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第9章 燃える影、インピッド

 スランボの群れが去った後も、その余韻はしばらくコロニーに残っていた。

「スランボの皮、取引したらとんでもない値段になるんだろうな」

 イネッサが、湖畔を見ながらぽつりと言った。

 その目は半分冗談のきらめき、半分は本気で計算している光を宿している。

 クーリン特有の、獲物と利益を嗅ぎ分ける本能。

 「がめつさ」という言葉をそのまま形にしたような目だが、

 それは彼女が生き延びるために身につけてきた牙でもある。

「やめとけ。あれに手を出すと、世界中から目をつけられる」

 ステロイドが即座に否定した。

「家が何百軒あっても足りなくなる」

 スランボは、アウルテウス的思想の教典にも「巡礼を見守る守護聖獣のひとつ」として記されている。

 理の流れを乱す暴力の象徴ではなく、

 あくまで「長い旅路のあいだ、静かに隣を歩く見守り役」。

 その皮と骨は、富と権力を求める者たちにとって垂涎の的であり、

 同時に、理の信徒にとっては「安易に触れてはならないもの」でもあった。

 フェニックスは、スランボの足跡が残る湿地を見て、

 ほっとしたように息をついた。

(……あいつらが無事に森へ消えてくれて、よかった)

 ◆ ◆ ◆

 その後の数日で、コロニーにはさらに奇妙な変化が起きた。

 ふらりとファアークの姿が見えなくなったかと思えば——

「ただいま」

 何事もなかったかのような顔で戻ってきた彼の後ろに、

 痩せてはいるが目の優しい雌牛が一頭、ついてきていた。

「どこから連れてきた」

 ステロイドが呆れ半分で問うと、ファアークは首を傾げる。

「群れからはぐれたみたいだった。

 “もう歩きたくない”って音がしたから、“じゃあ一緒に休もうか”って」

 数日後には、今度はコケコケと落ち着きなく鳴く雄鶏と、

 そのすぐ後ろをぴったりとついて回る雌鳥の番。

 それから、のんびりとした鳴き声を漏らしながら、

 いつの間にかファアークの足元を囲うように歩く山羊の番まで加わった。

 どの動物も、もとはどこかのコロニーに属していたのだろう。

 首輪やロープの痕がかすかに残っているものもいれば、

 耳に印をつけられたものもいた。

 だが、その目には「恐怖」より「迷子の不安」の方が多く宿っていた。

 そしてなぜか、皆一様にファアークを群れのリーダーと認識しているようだった。

 ファアークが歩けば、

 牛はのっそりと、山羊はとことこ、鶏はせわしなく後を追う。

「……なんでお前、そんな素で牧神みたいなことしてんの」

 イネッサが、頭を抱えて笑う。

「さあ。気づいたら、後ろにいた」

 ファアークは本当に不思議そうに首をかしげた。

 結果として——

 ファアークは動物エリアの設営に夢中になった。

 簡易な柵を組み、餌用の畑を区切り、水場への導線を整える。

「ここからなら、動物たちが湖の音も聞けるし、人の声も届く」

 彼はそう言いながら、鼻歌まじりに杭を打ち込んでいく。

 その隣で、ステロイドが鼻息を荒くしていた。

「柵の間隔はもう少し狭くする。

 この辺の獣なら、これくらいの隙間は簡単にくぐるぞ」

 工具を握る手は、いつもよりも細かく繊細に動いている。

 杭の角度、板の厚み、釘の打ち込み方——

 職人気質のこだわりが全てに反映され始め、

 動物エリアはみるみるうちに「そこそこ本格的な牧場」の様相を帯びていった。

「ステロイド、ちょっと楽しくなってきてない?」

 フェニックスが笑うと、

「うるさい」

 と口では返しながらも、ステロイドの口元はわずかに緩んでいた。

 ヨーダーは、その後ろを走り回っていた。

「これ、ぼくが運ぶよ!」

 木箱に手をかけて、ぐっと持ち上げようとする。

「ありがとう。でも、その木箱はぼくより重いよ」

 ファアークが苦笑まじりに言う。

「……理に祈れば、持ち上がるかも」

「それは多分、理じゃなくて筋肉の仕事」

 そんなやり取りに、フェニックスは思わず笑みを漏らした。

 ヨーダーとファアークは、いつの間にか当たり前のように一緒にいる時間が増えていた。

 午前中は畑や動物エリアの仕事を手伝い、

 休憩時間には書庫でファアークが星図を眺め、ヨーダーが教典や技術書を読み、

 夕方には一緒に湖畔を走り回る。

 遊びと学びと仕事が、二人の一日にはごちゃまぜになって詰め込まれていた。

(……こういう時間が、ずっと続けばいいのに)

 フェニックスが、そう思った矢先だった。

 ◆ ◆ ◆

「……煙?」

 山茶が、遺跡の方角に目を凝らした。

 黒い細い筋が、森の向こうから立ち上っている。

 焚き火にしては大きすぎる。

 そして、その煙の下から——

 規則正しい足音と、甲高い笑い声が近づいてきた。

「フェニックス」

 セラが、剣の柄に手を添えながら言う。

「匂いが違う。これは、ただの狩人ではない」

 焦げた油、焼けた鉄、

 それに混じる、どこか甘く鼻につく薬品の匂い。

 やがて、街道の曲がり角から、

 赤い影がにじみ出るように現れた。

 赤い刺青と、粗野な鎧をまとった集団。

 皮膚はどこか焼けただれたようにひび割れ、

 露出した部分は古い火傷と新しい火傷とで斑模様になっている。

 目には、燃えさしのような光る狂気。

 笑うたび、その奥で炎がちらつく錯覚を覚える。

 インピッド——

 炎を崇拝し、奪い、焼き尽くし、殺すことを生業とする種族。

 彼らの血には、生まれつき熱への耐性が刻みこまれている。

 喉と肺には特殊な構造があり、

 体内で生成した可燃性のガスを外へ吹き出し、点火することで、

 短時間の「火炎放射」を行うことができる——いわゆる火吹きの術。

 火と破壊を「祝福」とみなす文化は、

 この星の厳しい環境と、飢餓と、戦争の中から歪に育ったものだと噂されている。

「おお、いい匂いだ」

 先頭の男が、鼻をひくつかせた。

 肩には骨と金属片で飾られた粗いマント。

 胸当てには、どこかのコロニーの紋章が焼き潰された跡がある。

 頬を走る火傷の跡は、単なる戦傷というより、

 “儀式”としてわざと焼いた傷のようにも見えた。

「スランボの足跡に、まだ新しい匂いが残ってる」

「この辺りを通ったぞ。追いかけるなら今のうちだ」

 別の女が、舌なめずりをする。

 目の縁には煤のような化粧が施され、

 口元には血を拭ききれていない赤黒い痕が残っていた。

「ついでに……」

 彼らの視線が、コロニーに向いた。

「新しい家だ」

 女が笑う。

「燃やすにはちょうどいい」

 一斉に槍が、弓が構えられる。

 その動きには、訓練された軍隊のような規律はない。

 だが、獲物を追い立てる捕食者たちの「慣れ」があった。

 前に出る者、火を放つ者、

 扉を破り、逃げ道を塞ぐ者——

 それぞれが好き勝手に動いているようでいて、

 結果として獲物を袋小路へ追い詰める「群体」として機能する。

 背筋に冷たいものが走った。

「全員、持ち場へ!」

 フェニックスは即座に仲間たちに指示を飛ばす。

「ヨーダーとファアークは——」

「ぼくも戦う!」

 ヨーダーが叫ぶ。

「だめだ、お前は——」

「ヨーダーは、建物の中で待機」

 山茶が素早く割り込んだ。

「窓から外の様子を報告しろ。それが一番の“戦い方”だ」

 ヨーダーは唇を噛み、しかし頷いた。

「……分かった」

 ファアークは、インピッドたちを見つめながら小さく息を呑んだ。

「……あいつらの音、嫌いだな」

「どんな風に聞こえる?」

 フェニックスが短く問う。

「焼けた鉄を、歯で噛んでるみたいな音」

 それだけで、充分だった。

 ◆ ◆ ◆

 インピッドたちは、スランボを追うより先に、

 コロニーに牙を向けた。

 布に油を染み込ませた火矢が、外壁と屋根に突き刺さる。

 乾いたところから順に、火が走る。

 湿った木材が、じわじわと煙を吹き始めた。

「水、ここだ!」

 ステロイドが、整え始めたばかりの手製バケツを運ぶ。

 セラが燃え移る前に火矢を叩き落とし、

 焚き火用の水と湖の水を使って延焼を防ごうとする。

 イネッサは窓から身を乗り出し、

 射撃ポジションを目まぐるしく変えながら、前線を押さえようとしていた。

「くそ、数が多い!」

 彼女が悪態をつく。

「何人いるのよ、これ!」

「少なくとも、十は超えている」

 別の窓から様子を見ていた山茶が叫ぶ。

「二つか三つの小隊が合流しているパターンだ」

 インピッドたちは、戦術というより“慣れ”で動いていた。

 火を放ち、叫びながら突撃し、

力任せに扉や窓を破ろうとする。

 一人倒れても、笑いながら次が飛び込んでくる。

 目の奥は充血し、呼吸はやけに荒い。

(薬か……)

 フェニックスは、敵の一人が口元から白い粉を拭うのを見て悟った。

 この星にも、戦う前に興奮剤や痛覚を鈍らせるドラッグをキメる文化はある。

 インピッドたちの「痛みを無視した笑い」は、

 生まれつきの狂気だけではなく、

 そうした薬物に裏打ちされたものでもあるのだろう。

「フェニックス!」

 建物の影から、セラの声が飛ぶ。

「西側の壁が持たん!」

 ステロイドが走る。

 彼が補強に回った瞬間——

 別の方向から、乾いた叫び声が上がった。

「ヨーダー!!」

 イネッサの叫びだった。

 振り返ると、ヨーダーが外壁近くの地面に倒れていた。

 腹部を押さえ、その指の間から血があふれている。

 近くには、倒れたインピッドが一人。

 その手には、血のついた短剣。

 窓から身を乗り出しすぎたヨーダーに向かって、

 駆け寄りざまに突き立てられたのだろう。

「バカ! 窓から出るなって言っただろ!」

 イネッサが駆け寄り、ヨーダーを抱きかかえる。

「ご、ごめん……外の様子、ちゃんと見ようと思って……」

 ヨーダーがしゃくり上げる。

「みんなと一緒に、守りたくて……」

 フェニックスの胸が、焼けるように熱くなった。

 守りたいという真っ直ぐな気持ち。

 その裏側を、容赦なく刺してくる短剣。

 許さない、という感情が喉元までせり上がってくる。

 それを力づくで押し込めようとするたび、

 胸の奥で何かがきしむ。

(落ち着け。ここで“燃え方”を間違えるな)

 だが、その熱は別の形に変わった。

「イネッサ!」

「分かってる!」

 イネッサはヨーダーを壁際に引きずり、安全な位置へ寝かせると、

 血で滑りそうになる手で銃をつかみ直した。

「こっちを見てる奴から、順番に落とす!」

 フェニックスは玄関側に飛び出し、

 ステロイドの作った狭い射線に体を滑り込ませる。

「三人、右の木立から回り込んでくる!」

「位置共有した!」

 山茶の声が飛ぶ。

 ナノマシンネットワークを通じて、

 簡易な座標情報が視界の端に浮かぶ。

 フェニックスは息を一度止め、

 狙いを合わせ、引き金を絞った。

 弾丸が、インピッドの膝を撃ち抜く。

 倒れ込んだその頭を、

 次の瞬間にはイネッサの弾が地面に縫いつけた。

 セラは、外壁の影を滑るように移動し、

 炎をまとった槍を振り回す男の懐に潜り込む。

 モエロトル特有のしなやかな重心移動。

 螈気が、彼女の筋肉と骨を滑らかに繋ぎ、

 動きに無駄を一切許さない。

 刃がひときわ鋭く光り、

 男の武器ごと腕を斬り払う。

「降伏するなら今じゃぞ」

 セラの声は冷静で、静かだった。

 だが返事は、別方向から飛んできた火炎だった。

 別のインピッドが、胸を大きく反らせ、

 喉の奥から赤い火を噴き出す。

 セラは舌打ちし、身を翻して炎をやり過ごした。

 火と血と叫び声。

 だが、その渦の中で——

 フェニックスを中心とした五人の動きは、

 確実にインピッドたちを押し返し始めていた。

 ◆ ◆ ◆

 戦況がひとまず落ち着いたところで、山茶が駆けつけた。

 ヨーダーの傷口を確認し、短く息を吐く。

「刺し傷。深いが、今すぐ死ぬほどではない」

「じゃあ——」

「ただし、出血量が多い。このままではまずい」

「ヒールルートは?」

「ある。だが、感染症までは防げない。……抗生剤も、まともな医薬品ももう残っていない」

 周囲ではまだ、銃声と怒鳴り声が散発的に続いている。

 インピッドたちは、炎と悲鳴に酔ったように笑い、

 倒れても立ち上がり、また突っ込んでくる。

 理性と痛覚を削る薬と、

 火を奮う興奮が、彼らを「生きた刃」に変えていた。

 そんな中、ファアークがヨーダーの側に膝をついた。

「……音が、揺れてる」

 彼はヨーダーの胸にそっと耳を当てた。

「でも、まだ折れてない。大丈夫、ヨーダーはまだ“こっち側”」

「どうにかなるのか?」

 フェニックスが、ほとんど反射で問う。

「ヒールルートで出血と痛みは抑えられる。でも、体の中でばい菌が暴れたら……」

 ファアークは眉を寄せる。

「ぼくの知識だけじゃ足りない。

 もっと強い薬がいる。人用の、“ちゃんとした”薬」

「でも、どこに……」

「近くの中立コロニー。街道の先にあっただろ?」

 ステロイドが言葉を継いだ。

「この前、モエロトルやクーリンが話してたやつだ」

 フェニックスは、戦況と地図を頭の中で同時に並べた。

 インピッドたちの数は、明らかに減ってきている。

 イネッサとセラの反撃で、前線は確実に押し戻されつつあった。

(ここを凌げれば——)

「……この襲撃を退けたら、すぐに準備をする」

 フェニックスは短く決断した。

「ヨーダーを救うために、取引に行く」

「ぼ、ぼくも……」

 ヨーダーが言いかけるが、山茶に遮られた。

「お前は寝てろ。それが今できる最大の“仕事”だ」

 ヨーダーは悔しそうに顔をしかめたが、

 やがて力尽きたように目を閉じた。

 湖畔の空気が、熱と煙と血で濁っていく。

 ◆ ◆ ◆

 インピッドの頭目らしき男と、セラが対峙したのは、

 戦いの終盤だった。

 他のインピッドたちが次々と倒れ、

 散り散りに退き始める中、

 その男だけは踏みとどまり、

 喉から再び炎を噴き上げた。

「まだ燃やし足りねえ!」

 男の火炎が、半壊した外壁を炙る。

 セラは、それを真正面から見据えた。

 螈気が、彼女の全身に巡る。

 水辺の種族である彼女の体内を流れるエネルギーは、

 炎の熱を受けても、恐怖ではなく「温度差」として捉える。

「その火——」

 セラが、一歩踏み出した。

「前にも見たことがある」

 男が一瞬だけ目を見開いた。

「……ああ?」

 次の瞬間、セラの刃が閃いた。

 炎の軌跡と刃の軌跡が交差し、

 燃えさかる熱気が一瞬だけ霧散する。

 火炎の源となるガスの流れを読むように、

 セラは男の喉元ギリギリをなぞり、

 皮膚を浅くえぐった。

 火は途切れ、

 男は苦しげに咳き込んだ。

「……モエロトルか」

 血混じりの唾を吐き捨てながら、男が笑う。

「少し離れた湿地にいた“王国の末裔”を自称する連中にも、

 似たような面してる奴がいたな。

 ちょっかい出したら、痛い目見せられた」

 セラの目が細くなる。

「理に牙を立てた者は、いつか自分の血で口を洗うことになる」

「上等だ」

 男は、にやりと笑った。

「名前だけ覚えとけ。“焔痕えんこんのラズゥル”だ。

 コロニーも、覚えた。……また燃やしに来てやるよ」

 捨て台詞とともに、男は後退した。

 残っていたインピッドたちも、

 彼の合図に従うように森の影へと散っていく。

 笑い声は次第に遠のき、

 代わりに、傷の痛みを訴える低いうめき声だけが雨のように残された。

 ◆ ◆ ◆

 襲撃が完全に終わった時、コロニーには焦げ跡と、いくつかの瓦礫が残った。

 だが、家はまだ立っていた。

 ヨーダーの胸も、かろうじて上下を続けていた。

「……勝ちとは、とても呼べぬな」

 セラが、剣についた血と煤を拭いながら言う。

「負けてもいない」

 山茶が冷静にまとめる。

「ただ、次の難題が顔を出しただけだ」

 ファアークは、ヨーダーのそばで静かに座っていた。

 その瞳は、どこか遠くを見ている。

「……さっき、音が少し変わった」

 彼は呟いた。

「“助かりたい”って音だ。

 前のぼくは、そういう音から目をそらしてた。

 ……自分の信仰の都合で」

 フェニックスは彼を見た。

「今は?」

「今は、目をそらしたくない」

 ファアークは拳を握った。

「だから、ぼくも行く。薬草の見分けもできるし、道の“音”も聞ける」

 フェニックスは、左右に頭を振った。

「気持ちは受け取る。だが、何かあった時に庇い切れない方が危うい。だから——」

 彼はコロニーを見回す。

「セラ、ステロイド、そして俺で交易に行く。

 イネッサと山茶は家を守れ。

 ファアークはヨーダーのそばに」

「了解」

「任せて」

 それぞれの短い返事が、

 焚き火の残り火の上に落ちた。

 湖面では、また魚が一匹跳ねた。

 その音は、傷だらけの家の壁に当たり、

 かすかに反響してから消えていく。

 戻れない場所と、まだ見ぬ場所。

 その間を結ぶ街道へと、彼らは目を向けた。

 ヨーダーの浅い呼吸が、

 その夜のコロニーの鼓動になっていた。

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