もらいびき2
彰吾は朝飯を簡単に済ますと、ゆきへ一言かけて外へ飛び出した。
手には大きな道具箱を抱えている。中身は薬や手当て用の布など医療用品だが、あまりに大きな箱を抱えているので、その様子がまるで大工のようだと、患者達からは大工先生呼ばれている。
日本橋を渡り、船着き場へ行くと何も言わずに乗り込んだ船は吉原へ向かう。
毎月五の付く日は、吉原に診療へ向かうことになっている。
毎回その五の日は気が重く、仮病で休んでしまいたいと思うことすらあるのだった。
幼い禿のやけどから、下級女郎の梅毒まで大門が開くまでの間、忙しさで目を回しそうになる。いくら休養しか直す術がないと伝えたところで、女郎達に休みなど与えられる道理もなく、無力な自分に苛立ちを抱え込みながら、帰りの船に乗りこむのが常なのだ。
馴染みの船頭が彰吾の顔色が悪いのを見て、船酔いかと声をかけた。
「違うんだよ。今日はね朝が早くてね。ちょっと寝不足なんだ」
「そういや、よね好の奥さまは伊勢参りだってね、いいね。俺も行ってみてぇもんだ」
「大丈夫だよ、お前さんの商売繁盛お礼も伝えてくれるだろうよ。姉上は日本橋に出入りしている全ての人のお礼まいりをするって、張り切っていたからな」
船頭は、そいつはありがてえ、と手を合わせてから舵を取った。
彰吾の商売はあまり繁盛してほしくないと願う。疫病患者や天災でのけが人は少ない方が、平和ではないか。
川を渡る風に吹かれているうちに、彰吾は眠くてたまらなくなった。
「なんか、珍しい話はないかい」
船頭は、困った顔をして首をかしげた。
「おまえさんが口が固いことは承知だよ。でも眠くてたまらないんだよ。俺も口は堅い方だ、安心して話してくれよ」
馴染みの先生に頼まれちゃ仕方ないと、吉原での噂を語りだした。
「最近は、米富さんがえらい大盤振る舞いでして、花魁を水揚げするんじゃないかって噂になっておりますよ。景気のいい話ですな」
「どこの花魁だい」
「角隅屋のお糸って花魁ですよ。ほら、べらべらしゃべっているうちに、着きましたぜ」
彰吾は、思わず米富の名が挙がったので心中驚いていた。最近、兄上の様子がおかしいのは、あの主人の節操無い商いのせいだと気にかけていたためだ。
彰吾は、米富の半値の米の噂を番頭から聞いていた。番頭は、兄の発案に反対はしたものの、ないがしろにするつもりはないらしい。どんな米を売っているのか、どんな方法で半値でやっていけるのか、調べることができればいいのだがと頭を悩ませていたのだった。
彰吾は、こっそりとゆきに命じて米を買いに行かせた。
その米は確かに半値だった。さまざまな産地の米が混ざった粗悪な米で、飲み込むのに苦労をしたが、それは彰吾が恵まれた境遇に生きてきたための贅沢だとも感じ、残さずに食べた。
こんな米でも、腹いっぱいに食えるだけありがたい、そう思っている者もたくさんいるのだ。
しかし、米富がどのようにあんな安価で販売できる米を手に入れているのか、不思議に思い、密かに調べてみようと決めているのであった。
彰吾が大門をくぐりぬけると、さっそく茶屋から声がかかった。
「大工先生、かわいそうなんで、先にみてやってくださいよ」
声の方を見やると、どこかの女将らしき人物が大きく手で招いている。先約もあったのだが、見過ごせずに足を向けた。
「先生、この子の指、見てやってくださいな」
女将の脇には愛らしい振袖新造が左手に布を巻いて立っている。
「どうしたんだい。見せてごらん」
布を取ると、中指の爪が剥がれて無くなっている。
「こりゃ、ひどいな。どうしたんだい、門にでも挟まれたのかい」
綺麗に洗浄し、清潔な布できつく巻きなおして爪の再生を待つしかなかった。
「お糸の…いや、花魁の手練手管の一つでしてね、まぁ、とにかくかわいそうな話なんですよ。百花はわたしの大事なお人形さんなもんだから、こうして先生に診ていただければ安心ですよ」
小さく頭を下げ、百花は左手をそっとかばった。よほど痛いのであろう、時々顔をゆがめるのが痛々しい。
「女将さんはどこの廓だい?」
お糸、という言葉に彰吾は反応していた。
「角隅屋ですよ。先生が来てくれたらうれしいわ。座敷に上げたい女がいたら、わたしに直接言いに来てくださいよ。特別に計らいますから。いつも、よね好の旦那にもお世話になって」
「米を買ってくれてるのかい。それはこちらこそ礼を言わなければならないね」
女将は滅相もない、と言いながら手を前後に三回ほど振った。
「先日はお客としても旦那にはお越しいただいたんですよ。お糸がお気に入りのようすでして。百花はお糸が面倒を見ている新造なんですよ」
弥一郎が吉原に来ているとは、初耳であった。妻一筋のまじめ人間であると思っていたが、こういうところにも足を運んでいるのか。
店の主人としては珍しくもない行動だか、親を亡くし、商いに精を出すべき時期に女遊びとは、彰吾は複雑な気持ちになった。
「では、おさらばえ」
女将は、新造の肩を抱きながら戻って行った。
手練手管と、爪がなくなるのにどんな共通点があるのか、彰吾には分りかねたが、今は目の前にいる患者達を診ることで精いっぱいだった。
お糸は、なぜこうも百花を憎く思うのか、自分でも不思議なくらいであった。百花の中指から無理やり剥がし取った血だらけの爪を、手桶の中で丁寧にすすぎながら、かわいそうなことをしたと、一瞬は後悔をする。
しかし、その爪をはがされた時の百花の取り澄ましたような態度を思い出すと、後悔は一瞬にして憎しみに戻ってしまう。
廓で生まれ廓でそだった百花は、広い吉原でも特別な存在だった。華やかな姿、端正な顔立ち、生まれもった芸事の呑み込みの早さ。禿のころから一目置かれていた存在だったのだ。
お糸は十を過ぎてから吉原にやってきた田舎者だった。もともとは妹が廓に買われるはずだったのだが、はやり病で死んでしまったために、代わりにやってくることになったのだった。
「こんな泥臭い子、うちには不似合いですよ」
冷たい目で言い放った女将の言葉を胸に刻み、持前の負けん気の強さでここまでのぼってきた。
見た目も十人並みで、地方なまりも抜けきれないお糸にとっては、全てに生まれながらに勝っている百花は、いくら年下といえども、憎しみの対象になってしまうのだった。
百花と比較さえされなければ、お糸は優れた花魁であった。とくに手間手管においては右に出るものなし、とも評判だった。間夫には、偽物の誠心誠意を見せたし、上客には張りを捨てて、裸寝をするほどに捨て身になれると、その心意気は吉原でも有名であった。
大門をくぐり、娑婆に出るためならどんなことでもしてやろうと、それだけを目標にお糸はこの生き地獄をたくましく生き抜いているのであった。
米富の主人から、身請けの話が上がった時には、心底喜んだ。
ここから出られるのなら、どんなことでもしてやろう、尽くしてやろうと気持ちが高ぶった。
しかし、実際の身請けとなれば、金の問題が立ちはだかり、今すぐとはいかぬという。指折り身請けを夢見ているすぐ横で、振袖新造の百花は十四才になり、女の色香を振りまくようになってきた。その香りは廓中にゆき渡り、人の心を惑わせた。
突き出しの日とその相手を、女将が喜びながら探すようになっていた。
米富の主人も、百花を見る目が変わってきた。しきりに突き出しの金額を知りたがるようになった。
この子は私の最後の望みを断ち切る鋏になるのではないか、不安で眠れない日が続いた。
お糸を部屋に呼び出したのは、米富が来ると決まっている夕方のことであった。おいらん道中の支度をしながら、間夫のしるしとして、指の爪を差し出そうと思い立ったのだ。
通常ならば、新造に前もって爪を伸ばすように指示し、その爪を切って差し出すところを、爪の長い子がいなかったばかりに、生爪を剥がさせることにした。数いる新造の中から、迷いなく百花を選んだ。
百花の口に、布を咬ませ、一気に剥がし取る。指先から爪が剥がれる感触が自分の手に伝わり、背中に冷や汗が流れるのがわかった。
百花は、眼から大粒の涙がこぼれていたが声は出さなかった。
その気の強さも、お糸には不快だった。
「あんたの爪で、わたしが大門をくぐって出れることになったら、感謝のしるしに簪の一本でも二本でもくれてやる」
そう言うと、布を百花に投げつけ、自らの小指に巻くように指示した。
痛い指を庇いながらも不器用に布を巻く百花に、お糸は
「じれっとおす」
と言い捨て、脇腹を蹴飛ばして部屋を出て行った。
百花は初めて声を上げて泣いた。