 返事でもない返事をして、会社へ向かうと後ろをついてくる。

「んだよ」

「いっぺんくらいノルくんの職場見たいじゃない」

「ああん? ああ、デケぇ船くらいは見れるな」

 会社の敷地前に到着すると、パルドノヴォでやってたより規模の大きい面接会場が設営されている最中。中大洋社旗とザルグラド大公国旗が支柱に掲げられている。一般社員、臨時社員、魔法使い、ザルグラド大公国陸軍と海軍と種類が分かれている。魔法使いの所だけは射的場みたいになってる。

 立て看板にはこう書かれている。

 中大洋社一般及び臨時社員募集中。シェテル語での読み書きが出来、尚且つ健康な方以外はお断りしております。現在は女性社員も募集しております。種族人種年齢は問いません、能力のみを評価します。併せてザルグラド大公国軍の募集も行っておりますので、興味のある方はそちらをお尋ねください。

「何あれ?」

「社員募集してんだよ。臨時やらってのはザルグラドと一緒に難しいことやってるから人足りねぇって話みてぇだ。いつどうやって何するか分からねぇが、マンゼアの糞っ垂れどもぶっ殺す算段してる最中だ」

「ふーん」

 特に説明する必要もない倉庫の間をすり抜け、荷馬車を優先させるのが心得なのでその行列が過ぎ去るのを待ち、岸壁に着く。他の港にも分散しているが、アモラタト海で戦った船のほとんどは港に残って遠隔地に行くような通常業務に戻っていない。理由を知らされているわけではないが、またいつでも戦争が出来るようにしていると思われる。

「おおー、ザルグラドでもちょっこら見たけどそれより糞デッケぇー」

 シーシャが旗艦バスマンの嵐の帆柱の天辺を仰ぐ。ノルトバルは自分の戦闘配置の戦闘楼あたりを指差す。

「船のケツの帆柱の所の真ん中ぐれぇに戦闘楼ってあんだよ。そこで戦闘になりゃ俺はあそこで銃撃つんだ。でその下よりもうちょいケツの左っかわが航海直っつって、何もねぇ時に警備してる」

「え、どこ、分かんね、まいいや。スゲェとこでお勤めしてんだね」

「うんまあ、よく分かんねぇことばっかだけどスゲェわ」

 船に繋ぐ桟橋の警備している海兵に挨拶をして社員証を見せて渡り、途中で振り返る。

「ここまでだ。気ぃ付けて帰れよ」

「はいはーい」

 笑顔で大きく手を振るシーシャに手を振り返して船に乗る。船に乗っている水夫も手を振ってるのでチラっと後ろを見ると、シーシャが両手を振って愛想よくしている。

 気恥ずかしくなって後部甲板へ急ぐ。水夫連中が「何だよアレ!」って言ってくるから「うるせぇ糞っ垂れ!」と返しておく。

 後部甲板に上ると、寒くなっているのに牙飾りの制帽で顔を扇いでいるサイが待ち構えている。やおら顔を近付けてきて鼻を一回すする。

「何だよ?」

「随分可愛らしい恋人じゃない。最近ずっといい顔なのはあのせい?」

「恋人じゃねぇよ。よく分かんねぇけど」

「へぇ?」

「そのいい顔だかよ、サイもだ」

「ん?」

 サイの制帽で扇ぐ手が止まる。簡単なこと言おうとして、急に照れくさくなって言葉がつっかえる。

「あっと、いっつもよ、色々あれ、他にも世話とかなんか教えてくれてよ、あー、なんつーかな……」

 ぶっ叩くように頭に手を添えてグリグリ撫でられる。

「痛ぇ!」

 ハゲに戻るかと思うほど痛い。ノルトバルの体力では逃げることが出来ない。

「止めろこの腐れマンコ!」

「可愛がって欲しいからそんなこと言うんでしょ」

 ケツを引っ叩かれる。斬られたかと思うぐらい痛い。昔、親父に馬用の鞭でケツ叩かれた記憶が蘇る。そしてさすりたくてもさすれないケツの痛さに苦しみながら船内の武器庫に行って自分の小銃を受け取って背負う。

 外を出てしばらく待つと海兵と海兵士官が揃い、整列して待機。バスマンの嵐の海兵隊長と副長が船内から出て来て今日の仕事を説明する。

 内容は面接会場の警備、そして面接にきた連中のふるい分けだ。全体を二つに分ける時に使う、左舷直と右舷直が交代しながら休み休み行う。各班ずつ整列し、面接会場で割り当てられた箇所へ配置に付く。もう既に会場は準備が整っている。ザルグラド大公国軍の所とは仕切りが分かりやすく作ってある。

 我々第一一戦闘班は、一般職員になりにきた連中を選り分けをする。素人でも分かる健康検査で、目の状態、歯の状態、手足の状態を見る。それと各自に種類がバラバラな本が渡され、ある一文が読めるかどうか確かめさせる。海兵や水夫ではなくても、普通の事務員志望でも行う。不健康な奴だと航路の途中で死ぬか瀕死になって船から捨てるはめになって役に立たないとか。

 開始時刻になり、鐘が鳴らされる。中大洋社の方は給料や待遇がいいという噂で大人気、そしてザルグラド大公国の方は人気がない上に遠目にも変な奴が多い。

 早速ノルトバルが検査する人間が現れ始める。特に問題は認められない者が多いが、やはり酷いのがいる。こんなのいちいち相手にしていてはキリがないという輩だ。視力がほとんどない。虫歯が進みすぎて砂利のような歯。指が足りない。背骨が曲がって老人のよう。膝がほとんど曲がらない。女の子供よりか細い。あまりにも高齢。字が読めるフリして指摘されると怒る。勘弁してくれと思うような連中が予想以上にやってくる。思ったより疲れてしまう。

 魔法使いの所は何をやっているのか、時折爆発したみたいな音が鳴る。急に悲鳴を上げて観衆が逃げ出すこともある。

 そうして面接も終わり、海兵は解散。今日は当直なので船で寝泊りする。

 翌日になって朝食を済ませたら早めに集合の号令が掛かり、ザルグラド大公国との合同訓練になると告げられる。

 海兵は班ごとに列を作り、海兵隊長を先頭に進む。郊外の訓練場まで行くため、歩くだけ時刻が昼前ぐらいになる。到着と同時に早い昼食休憩になり、航海中とは天と地ほどの差がある美味くて量のある飯を食う。ザルグラド大公国軍と混じって食うのは友好を深めるためだそうだ。知っている顔がいないか探したがいない。マリエン軍の外套を着ているので何度か声は掛けられたが、同じ連隊の奴はいなかった。

 午後の訓練には正規軍の他に、武装した坊さんや神学生が加わって大所帯になる。そして部隊ごとに整列して戦列を組み、行進訓練、一斉射撃、敵がいると想定して雄叫びを上げて銃剣突撃。初めは中大洋社も一緒に肩を並べて、班ごとに整列して、行進、一斉射撃、そして抜刀突撃とやる。しかしこれはこういうやり方もあるから一回やってみようという程度らしい。数と気迫で敵を圧倒して一斉射撃を食らわし、自分の体を盾に後ろの仲間を守って銃剣突撃をやるような正規軍の戦闘は中大洋社には不向きらしい。

 その後は班ごとに整列もしないで、指揮する海兵士官に従って進む、止る、撃つと自由裁量でやり始める。声に出さないで指示を出す手の合図はどうか、誰が前で誰が後ろ、足の早い遅いに持久力はどの程度か、などと班で行動する時に確かめておきたいことを確かめる。

 最後に中大洋社の海兵全体が海兵隊長の指揮に従って前進、射撃、後退とやって訓練の終了時刻になり、汗まみれ泥まみれになって中大洋社の海兵は整列。海兵隊長を先頭に帰路へ。船に着いたのは夕方、岸壁で整列してその場で解散。解散と言っても返納する必要がある小銃の整備を終えてからであるが、大抵は当直の班の仲間に小銃を預けて帰るのがこの船のやり方になっている。初めの頃は自分とメサリアの火縄銃を他人に――サイは別として――預けて整備させるのは嫌だったが、今では自分の班は信用出来る仲間なので遠慮なく託す。

 服に付いた乾いた泥を手で払いながら下宿に帰る。当直じゃない日ぐらいは気兼ねない所で寝たいものだ。下宿に戻り、中に入る前に裏の水場に行く。クリスティアが水汲みをしている。

「おう」

「お帰りなさい」

 と返事を確認してからその場で服を脱ぎ始める。クリスティアは俯きながら台所へ行く勝手口へ足早に去る。まだ慣れてくれない。これじゃ嫌がらせになるじゃないか。外に置いてある共用の桶と洗濯板で服を洗う。あとでシーシャに乾燥を頼まないといけない。そして水場に入る。

「おっひゃー! おうおうおう」

 流石にこの季節の夕方に裸で水浴びはやっぱり寒い。手で身体をまんべんなくこする。お湯使うのは面倒くさい。村でもやっていたけども、多少服に体が汚くても気にする必要がなかった。水場の下流側、石の格子の所で小便する。

 寒さと小便後の反応で体を震わせていると、シーシャが勝手口から抜いた短剣を手に出て来る。遂にクリスティアいじめで切れたかと思ったら「頭剃ってあげよっか?」と普通の親切だった。悪いと思ってやってるなら止めればいいじゃないかと考えたが、急に止めたら失礼だと思って続行することにした。

「頼む。あー、短くするだけでいいや」

「そっかザフカーク頭だもんねぇ」

 水場から上がり、地面に座る。石畳で冷たい。体が震えてくるが、ノルトバルもシーシャも気にしてない。そして砥石で短剣をちょくちょく研ぎながら散髪する。仕上がったらしく、シーシャが頭を色んな角度から見て、薄暗くなり始めたので魔法で照らす。

「こんなもんでしょ。髭はどんな感じにするの?」

「全部剃ってくれ」

「へ、髭全部? 生えてんのにツルテンにしたらオカマになっちゃうよ」

「いいんだ。やってくれ」

「ううん? いいけど、えーマジぃ?」

 シーシャの火傷で荒れた手が肌を撫でたり軽くつまんだりして、短剣で髭が剃り落とされていく。真剣な顔付きで覗いてくる灰色の目、メサリアと色だけじゃなくて模様も違う。じっとしていると寒さが堪えてくる。あの時のように楽しむ時間は短かった。シーシャが桶に水を汲んで持ち上げる。

「水掛けるから目閉じて」

 わざわざ喋らないでぶっ掛ければいいのに。何か悪戯でも考えてるのか? 昔はともかく、今なら何でもやってほしいぐらいに思ってる。仕上げの水が掛けられて、顔と体をブルブル振る。その次はゆっくりと頭から掛けられる。顔に何か感触があって、何かされた様子。顔を触って、手を見ても何か付けられた様子はない。何だ?

 シーシャは珍しく顔を隠して笑い、両手で同時に平手打ちを食らわしてくる。

「うっひゃう!」

 奇声を上げて走って逃げ、転ぶ。

「いってぇ糞っ垂れ!」

 起き上がって台所へ逃げる。とりあえず楽しそうならいいかと思って切り上げる。濡れた服は適当に絞って外に干し、いつも通りに素っ裸のまま下宿に入る。慣れた下宿生は顔が合っても笑うくらい。

 アウリュディアに貰った服に着替えて食堂で待機。ここの倉庫には使えそうな歴代下宿生の置いていった物があるので、アウリュディアの好意でこの服から食器から全部貰った。

 食堂に備え付けられている大型の暖炉に薪突っ込んで火を調節する。夜が更けると更に冷えるし、ここの暖炉は熱気が床下全体に回るようになっているから少々熱めにしても無駄じゃない。

 村で作っていた時よりも断然手が込んだ料理を頂く。前菜、主菜、余った材料で作るおまけの一品、汁物、野菜や果物、パンか炊いた飯かお粥か焼き飯か、まあまあいい値がする飯屋でもやらないんじゃないかというぐらいだ。流石にあの母ちゃんに仕込まれたとはいえ、シーシャ一人で毎日毎食と一○人以上に食わせられるものではない。あのクリスティアもよくやっているということだ。

 食後に、会社の売店で安く売ってたお茶を皆で飲む。淹れたのはクリスティアで、お湯の温度から何から工夫がいるらしい。味は正直分からないが、お湯よりお茶の方がやはりいい。

 シーシャはクソボロ手袋をはめ、薪の焚き付けが得意なので全部屋を回りにいく。

 暇つぶしにクリスティアの部屋に冗談で入ろうとすると小声で「ごめんなさい」を繰り返されてやむなく撤退。

 部屋に入り、新しく運び込んだ寝台に横になる。流石に寝台一つだと寝ている内に首絞めたり裏拳で起こしたり蹴り落としたりと、仲がいい悪い以前の問題が起きたためだ。元々あった寝台は昔住んでいた下宿生が置いていった物で、一人でも少々狭い型だ。

 シーシャが部屋に戻ってきて、部屋に設置されてる小型の暖炉に火を入れる。髭剃ってから、飯の時も今も何も言わないし、顔も向けない。だからと言ってどうしたおめぇ? とは言わないが。

 隣に座ってシーシャの手を取って、手袋を外して傷痕が増えてないか見る。小さい頃から魔法を使って火傷を繰り返してた。

「なぁに?」

「上手になったか?」

「手袋付けるよう気ぃ付けてるから何にも」

「そうか」

 こすり合わせると固くてガサガサした感触がする。火傷の他にもあかぎれ痕がある。毎日あれだけ飯作ってればなるか。

「手、火傷? それ」

 シーシャは、手が火傷痕で斑になった所を指先で軽く引っかいてくる。

「火縄銃使ってるからなるんだ」

「ふぅん。間抜け」

「うるせぇ大間抜け」

 しばらく何も言わないで暖炉の火を見て、眠くなって寝る。


 今日は学校が休み。ノルトバルも休みで、適当に外を散歩をしてくると言って出て行った。ビックリさせてやる。

 中大洋社の敷地前の面接会場、人気のある所に長い行列、そうじゃない場所はそれなり。間違った列に入らないように気を付ける。

 入った列、魔法使いの所は人間離れした者が多い。スカートの下から足が二本、触手が四本。青い皮膚に蠢く白い模様。普通だと思ったら足が地面から浮いてる。次々と色を変える宝石のような鱗のトカゲ頭。前にいたと思ったら次の瞬間には先頭に立ってる。何だこの化物どもはと思ったが、ここではシーシャが場違いだ。ただ一見普通の奴も当然いるのでそこまで気にする必要はないかもしれない。

 休学申請は合格してからでいい。落ちるつもりは屁もないが、無駄に休学申請出してから落ちたら糞間抜けだ。その糞間抜けが先生にバレたらケツの穴にあの棒突っ込まれてぶん回された後に一万発ぐらい飛蝗打ちを食らうだろう。

 列の並んだ先に面接官がいる。黒いと思ったら染めたぐらいに汚れが染み付いた服を着て、よく育った海草みたいな頭で、貧乏ゆすりしながら煙管くわえて煙吹かしてる。近くにいる職員がその煙に異様なほど嫌な顔をしているのでたぶん大麻。急にサンダルを脱いで、足の指の間を掻き始める。

「うわ、水虫なってる!」

 遂にほじくり出したと思ったら肉を千切って順番を待つ魔法使いの目の前に投げ、食ってるみたいに舐めたあとにサンダルを履き直す。

「ふぃー痛い痛い。あ? ああ、次あんた」

 そして舌を鳴らして次の魔法使いを呼ぶ。それを理解出来ず待っていると、机を踵でガンガン蹴って気付かせる。

「はーい、次の方どうぞぉ」

 やたら色っぽい唇と声でもある。男ならともかく、女から見ると何か気に入らねぇ。その魔法使いは直ぐにあしらわれて不合格。

 それからは化物連中は大体あの面接官と知り合いらしく、適当に雑談して採用されていく。それ以外は適当にあしらわれたり、試しにと射的場に魔法ぶち込んでデカい音立ててみせて、そして笑われて終わり。

 シーシャの番になり、緊張して前に進み出る。面接官の舐めてた指の間が見えたが、傷がなくなってる。

「何しにきたの?」

 こちらを見もしないで言う。嫌な圧迫を感じるが、それは意識から切り離す。

「マンゼアの糞っ垂れどもぶっ殺せるって聞きました」

「あーそう。じゃあ横の射的場で的に向かって得意の何かやって」

 射的場の立ち位置に付く。目標は人間大の藁人形、クソボロ手袋はめて、指先で狙って光で燃やす。湿った藁だったのか、白煙を大きく吐きながら火達磨になって倒れる。職員が水掛けて消火。次に、牛の糞の燃える何かで派手にやろうとすると妨害される。

 たぶんその妨害をした面接官が手招きをしているのでその前に戻る。今のを見もしていない様子だが、先生のように何やってるか察知する能力ぐらいあるのだろう。

「ま、そんなもんでしょ。集団魔法の経験は?」

 聞いたことがない言葉に思考が固まる。少し頭を振って振り払う。知らないのだからしょうがない。

「ありません」

「ない? そう。この辺りに転がってる青臭い魔法使い未満ってことは、金ふんだくるのだけは一丁前のインチキ学校の魔法学部のガキんちょね?」

「そうです」

「学生はおとなしく勉強やら交尾に励んで飲めや歌えやして教師の鞄にネズミ突っ込んで角定規で血出るまで頭殴られてるもんで、戦争ごっこをするもんじゃない。ま、道行く凡人が悲鳴上げて道開けてくれるようなぐらいになったらまた相手してあげる。じゃあね学生」

 結局面接官の目を見ることもなくあっさりと不合格。自然と人ごみがシーシャを避けるように距離を取っていく。くる時は肩がぶつかることもあったが、魔法使いと分かったらもう腕広げて踊れるぐらいだ。溜息を漏らしながらクソボロ手袋を外し、下宿に帰ることにする。

「おいシーシャ」

 鼻をつまんで声を変える。

「違います、私はうんこちゃんです。シーシャじゃありません」

「何やってんだおめぇ!」

 声の方を向くと、仕事が休みのはずのノルトバルが血相変えて怒ってる。昔悪戯で家の中に豚三頭入れて中を糞塗れにした時以来の面だ。

「まあまあ、まあまあ」

 両の手のひらでノルトバルの熱気を冷まさんと扇ぐ。

「他人事じゃねぇぞ」

「だって留学のせいで初陣飾れなかったし、それに一人だけだと心配じゃん?」

「てめぇ糞女、どんだけ危ねぇか分かってんのか! 戦争ってなてめぇ、蟻の方がマシじゃねぇかってくらいあっという間にくたばっちまうんだぞ! 気付いたら隣にいた奴がおっ死んじまってんだぞアホか、何のため俺が金稼ごうってな……」

 頭に血が上り過ぎて言葉に詰まって様子で、噛み合せた歯をギチギチ鳴らしてる。

「ほらぁ顔おっかないよ? 笑顔笑顔ぉ、笑顔の可愛いノルくんはどこかなぁ?」

 出来る限りの笑顔を作って顔を指差す。

「あ、そこにいた!」

 ゴツンと鳴って、一瞬視界が黒くなったと思ったら空が見え、足を開いて崩れた体勢を立て直す。痛さと衝撃からして頭突きか。

「痛ってぇ! やんのか糞っ垂れ!」

 ノルトバルの鼻を殴る。鼻血を垂らし、こちらを睨み付けながら鼻息を吹いて血を地面に出す。

「そこらのケツ出すしか能のねぇ糞女と一緒にすんじゃねぇ!」

 ノルトバルは鼻から血をボタボタ落としながら動かない。昔なら遠慮なく殴り返してくるはずなのに。何を考えてる?

 喧嘩に気付いた周囲の人が好き勝手にはやし始める。やっちまえ程度の言葉から「ぶっ殺せ」「腰抜け野郎」「女裸に剥け」と過激になってきて、ノルトバルが拳銃を抜いて空に向かって撃ち、こちらには背を向けて刀を抜き払う。

「見せもんじゃねぇぞてめぇら!」

 悲鳴が上がって、人ごみが押し合いへし合いを始める。逃げずにやってやるとばかりに武器を手に出て来る連中もいる。直ぐにクソボロ手袋をはめ、ノルトバルへ向かっていく一人を焼き殺そうとした時、飛び込んできた中大洋社の海兵がノルトバルの頭を掴んで地面に叩き付けた。その海兵はデッカい男みたいな女で、耳がイカれるような大音量の指笛を鳴らして海兵を呼び寄せる。海兵によって人ごみが整理されて散らされる。

 男女はノルトバルの顔を掴んで持ち上げて立たせる。スゲェ馬鹿力。

「どうしたの?」

 女のくせに渋くて優しい声を出す。ノルトバルはフラフラしながら刀を納め、ボソボソ喋る。

「このアホが魔法使いのとこ……」

 男女が今度はこっちを向く。何にせよ邪魔しやがったのは気に入らない。

「どうしたの?」

「不合格だもん、何でもない」

 男女は首を傾げ、海兵の一人を呼び寄せてノルトバルを会社の方へ連れて行かせる。そして身を屈めてこちらに顔の高さを合わせる。ガキ扱いされてるようで拳に力が入ってくるが抑える。

「喧嘩したの?」

「あんなの大したことない」

 目を離すのに苦労して首を振る。そして裏路地の方へ、人目の少ない方へ走る。いつまでも走ってられないので、道中街灯蹴っ飛ばしたりして歩いて下宿に帰る。

 帰ると食堂で勉強してるクリちゃんが手を振ってくる。適当に振り返す。普段ならこれで終わるが、シーシャの表情に感づいたのか席を立ってくる。

「どうしたの? 誰かと何かあった?」

「別に喧嘩してないもん」

「喧嘩って誰と? 怪我してない?」

「そんな糞みたいなのじゃないもん」

「それじゃ分かんないよ」

 あの男女みたいに身を屈めて顔の高さを合わせてくる。こっちの方はもう心底心配そうで可愛いったらありゃしない。頭も冷えて、両手でクリちゃんの頬を挟む。

「そうだ。一発逆転すればいいじゃん」

「逆転?」

「野郎なんざ鼻息一発で瀕死の棺桶予約状態にぶっ飛ばさせるぐれぇの超私になりゃいいのよ」

「意味は分からないけど、無理しないでね」

 うんうん頷きながらクリちゃんの肩を押して席に戻す。

 具体的にどうしましょ? 先人の知恵、アウリュディア先生の知恵を借りようと結論。先生の使い魔が下宿を見張っているはずなので、先生の部屋の前で呼んでみるが返事や反応もない。いきなり無断でガサ入れする気はないが、いないのだから仕方がない、急をおそらく要する。お前にはまだ早いから止めとけとか言われそうだし、事後承諾を取るべし。

 ドアを叩くと反応はない。手を掛けると鍵は開いてる。ちょっと失礼して中を拝見、覗かせてもらおうじゃないか。スカーフの結び目を鼻の下にして先生の部屋へ。これだけやったのに中にいた時のことを考え、先生にちょっとした笑いを取るためである。まあ笑わないだろうが。

 中は、おそらく魔法に関係する文献が所狭しと並んでいる。本棚には工房で製本されたような立派な本よりも、紙に穴を開けて紐を通したような手作りの本や巻物が多い。羊皮紙製の物から竹簡に木簡まであり、わざわざ石版まで置いてある。それに囲まれるように本に紙に筆記用具が置かれた机、製本器具が設置された作業台。天井一面が天窓で、その四隅に魔法道具の室内灯が設置してある。寝室かと思っていたら寝台はなく、暖炉もない。しかし着替えはあるようだ。シーシャが起きる前から掃除をしている時もあるし、もしかして寝ないのか?

 今は関係ないことは置いておき、探す。手っ取り早く強くなるためには他力が必要だ。一人で持ち上がらない荷物は二人で持てばいい。そんなことは力仕事をやれば分かること、子供の頃から知ってる。

 そして魔法使いにとっての他力とは即ち使い魔。あの薄汚ぇ水虫婆さんを納得させるような使い魔だ。先生は危険があることを何度も言っていたし、普通は隠したいようなことも教えて警告してくれた。それは分かっているが、それも分かった上で必要だ。初陣を飾る、マンゼア人をぶっ殺す、ノルトバルにはもうあんな目に合わせない、この三つ。

 本棚をまず見ていく。言語ごとには分かれていないが、種類ごとには分かれている。使い魔術に関した本が並ぶ棚を発見。シェテル語で書かれている表紙の本を開く。そうすると、シェテル語ではあるがどうにも年代が古すぎて今と言葉が違う。所々読み取れるが、それも正しいか怪しい。今では使われている発音指示記号がないので更に難しい。

 次に現代シェテル語で書かれている表紙の本を開く。違う言語の記述とその現代シェテル語訳が併記されているという親切な形式が取られている。一項ごとに先生の注釈が書かれた紙が挟まれ、何度も訂正している記述方式への注意点や造語の意味の推測などがされている。先生でも読み解くのに四苦八苦している内容だ。シーシャには言葉が読めても内容が理解出来ない。

 ザルハル語で書かれたような本は勿論なく、シェテル語で書かれている本を何度も開くが、それでも読めないか内容が難解であるか。読める本はあったが、話が飛んだり意味不明な哲学が続き、そもそも内容が何だったか分からなくなる。よく見ると本の表紙には”未解読。ホエン式暗号文と類似性あり”と書かれた紙が貼り付けてあった。

 分かる本は結局なかった。おそらく本棚に納められている物は全て解読作業中の物だ。選択科目の中でも一番心の中で馬鹿にしていた言語学の重要性に驚く。本棚に見切りを付け、机の引き出しを探る。表題に番号と年月日が書かれたノートが山程出て来る。筆記用具の棚とよく分からない魔法道具っぽい棚以外は全てそうだ。

 使い魔と書かれているようなノートを開いていく。専用の魔法道具は、構造についての考察が書かれている。勉強したことのない内容なので理解不能。

 知能の低い生物は、昆虫類や爬虫類や魚類など、大量に調達して飼育する必要性が説かれている。知能の高い生物は鳥類や哺乳類で、自立性をどの程度容認した方がいいかと実験例が記載されている。これは調達する手間とその生物が使い物になるかという問題がある。

 情報生物は情報世界から魔法で具現化させる。以前それを試したが、想像と全然違う気持ち悪い変な肉か何かが一瞬現れて塵になって消えた一件があった以降怖くてやれない。先生には本気で怒られそうなので言っていない。

 ノートの中には色々と凄そうな既存の情報生物が記載されている。完全に創作するよりは記載されているような既に情報世界にいる生物の方が簡単だと書いてあり、しかしその分想定外の動きをするので危険とも書いてある。

 使い魔という手段は全て困難だと思い知らされる。次は超人化とかいう、あの面接会場にいたような化物連中の仲間入り以外に方法はないのかと思いながら、最後の世界の支配者と呼ばれる者達を読む。このノートだけ他よりは気合が入っていて冊数が多い。残念ながら不揃いのようで番号が飛び飛びで置いてある。

 それでも読み進める。知ってる世界の支配者、”獣の母””彷徨う者”といったザルハルでは有名な彼等の記述もある。書いている内容は、確証、噂話、伝説などと分類分けした行動記録のような物だ。面白いが役に立ちそうにない。ひたすら字を目で追い続けていると頭が痛くなって疲れてくる。そろそろ諦めるかという気になった時、”彷徨う者”を呼ぶための儀式と思しき記述が目に付く。先生の雑用紙を拝借し、鉛筆も借りてその部分を写す。これしかない。他の世界の支配者を呼ぶような儀式の記述もあるが、頼るならば迷える者達の道標たる”彷徨う者”しかない。

 先生の部屋を元の状態に直し、儀式のようなものに備えることにする。

 いつも通りに下宿生達に飯を食わせ、何かする素振りも見せないで過ごす。いつものシーシャに戻ったように見えたのか、クリちゃんもいつも通り。ノルトバルは、どうやって邪魔させないようにするか考えていたが夕食が終わっても帰ってこない。手間が省けた。

 まず一番大事なのは、綺麗な夜空。幸運にも今日は天候に恵まれて星がよく見え、星座の”彷徨う者”がよく見える。机の上、皿にはパンを一つと一つまみ分の塩。遊牧世界と周辺地域で客人を持て成す基本とされている。ザルハルでは肉でも米でもお茶でも酒でも、水の一杯でもいいことになっていたが、ここは基本でやる。部屋の窓を開ける。冷たい風が流れ込んできて暖炉の火を揺らす。屋外じゃなくて屋内で窓を開ける必要があるような記述だった。ここは少し間違っているかもしれない。

 意外に簡単で、あとはよく分からない外国語を、本来の使い方から外れた発音指示記号を多様してシェテル語表記にした召喚の呪文っぽい何かを唱える。

「アニスト? えーと、クラズブッ、ブ? ぶって、えーと、アハンハルシィ、イー、アイターウ……ううん? 駄目だよねこれじゃねぇ、今の練習! なしなし」

「いや、結構だよお嬢さん」

「おわッ!?」

 気付けば部屋の中にはいつの間にか、教会の絵にあった偉そうなおっさんみたいな面したおっさんがいた。そのおっさんは口に人差し指を当てる。

「しー、楽しい夢を邪魔しちゃいけない」

「あ、お、おー、そだね」

 そのつもりでやってみた儀式だが、本当に成功するだなんて思ってもみなかったのが本音だ。これで駄目なら諦める気だったが。

「さて、随分と廃れた言葉で呼んでもらったが、何のご用かな」

「うん。とりあえず、ババっと戦争に勝っちゃう力が欲しいの……あー違う、違くねぇけど、えーとね」

 咄嗟に希望を言ってみたが、こんな言葉で通じるわけないと思って、呻りながら言葉を考え直す。

「それで分かるよ。それは強い力が必要そうだ。まずはそう、適正診断ってところかな」

「うん、どうすんの?」

「手を出して」

「うん」

 握手を求めるように手を出す。たぶん”彷徨う者”のおっさんは、握らずに手のひらを合わせる。

「何か分かった?」

「珍しい、彼女が大丈夫なのか」

「彼女?」

「私は可愛い子だと思ってるよ」

「おお、可愛いって素晴らしいよね」

 ”彷徨う者”は手を離し、微笑する。全然意味が分らない。

「君に力を与える代わりに、条件として本名を名乗ってもらう。そうしないと重要な部分に干渉出来ず、適切な処置が行えない。魔法使いの本名は、親と本人しか知らないのが常識だ。名付け親が名付けたあとに自害して永遠に秘匿するという習慣もあるくらいだ。選ぶといい」

 そう言われると言葉も出ない。何があっても死んでも教えるなとはお母ちゃんから何度も言われている。頭蓋骨の方を見ても、何かぶち切れてる顔になってる気がする。しかし相手は”彷徨う者”迷える者の道標。神さまだったらいいんじゃないか?

「あの、他の人に言わない?」

「それは勿論だ。彼女を預かってもらう君に万が一のことがあったら私が困る」

「うん、それじゃあ」

 ”彷徨う者”の耳元に口を寄せ、喋ってはいけないと言葉が何度もつっかえながらも、本名を囁く。

「承知した。うん、では目を瞑って」

 頭に”彷徨う者”の手が乗る。

「構えて」

「構える?」

「踏ん張って、倒れないように。怪我するといけない」

「怪我?」

「だから踏ん張って、転ばなきゃ痛くない」

「う、うん」

 足を肩幅に開いて、膝を軽く曲げ、拳を握って胸の高さまで上げる。

「おら、こいや!」

「では」

 胸を手のひらで叩かれる。痛くはないが勢いで一歩下がる。

「ちょ、このえっち!」

 目を開くと”彷徨う者”はもういない。

「あれ?」

 窓はいつの間にか閉まり、パンと塩は消え、お洒落な筆記体で置手紙がある。

 ごちそうさま、マハンリをよろしく。

「えふん、成功? うーん、失敗? マハンリって何じゃらほい」

『成功だよ』

「あ、誰?」

 部屋を見回しても誰もいない。

「ありゃ?」

 頭痛、じゃないが一瞬視界が途切れ、何かが切り替わった感じになり、女の子の高い笑い声が聞こえ始め、頭に響く。痛くないけど痛いくらい響く。

「え、何、気持ち悪っ」

 笑い声は止らず、急に吐き気、悪寒。部屋汚したら先生に怒られる。走って裏の水場へ行き、用水路に吐く。今日の夕食どころかうんこになった朝食まで吐き出してるんじゃないかというぐらい出る。引っ繰り返した水桶みたいに胃液どころか血まで吐いてるんじゃないかというぐらい出る。粗方吐き出すとスッキリ、今度はメチャクチャ喉が渇く。水を飲む、最初は手で掬う、面倒くさい、用水路に顔突っ込んで飲む。飲み水じゃないとか先生が言ってたが我慢出来ない。

 今度は熱い、腹減った。フラフラ歩いて食堂に目を向けはあっちは共用だと自分に言い聞かせ、部屋に戻って保存用の塩漬け肉を食う、炊いてない生米を食う。直ぐに袋が空になる。変だ、何でこんなに食べれるの? それにしても美味い。

 目が痒くなってきて、腕でこすると涙とは思えない物が粘り付く。それが目に付いたのか何なのか、目が見えない。何度か拭っていると見えてくるが、夜で灯りもないのによく見える気がする。

 暑いから服を脱ぎ、窓を開けようとすると、窓ガラスに緑色の光がぼんやり反射している。ガラスに顔を近付けると、目が光っている?

 ガラスをしばらく見ていると、全身が痒くなってきて、誤魔化すためにこすっていると髪の毛がまとまって床に落ちる。悲鳴を上げそうになって、自分の口を手で押さえて堪えるが、呻るような声は抑えれない。頭を触っていると、髪の毛が全部落ちる。こんなのもう外に出れない、誰かに見られたら死んじゃいたい。

 今度は急に寒気が襲ってくる。布団を引っ張って体を包む。隣の部屋に聞こえないように泣いているつもりだが、聞こえているかもしれない。

 そして部屋のドアが軽く叩かれる。この気を遣ったような叩き方はクリちゃんだ。

 ドアに鍵掛けるか、窓から逃げるか、迷っている内に包丁を逆手にもってクリちゃんが素早く入ってくる。おめぇどこで訓練を受けたんだと一瞬いつもの頭に戻るが、目と目が合って恥ずかしく惨めになってくる。

「誰?」

 いつものクリちゃんじゃない声に返事が出ず、鼻啜るだけ。

「シーシャ!?」

 包丁を捨ててクリちゃんが駆け寄って抱きついてくる。見られたくないし気付かれたくもない、しかし安堵する。

「どうしたの?」

 頭を撫でられる。そしておかしくはないが、頭に毛がある感触が確かにあった。

「ねぇ、何で目と髪の毛光ってるの?」

「え? 髪も」

 ようやく声が出せるようになる。生えてきた?

「髪切ったの? あ、切られた!?」

「違う、抜けた」

「抜けた? そんな薬か何かでしない限り……何やったの?」

「ううん」

「アウリュディア先生呼んでくるよ。待ってて」

 背中を向けたクリちゃんの腰にしがみ付く。少し引っ張られるが、止ってくれる。

「何があったか言ってくれないと先生に言うよ」

 今度は脅される。これには勝てないか? 部屋のドアが叩かれもせず声掛けもなしに開こうとする。これはノルトバル! 最悪だ。クリちゃんが咄嗟に反応してドアが完全に開かないように足を引っ掛ける。

「んだよ、何してんだよ」

 酔っ払った時のノルトバルの声色だ。

「駄目、入らないで」

「あん? シーシャどうしたおめぇ」

「あなたお酒臭いじゃない。絶対駄目」

「いや意味分かんねぇよ。あいつも飲むぞ。おら土産」

「いいから。寝るんだったら私の部屋使いなさい」

 クリちゃんはドアを強く閉めて鍵を掛ける。やはりいつものクリちゃんじゃない。土産って何だ?

 あとはクリちゃんの成すがまま、布団で包まれ、寝台を整えられて寝かされる。抜けた毛やこんなの体から出るのかという変な汁から全部始末してくれる。水汲みに行く時も、廊下で粘るノルトバルに入ったら殺すみたいなことを言って、ビビったのか何も言わず何もしない。

 時間が経つたびに体の痒みがなくなり、全身が軽く麻痺したようになって筋肉が勝手に少しピクピクする以外は感覚的におかしな所は何もなくなってきた。むしろ気持ちいぐらい。クリちゃんに小まめに体を拭かれたり、優しく何事か声を掛けられ続けられていると耳だけ起きてるような感じになる。夢かもしれないし、体を動かせなくなったのかもしれない。

 謎の声、などではないマハンリの声が聞こえる。笑い声や無数の言葉が重なって何を言っているかハッキリとはしないが、喜んでいて自分を馬鹿にしている。声は出ないが心の声で言い返す。

 うるせぇ糞っ垂れ。

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