もらいびき4
火が消え、仮宅ですぐに角隅屋は営業を再開した。場所は日本橋近く、元吉原の中であった。面倒な手順を踏まずに遊女と遊べるとあって、仮宅は開店初日から大賑わいであった。
「焼け太りする角隅屋」
つまらぬ戯言をいう客も多く、百花と清彦は苦々しい思いで聞き流した。
角隅屋は、二人の花魁を失った悲しみをすでに忘れたかのような大賑わいであった。
百花は焼け跡から見つかった一花のサンゴの簪を形見に貰った。
清彦の母は、何も残さず消えてしまっていた。女将は、清彦を気の毒に思い、そのまま角隅屋で住み込み働くことを認めたのだった。
清彦は、あのころから、百花が生まれてからずっと、百花の影のようにいつでもそばにいた。そして、百花が手を引いてくれた柳の下を通るたびに、暖かいぬくもりを思い出し、何があっても、百花を幸せにしてやろうと決意を新たにするのだった。
百花の手当てを終えた清彦は、人眼を避けるように、裏門から出て行った。
「もしも、あれが事実なら、許すわけにはいかない」
吉原の大門をくぐった清彦は鬼の形相で走りだした。門から三十分ほど走った先に、小さな荒寺がある。その脇に最近巷で話題の、先読みがいる。その女に今日のことを伝え、いい方法を考えなければならい。もう、清彦に迷いはなかった。
弥一郎は、妻との間に子ができぬことは、些細なことだと思っていた。できるもできぬも天に任せればよい。そんなことよりも、二人が仲睦まじく生きてゆくことが重要であると信じてきた。それは今でも変わらない。ずっと情を持ってきたし、この先も…。
妻が跡取りの心配をしているのは、痛いほどわかっていた。
大店に子がなければ養子でも貰わねばならない。弥一郎はそれでもよいと思っている。弟に子供ができればその子をもらうもよし、親戚からもらったっていいではないか。
夜も更けて、布団の中で睦まじくしようと決意しても、妻が跡取り、跡取りと言葉を発するたびに、自分の気持ちが冷めてゆき、体が言うことを利かなくなってしまった。
「わたしは、お前のなんなんだろうね」
弥一郎は意地悪く妻を責めることもあった。自分を子種としてしか見ていないのではないか、好きでもない男と体を重ねるのだから、一日も早く子を授かって、お役御免と言いたいのだろうか。妻への不信感が募り、弥一郎は春画を見ても、妻のうなじを見ても、男として妻を満足させられる自身がなくなっていることに気づいた。
「まるで、老人のようだ」
弥一郎は妻にそう呟いた。
「わたくしに魅力がないのが原因でございましょう。跡取りが必要なところへ嫁いできましたのに。お父上様御母上様がご健在ならば、わたくしは実家へ追い返されている。できの悪い嫁でございます」
そう言うと、布団を頭からかぶり背中を向けて震えてしまう。
弥一郎は優しく肩を寄せるけれど、それ以上のことはできない。
このままでは、子は無理だと失笑した。役に立たない自分の体と、その理由がいつも口にする跡取りという言葉だと、いつまでも気付かない妻に対して…。
米問屋の集まる宴席で、床上手な花魁がいると噂に上った。米富の主人が可愛がっているが、まだ誰にも身請けは決まっていない。そうはいっても、ここ最近の節操のない商いは、その花魁を身請けするための資金集めだと、鼻先で笑う声も聞こえた。
離れたところで上機嫌で杯を傾けている米富の主人は、自分の商いの仕入れは教えられないが、新しい商いだと豪語している。
みな、半値の米に内心ひやひやしているのが分かる。
弥一郎だって、気になって仕方ないのだ。いくつか小さな店は潰れたという。いくら良いものを商っていても、誠実と人情だけで店が大きくなるわけではない。
しかし、米富を負かす方法も思いつかぬ。
弥一郎は、米富の花魁に近づくことに決めた。何か秘密を握っているかもしれないし、そうではなくても、米富の天狗になった鼻をへし折ってやりたい。
身請けするほど惚れている女に、自分を間夫だといわせてみたい。
そして、自分の体が反応するかどうか、確かめてみたい気持ちもあった。もしも子ができれば、それを引き取り育てたってよいではないか。妻が伊勢参りに行っている間に、決着をつけてやろうと、一週間ほど前から、吉原へ足しげく通うようになった。
はじめての吉原は、知人の紹介で思ったよりも早くことが進み、あっという間にお糸を茶屋へ呼ぶまでに至った。
一段高い上座に座り、初めて弥一郎を「おまえさま」と呼んだ。お茶屋で会話をするようにまではなったが、床入れとなるとまだ先の話である。しかし、それは次回、必ずかなうはずである。花魁が、男を名指しで呼ぶときは、お眼鏡にかなって、客として認められたことを意味していた。
それにしても、と弥一郎は首を傾げる。こんなツンケンした女のどこがいいのか。わざとらしいありんす言葉も、キセルの煙を人に向けて長く細くはくのも気に入らない。
しかし、近づいて正解だったと内心ほくそ笑んでいた。
少ない会話の中から、米富の米の仕入れ先が、おおよそわかってきたのだ。
そして、それは非常に危ない橋を渡っていることも、予想できたのだった。
この話をネタに、半値をやめさせることも可能だと、弥一郎は小さくほほ笑んだ。