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もらいびき3

清彦は百花とお糸のやり取りを、襖の向こうで見聞きしていた。百花が折檻をされるのを、歯ぎしりしながら、ただ見ているしかできなかった。

 助ければ、さらに理不尽ないじめを受けることになるからである。お糸が廊下に大きな音を響かせながら階下に行ったのを確認してから、清彦は百花に声をかけた。

「今日は、厄日だわ…」

 かすかにほほ笑みながら百花は指を隠した。清彦は何も言わず、布を強く百花の指に巻きつけ止血した。


 百花と同様に清彦も廓の世界しか知らない。廓で生まれ、育った。物心つくころから、廓の下働きをして女郎達の地獄の中で、身を粉にして働いてきた。母親はこの角隅屋で目立った花魁だった。名を若菜という。記憶の中にある母は、いつも髪に大きな簪を何本もさし、キセルを左手に持ち、流し眼をしていた。人の前では常に花魁としての張りを見せて生きていたが、誰もいないところで清彦と会うと、黙って抱きしめてくれた。

 廓の中で、子供を産ませてもらえるだけありがたいことなのよ、そう言って、こっそりとお菓子を寄越してくれた。

間夫との間に子供ができても、たいていの女は捨てられた。商売女だから誰の子供か、断言できない。なおかつ、商売の邪魔になるために、間引きされるのが常であった。しかし、花魁にまで上り詰める、または稼ぎ頭になっている遊女に限って、子供を産むことを許された。それでも、たいていは養子にだされるのが常であった。そんな中で清彦のように母の働く廓で、ともに生活ができるというのは稀なことであり、それだけ母親である若菜の威厳が廓に示されていたともいえる。

 若菜の人気を追い越そうかという勢いで、愛された花魁がいた。それが百花の母親である一花であった。女の世界といえども、気の合うものもいるのだろう。若菜と一花は通い合うものがあったのか、珍しく仲の良い花魁で、吉原では花魁姉妹などと呼ばれるほどであった。

清彦から遅れること五年。百花は生まれた。父親が誰であるかは清彦も、百花も知らされていない。

清彦は百花を可愛がっていたし、百花もさびしい廓での暮らしを、清彦とともにいることで耐えてきた。幸せな数年であった。

百花は引っ込み禿として、廓ではかわいがられていたし、母たち二人の人気は年を重ねても衰えるどころか、上客は増える一方だった。清彦も持ち前の明るさと素直さで、男衆からもかわいがられていた。仕事はきついが、満ち足りていた。

 吉原での火災は珍しいことではない。気を病んだ女郎が火付けをすることもあったし、外からの火があっという間に燃え広がることもあった。吉原の女にとっては、大門の外に出られる滅多にない機会と、喜ぶ者さえいたほどである。


 今から遡ること七年。天明七年、師走に起こった火災を、清彦は昨日のことのように思い出すことができる。

吉原の中之町で点いた火種は、瞬く間に乾燥した空気に触れ、炎を大きくしながら廓から廓へと燃え広がった。

 当日、清彦は花魁から渡された手紙を、深川にある大店へ届けに出ていた。戻る舟の上から、炎上している吉原を見た。

狂ったように鳴り響く半鐘を聞いた。

船頭は船着き場へ戻ることをあきらめ、手短な河原に舟を寄せた。

「降りたいものは降りろ。俺は、日本橋へと戻る」

そう怒鳴ると同時に、竿をさし直し、船の向きを元来た方へと戻した。

清彦は船から飛び降り、着物がはだけるのも構わず、炎の方へ向かい必死に走った。

次第に温度が高くなり、肌が焼けたように痛む。煙が目に染みたが構わず進んだ。

日本堤から五十間道へ入ろうとしたが、時すでに遅く、これ以上前に進むことができない。

ぐるりと張り巡らされたおはぐろどぶに、飛び込む遊女達が小さく見えた。

母は無事だろうか。百花は、若菜さんは…。

多くの人々が、着の身着のまま逃げ惑っていた。

自分はひとりになってしまったのだろうか。

目の前の炎を見つめるうちに、これは悪い夢だと思えてきた。いくら夢だと思っても、膝の震えを抑えることができなかった。

大きな声をたてて皆の名を叫んでみても、声が震えて泣き声にしか聞こえない。

 見返り柳の脇で、清彦は崩れ落ちた。

 額に、小さな手が触れた。眼を開けると、百花が心配そうにのぞきこんでいた。

「無事だったか…」

「あい」

「母は、みんなは?」

 百花は遠くに離れたところに、へたり込んでいる女将を指さした。

「わっちには、わからんのです。女将さんに聞いてみないと…」

 六歳の百花の手にひかれ、十一歳の清彦は女将のもとへとのろのろと歩きだした。

ただ「あい」という返事が書いてみたかった。かわいい。「あい」って。

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