もらいびき1
まだ、夜が明けぬ星の瞬く早朝であった。
日本橋はお蔭参りの講を見送る人々でごった返している。
米問屋「よね好」の店主、弥一郎も伊勢参りへ向かう妻を見送るために、その祭りのような騒ぎの真ん中にあった。
「花、気を付けていってまいれよ。わたしからの祈念も忘れずに伝えてきておくれ」
妻の花は、これからの道中をともにしてゆく講の仲間たちを待たせ、夫の手を取った。
「もちろんです。わたしがこうして長い間留守をさせていただけるのも、あんた様のお陰ですもの」
弥一郎は、黙って頷くと、後に控えている仲間たちに妻をくれぐれもよろしく頼むと頭を下げた。
その中には、弥一郎の幼馴染である材木屋の喜一も含まれており、安心して長旅に出すことができるのだった。
無事に戻るまでの約一か月間が弥一郎は心配でたまらない。そんな様子を隠そうともせず、喜一には何かあったらすぐに使いを寄越すようにと、念を押している。
弥一郎の脇には、あくびをかみ殺している弟の彰吾と、その妻ゆきが控えている。
五月とはいえ、まだ肌寒い朝だった。
藤の花もまだ蕾のままで、このまま冬に逆戻りしてしまいそうなほどに、ここ最近は天気のすぐれぬ江戸の町であった。
花はゆきと彰吾との別れを惜しみながら、せかされるように伊勢へ向かった。
「しばらく兄さんもさびしくなりますね」
講の集団は、あっという間に早朝の藍色の闇に飲み込まれていった。
「なぁに、あいつも大変な思いをして伊勢まで行くんだ。わたしはせいぜい商いに精をだすよ。最近は忙しくてな」
「どうぞ、彰吾さまをこきつかってくださいまし」
ゆきが口をはさんだ。
「よね好」は、日本橋でも大通りに面した米問屋で、お得意をいくつも抱える老舗である。品がよいと、一流の料理屋はもとより、吉原にまでお得意を抱える大店でもある。
大店の次男である彰吾は、子供のころから商いに興味を持たないために、亡き両親は、彰吾を医者にした。
新しい物好きの彰吾に、この仕事は向いているようで、あちらこちらへと診療に忙しそうに街中を駆け回っている。
彰吾は商いに興味がないというよりも、自分への気遣いから別の道を歩んだのではないか、と弥一郎は思っていた。
どちらかというと弥一郎は融通が利かず、気性の激しいところもあり、接客業などには向いている性質ではなかった。
彰吾はその逆で、加えて頭の回転も速く、両親も彰吾が長男であれば、と何度となく口にしていたのを弥一郎は耳にしていた。
それを知って、彰吾はわざと商いに興味のない振りをしてきたのではないか。そんな心遣いをありがたいとも、小憎たらしいとも感じる。
「弥一郎様、お食事はこれから毎回、彰吾様とわたくしと、ご一緒にいたしましょう」
ゆきは、花の留守を気遣っている様子である。
「ありがたい申し出だが、これをいい機会にもっと店の者と打ち解けたいと思っているのだ。食事はそちらで摂ろうと思っているのだよ」
弥一郎はやんわりと、ゆきの申し出を断った。
両親が亡くなってまだ三ヶ月、大店の主人になって間のない弥一郎は、店で疎外感を味わっていた。
店の者は年長者の番頭の言うことを素直に聞くが、弥一郎の指示には難色を示しながら事に取り掛かっている。
そもそも、こんな風に溝ができてしまったのも、先月の弥一郎のある提案が始まりだった。
「弥一郎さん、米富が米の値段を半値にしているそうですよ」
喜一は木材を日本橋に運ぶと必ず弥一郎のところへ顔を出しに来る。その日も十軒ほど先にある和菓子屋の改築のための木材を運んだ帰りだった。
「半値ったって、そんな金額にしたら商いが成り立たないよ」
「いや、本当なんだよ。俺はこの目で確かめてきたからよ。品がいいのかは食ってねぇからわからねぇよ。でも安いは違げぇねえや」
弥一郎は、ふと耳にはさんだ噂を思い出した。
両親の四十九日の法要を終えてすぐのことだ。
半町ほど先にある中店の「米富」の主人が、ぼんくら跡取りとヤブ医者しかいない「よね好」は、すぐにでも潰してやると吉原の茶屋で豪語しているといった、つまらい内容である。
弥一郎は腹を立てたが、相手にするほどの店でもないと、高をくくっていた。店の規模から、知名度など、すべてにおいて「よね好」は勝っていたからだ。
しかし、半値での販売で顧客を取ろうとしているとなると、噂を噂として聞き流すわけにはいかなかった。
「そいつは、迷惑なお話だね。で、売れているのかい?」
「それがな、見栄っ張りな江戸っ子のことだからよ、もちろん俺もそのひとりだが、半値なんておおっぴらにすると、かえって買いにくいもんだ。しかしよ、暗くなってから店に人が集まってんだ。誰が米を買って帰ったかが、薄暗かったら分からないだろ? 料理屋までが足を運んでるって噂よ」
「ますます、困ったお話だね」
後日、弥一郎は自分の店の商品も半値にしようと店の者たちの前で提案した。「よね好」の名が廃ると猛反対する番頭とその意見に賛同する者と、弥一郎の間に溝が生まれてしまったのだ。
「慌てて、人のまねしたところで、何になるんです? 半値にできる米なんて、うちのような信用で成り立っている大店にはありゃしませんよ」
番頭の言葉を思い出して弥一郎は、下くちびるを噛みしめた。
そんなことは百も承知である。しかし、店の面目をつぶすことよりも、店そのものを閉めなければならない時がきたら、噂好きな江戸っ子たちは、なんて言うだろうか。
「ボンクラと、ヤブが店を食っちまった」
何としても、店と面目を守らなければならない。弥一郎はそう決意していた。
初めての三人称小説で、読みにくいと思いますがお付き合いいただければこれ幸いです。ストーリーは書きながら考えます。