未来航路
柱谷光久博士率いる研究チームは約2年の研究と検証実験の末、アマゾンの奥地に位置するアブナズム公国の唯一の河川、イースタリー川には時間の歪みがあるとの研究結果を発表した。この説は学者のみならず世界中で論争を巻き起こした。
「時間の歪みなどあるわけがない。マンガの読みすぎなんじゃないか?馬鹿馬鹿しい。」
「いやしかし相対性理論というものが存在することも事実だ。」
「それはあくまで理論上の話であって、ましてあんな緩やかな流れの川でどう時間軸を歪ませる力が生まれるというんですか。」
「それに、仮に光並みの速さを持ったとしてもこの仮説はおかしい。」
テレビ局や雑誌社はこぞってこの説の特集を組んだ。さまざまな意見が飛び交うが、そのほとんどは柱谷研究チームの説を否定するものばかりだった。中には売名のためのでたらめな話だと柱谷博士を罵倒する発言をする学者まで現れるようになった。柱谷研究チームが始めてこの説を全世界に発表してから、わずか1ヶ月足らずで再び会見が開かれることになった。出席者はマスコミ関係者が数名のみ、あとの数十名はみな学者たちで会見場は実質討論会場と化していた。これは柱谷博士の発案だった。
「柱谷博士、お久しぶりです。たった2年だというのにずいぶんお年を召されたんじゃありませんか?まあ無駄口はいいとして、私はあなたに憧れて時空学の研究者になりました。」
そう切り出したのは高鍋大学の教授、大塚秀雄だ。
「今から20年以上も昔、あなたが打ち出した宇宙星状論に驚愕させられたのは私だけではないでしょう。」
宇宙星状論とは、柱谷博士が若干29歳の時に発表した宇宙新論である。それは今までの概念を打ち破るに足るものであった。我々の指す宇宙は一つの星に過ぎないという説だ。言うなれば太陽の何兆倍、何京倍。それ以上かもしれない。とにかく計り知れない大きさの星があり、その中に地球やその他の星々が点在しているというのである。発表当初は大いに馬鹿にされたものである。博士号を剥奪されかける事態にもなった。しかし今となってはその説がもっとも有力な説となっている事は小学校でも習う事実だった。
「今回もあの時のように私たちの常識を覆すというおつもりですか?しかしそれは無理だ。どう足掻いても。それはアインシュタインの時代からの全ての概念を崩壊させるに等しい。」
「そうかね?私は別にアインシュタインもその他大勢の先輩方も否定するつもりはない。ただ、この世界には例外というものも存在するのだというだけの話だ。」
柱谷博士は静かにそう返した。
「申し訳ないが私も大塚教授と同じ意見だ。」
アメリカから来日したヒューズルトス博士が口を開く。
「柱谷博士。私は何度も君の論文を読み直した。しかしどうも納得がいかん。地上よりも宇宙にいる方が年をとるのが早いという話は私も知っている。これはすでに定説となっているな。科学的にも証明されている。しかしそれと同じことが地球上で起こるというのだろう?まずありえない。」
他の学者たちも口々に柱谷博士の説を否定する言葉を口にしている。柱谷博士はその様子をただじっと見守っているだけだった。
やがて会場は静寂を取り戻しはじめた。そこでようやく柱谷博士が口を開いた。
「私がアブナズム公国のイースタリー川を研究しようと思い立ったのは、一人の青年の話がきっかけだった。」
わずかに残っていたざわめきは柱谷の声によって完全に消え去った。みな柱谷博士の話を一語一句漏らすまいと集中しているようだった。
「その青年は私が籍を置いている日本総合研究所のいち事務員だ。言わずもがなその青年はアブナズム公国の出身で、もちろんイースタリー川のことも知っていた。」
「そのイースタリー川にはある伝説があるんです。」
青年は名をカワラス・マーシャと言った。現地の言葉で『真実を告げる者』という意味らしい。カワラスがイースタリー川の話をしたのは日本総合研究所、時空学課の忘年会での席だった。
「ほほう伝説ね。私はその手の話が嫌いじゃないんだ。どんな伝説だい?」
カワラスは少し間を置き、こう続けた。
「イースタリーとは『刻まざる時』。刻まれない時間に彷徨う川と言われているんです。」
「刻まれない時間に彷徨う・・難しい表現だな。酔っているのかな?」
「昔からその川に行くと奇妙なことが起こると言われていて誰も近づかないんです。まあきっと子供には危ないから近寄らせないために大人たちが考えたデマでしょうけどね。」
そう言ってカワラスはジョッキをあおった。地が黒いのでぱっと見は分からなかったが、カワラスもいつになく酔っている風だった。
「まさか、そんな与太話を信じてアブナズムくんだりまで出向いたのですか?」
帝都大学の浅田助教授が思わず声に出してそう言った。一気に視線が集まる。浅田助教授は顔を真っ赤にしてしゅんと小さくなってしまった。
「確かに私もその時は与太話程度にしか思っていなかった。私の田舎でも子供たちを川へ行かせないために大人たちが怖い河童の話をよくしていたものだ。しかし、それにしては実に回りくどい言い方をしている。そうは思わないかね?みなさん。」
柱谷博士は自分を注目している学者やマスコミに視線を巡らせた。みな黙っている。だがその表情は柱谷博士に笑みを浮かばせるに足るものだった。
「分かってくれるようだね。まあ丁度その当時進めていた研究も一段落着いたところだったのでね、観光ついでに行ってみたんだ。」
「その当時って、一昨年のことでしょう。ずいぶん昔のことのように言いますね。」
マスコミの一人がくすりと笑った。他にも数人の声が聞こえた。柱谷博士は一瞬複雑な表情を見せたが、すぐにみなと同様に白い歯を見せた。
「年をとると時間が早くなるというが、そのせいかな?」
「まさかこの新説もそれが原因だったなどというオチは止めてくれよ。」
イギリスのオーランド博士の言葉に会場は笑いに包まれた。
「まあまあ、気長に聞いてくれたまえ。順を追って説明した方が理解しやすいだろうからな。」
学者たちは再び柱谷博士の言葉に耳を傾けた。柱谷博士はその様子を満足そうに見つめ、続きを語りだした。
平成、呈色、杏也、功亦と時代を超え、新たな年号新暦が定着し始めた新暦4年。柱谷博士率いる研究チームはアブナズム公国へと入国を果たした。アブナズム公国は世界的に見てずいぶん発展の遅れている国の一つだ。それゆえアマゾンや密林がいまだに国の面積の8割近くを占めている。研究チームは早速イースタリー川を目指すことにした。地元のガイドを雇ったが、研究内容を告げるとそのガイドは怯えたような顔つきで言った。
「あの川に行くのか!・・川の最上流に一番近いケスナまでは案内しよう。でもそこからは自分たちで行ってくれ。だが決して無茶はしないようにな。川を渡ろうなんぞ言語道断だ。」
イースタリー川の伝説をほとんど信じていなかった研究チーム一同だったが、ガイドの態度と言葉に少なからず恐怖を覚えたのだった。
ケスナまではかなり年季の入ったジープで送ってもらった。時間にして4時間ほどだっただろうか。しかし道の悪さと車の老朽化からその苦痛な時間は何十時間にも感じたものだった。その日はケスナに着くだけで体力を消耗しきってしまい研究どころではなかった。
翌日、研究チームは初めてイースタリー川のほとりに立った。川幅は思っていたより広く、10m以上はありそうだ。水量はほどよく比較的穏やかな流れだった。ただ、魚の姿がほとんど見受けられないのが気にかかった。
川のほとりには木の板で作られた看板が立っていた。現地の言葉で『この川に近づかないように』と注意書きがされていた。古ぼけたその看板は異様に研究チームを威圧しているように感じた。
早速調査を開始する。水質に始まり川の幅、深さなど細かに調査し記録していく。別段変わったところは発見できなかった。
「まあ川の質が時間の歪みと関係があるとは思えんしな。さてみんな、どうする?渡ってみるか?」
柱谷博士の言葉に、戸惑いの表情を隠し切れない者もいたが、やはり最終的に満場一致で川を下ってみる事にした。ケスナの住民に案内を依頼する。
「あの川を下るだと?馬鹿なことを言うもんじゃない。おまえさん方後悔することになるぞ。」
「どのように?」
「刻まれない時間に彷徨うことになる。」
カワラスの言っていたことと同じ内容だ。チーム一同はなかば確信を持った。そして必死の交渉の末、船を貸してもらえることになった。船と言っても手作りの小さな木船だ。研究チーム4人がぎりぎり乗れるくらいの小さなものだった。柱谷博士たちは翌日イースタリー川を下ることにした。
「まるで冒険記を聞いているようだ。」
オランダのパラスル教授がふと漏らした。他の者も同様の思いかもしれない。
「ふむ、ちと回り道しすぎたかな?ここで言いたかったのは、川の性質事態は何の変哲もなかったことと川の伝説が地元の人々に深く根付いているということ。ただの伝説で終わらせる話ではなさそうだと思ったのだ。」
「分かりました。それで、川を下ったことで何か時間の歪みを証明するものが見つかったのでしょう?それを早く聞きたいですね。」
ロシアのクロウフスキー博士が先を促す。柱谷博士はひとつ頷き話に戻った。
翌朝研究チーム一同は荷物を船に積み、上流であるケスナを出発した。目指すはケスナ同様イースタリー川に面したカランクという村だ。距離と川の流れから考えるに、半日もあれば十分たどり着けるはずだった。ケスナを発ってからすでに8時間が経過し、あたりが暗くなり始めても一向にカランクは見えてこなかった。しかたなく一行は岸に船を寄せ、そこで一泊することにした。
「おかしいですね。昼過ぎには着いてよかったはずなのに。」
「もしかしたら通り過ぎてしまったんじゃありませんか?」
「そうかもしれんな。まあとにかく、このまま下流に行けばじきにアーレムという村が見えるはずだ。この村も川沿いに面しているようだから分かるはずだ。」
そして翌日、一行は朝早く発つことにした。みな一抹の不安を抱えているのは明らかだった。じきに太陽は真上に昇った。いまだ村は見えてこない。
「おかしいですよ。進み具合から考えるにそろそろ海に出ちゃいますよ。でもずっと同じ景色が続いているように見える。」
結局その日も岸に船を停めて野宿をした。みな口にはしないものの、この川にきたことを後悔し始めていた。
翌日、翌々日。見えるのは同じ景色ばかり。何日目かの朝、一行は遺書をしたため空き瓶に詰めて川へと流した。すでに食料は底を尽きていた。
「とは言え森に入れば動物もいるし食べられる草もあった。われわれはぎりぎりでどうにか命を繋いでいたのだ。」
「まさか2年間ずっとその川を彷徨い続けていたというんですか?」
とアメリカのヒューズルトス博士。その言葉に柱谷博士は口元を歪めた。
「私は毎日日記を付けていた。予備用にと思ってかなり多めに日記用の大学ノートを持っていっていた。それがこれだ。正直まだ足りないくらいだったが。」
そう言うと柱谷博士は足元の紙袋から大学ノートを取り出した。その数実に10冊以上。とても2年間で書ききる量ではなさそうだ。
「10年分。私たち研究チームが川を彷徨っていたときに書いていたものだ。最初の日付は新暦4年2月25日で最後の日付は新暦14年の9月21日。毎日書いていたのだから間違いない。」
「ちょっと待ってください、何の冗談ですか?」
大塚教授が立ち上がった。
「今は新暦6年ですよ。柱谷博士がアブナズムへ行ったのは2年前でしょう?」
「君は私にこう言ったね。ずいぶんお年を召されましたね、と。それはそうだ。私は今55歳ではない。63歳なのだ。」
会場は静まり返った。誰も声を発しない。
「信じられないだろう。まあそれも無理はない。だが真実なのだ。」
「し、しかしそんなもの何の証拠にもなるまい。日記などいくらでも偽造できる。」
学者の一人がようやく声を上げた。
「そう来ると思ったよ。そのためにちゃんと用意してあるんだ。」
柱谷博士は嬉しそうに笑い、もう一度足元のものを手にとった。それはからからに干からびてすっかり原型を失ってしまったりんごだった。
「こいつは私が研究のため一つだけ残しておいたものだ。新暦りんごという品種で、新暦元年以降開発されたものだ。最近は果汁からその果物の年齢が分かるらしいな。やってみるといい。おもしろい結果が見られるぞ。10年前には存在していなかったはずのりんごだ。普通に考えて5歳以上のはずがないのだよな?」
学者もマスコミも信じられないといった表情を浮かべて固まっていた。実際に調べるまでもなく結果は分かっている。
「以上で会見を終了する。最後まで御清聴ありがとうございました。」
柱谷博士は立ち上がり深々と頭を下げた。そして会見場を後にした。
「柱谷博士。」
名前を呼ばれて振り返ると大塚教授が走り寄ってくるところだった。
「ひとつ聞かせてください。」
「何だね?」
「10年も彷徨い続けたイースタリー川。どうやってそこから抜け出したんです?まさか森を抜けたわけじゃないでしょう?国土の8割が密林という状況、下手したら遭難しかねない。」
柱谷博士は大塚教授の質問に声を上げて笑った。
「簡単なことさ。川を下流から上流へと上っていったのだ。5年下り、また5年かけてケスナまで戻った。まあ君たちの感覚だと2年ということらしいがね。」
柱谷博士は再び大きな笑い声を上げながらその場を後にするのだった。