第7章 助けを求める声
それは、戦いから数日後の夜だった。
風は静かで、湖面は鏡のように凪いでいる。
焚き火の火が小さく揺れ、五人の影を長屋の外壁に揺らしていた。
宙族との戦闘以来、五人は「余程のことがない限り、全員で食事をとる」ことを、ほとんど無言の取り決めのように守っていた。
焚き火を囲み、今日見たもの・聞いた噂・数値や異常を互いに報告し合う。
それは、情報共有であると同時に、
ばらばらになりかける心を、もう一度ひとつに寄り集めるための糸のようなものだった。
そうして過ごすうちに、五人とも、出発前よりもずっと強く結びついていることを、
なんとなく肌で感じ始めていた。
「……今日は静かだな」
ステロイドが、焚き火の先をぼんやりと見つめながら言った。
「静かなのは、良いことだ」
セラが答える。
「ただ、静かすぎる夜は、何かを隠しておることが多いがの」
冗談めかした口調だったが、その瞳だけは笑いきっていなかった。
翡翠色の眼差しの奥に、薄く張り詰めた警戒がゆらりと揺れている。
湖面を覆う霧の下に、まだ見ぬ何かがひそんでいるのを、彼女だけが知っているかのように。
「やめてよ、その言い方」
イネッサが肩をすくめる。
「やっと胃の具合が落ち着いてきたところなんだからさ」
ここ数日、イネッサは狩りの獲物か保存状態の悪い食料に当たり、
ひとりだけ軽い食中毒で苦しんでいた。
ようやく顔色に血色が戻り、冗談を飛ばす余裕を取り戻したところだ。
山茶はAIコアの出力を確認しながら、数字の並ぶ端末に視線を落としている。
フェニックスは、それを横目に見つつ、焚き火に細い木を一本くべた。
「……理は、何か言ってる?」
「“観測継続中”。いつも通り」
山茶は簡潔に答える。
「ログには“観測継続中”“パターン解析中”“感情値、計測不能”。……まあ、そうなるわな」
後半のぼやきは、明らかに山茶自身のものだった。
フェニックスは、ふっと苦笑する。
その時だった。
カチ、と古い通信機のランプが、ひとりでに点いた。
それは、初めての交易のときにクーリンの商人たちが
「サービスだよ」と置いていった簡易通信機だった。
星間通信のような高度なものではなく、
限定された周波数帯の電波だけを送受信できる、
言ってしまえば近隣コロニー間の“高性能トランシーバー”のような代物だ。
建前としては連絡用、
実際には「互いの動きをさりげなく監視し合うため」の装置でもある。
交易を円滑に回すには、事前の根回しも、噂も必要だと、
クーリンの商人は肩をすくめて笑っていた。
今、その通信機に、誰も触れていない。
それなのに、ランプは確かに灯り、
湖の方角から、わずかな磁場の揺れが伝わってきていた。
目に見えない異邦人、あるいは侵入者——
そんな気配が、焚き火と夕餉の匂いが漂う五人の食卓へ、
ゆっくりと近づいてくる。
ノイズ混じりの音が、沈黙を破って流れ込んだ。
『——……あ……れ……? つながった?』
子供の声だった。
焚き火の周りにいた全員が、同時に顔を上げる。
交易や交渉なら、最初に前に立てるのは代表者か護衛だ。
子供の声を“窓口”にする意味を測りかねて、
五人の思考が一瞬だけ凍り付いた。
最初に動いたのは、やはりイネッサだった。
「もしもし? そこ、誰?」
彼女は真っ先に立ち上がり、通信機に駆け寄る。
『あ……! 誰かいる! お願い、切らないで! ぼく、追われてて……!』
声は甲高く、震えていた。
音声の向こうで、風切り音と走る足音、
そして誰かの怒鳴り声がノイズと混じり合っている。
「山茶」
「位置特定、試みる」
山茶の指が素早く端末を走る。
フェニックスは通信機を取り上げ、声の主に呼びかけた。
「落ち着け。名前は?」
『ヨ、ヨーダー……ヨーダーって呼ばれてる……!』
かすかに息が詰まる音。
そのすぐ後ろで、爆ぜるような銃声が聞こえた。
『だめだ、また近づいてきてる……! お願い、誰か、どこでもいいから、隠して……!』
「追われている?」
フェニックスは問いながら、
既に「答えが銃声を伴う厄介事である」ことを理解していた。
『和平交渉の場だって知らなくて……ただ、火をつけたら面白いかなって……
そしたら、どっちも怒って……撃ってきて……!』
「ほらみろ」という表情が、ステロイドの顔を一瞬横切る。
イネッサとステロイドが同時に顔をしかめた。
セラの目に、凍ったような光が宿る。
その光は、かつて似た馬鹿げた理由で血が流れた場所を、
どこか遠くで思い出しているようにも見えた。
「……お前、何をやらかしたんだ」
ステロイドの声は低く、鋭い。
『ご、ごめんなさい……! でも、もう嫌なんだ……
あそこ、全部、口減らしと殴る声しかしない……!』
短い沈黙が落ちた。
教団という、閉じられたが保護の手厚い世界からは想像しにくい光景。
それでも、フェニックスの頭の中には、一節の言葉が強く浮かび上がる。
——困窮む者を見て目を塞ぐなかれ。
——迷い彷徨へる者を見て背を向くなかれ。
——見返りを求むる手は、すでに理より離れたり。
子供の頃、教団の礼拝堂で、
何度も何度も唱えさせられた古い文言だ。
フェニックスは、胸の中の祈祷章を強く握りしめた。
「山茶、位置は?」
「街道沿い、南東。ここから二キロ弱。……二つのコロニーの境界線付近だ」
山茶の声はいつも通り冷静だったが、
端末を押さえる指先には、わずかに力がこもっている。
「信号はオープンバンド。……わざとか、馬鹿か、あるいはその両方」
その評は、子供に向けてというより、
ヨーダーをここまで追い込んだ世界そのものに向いていた。
『お願い……誰でもいいから、たすけ——』
通信が一瞬途切れ、別の声が割り込んできた。
『こちら“灰の盾”コロニー。そこの未登録拠点、聞こえるか?』
くぐもった大人の声。
『そいつは、こちらと隣のコロニーの和平交渉をぶち壊した裏切り者だ。
そいつを保護することは、全面敵対を意味する』
『こっちは“鉄の谷”。同じくだ。あのガキを渡せ。
そうすれば、お前たちは巻き込まれずに済む』
二つの声が重なり合い、ノイズが激しくなる。
通信ランプが赤く点滅した。
焚き火の光の中で、五人の視線がフェニックスに集まる。
イネッサは「どうするつもり?」と問いたげに眉を上げ、
ステロイドは顎を固く結んだまま、フェニックスの答えを待っている。
山茶の瞳には、計算と覚悟が混じり、
セラは焚き火の炎越しに、静かな期待とも諦観ともつかない眼差しを送ってくる。
これは信仰の問題であり、
コロニーの生存の問題であり——
決断の瞬間だった。
「……フェニ」
イネッサが、本気の声で名を呼んだ。
「どうする?」
フェニックスは、静かに息を吸い込んだ。
頭の中に、さっきの経典の続きをなぞる。
——求むる声を、拒むなかれ。
——ただしその代償を、己が手に負う覚悟あるときのみ。
(助けを求める者は、拒むな)
教団の中で、守られた空間で聞いたときには、
どこか他人事のように聞こえた言葉。
(だがここは——)
湖面で、一匹の稚魚が跳ねた。
小さな音は、やはり霧に飲まれて戻ってこない。
「こちら、未登録拠点《桃花源》」
フェニックスは、落ち着いた声を装って通信機に向き直った。
仮で名乗ったコロニー名は、
古代史――モエロトルがかつて理想郷として語り継いだ伝承の地から取ったものだ。
横でそれを聞いたセラが、一瞬だけ「意外だ」という顔をして、
すぐに小さく微笑む。
外鰓が、嬉しさを隠しきれずにかすかに震えた。
「ヨーダーはこちらで保護する。引き渡しには応じない」
『……正気か?』
“灰の盾”の声が低く唸る。
『そのガキは、二つのコロニーの血を流したんだぞ』
「その血を流したのは、引き金を引いた者だ」
フェニックスは言った。
ヨーダーの言葉がどこまで真実かは分からない。
和平交渉の場だったのか、どちらにどれだけの非があるのかも分からない。
だが、子供に向けて銃を撃ち、それを「当然だ」と言い切ることだけは、
肯定したくなかった。
「罪があるとしても、裁くのは、お前たちの怒りじゃない」
自分の声が、思った以上に熱を帯びているのが分かった。
『綺麗事を……! いいだろう、ならば——』
通信が唐突に切れる。
代わりに、山茶の端末にアラートが次々と表示された。
「複数の熱源、接近。……二方向からだ。“灰の盾”と“鉄の谷”、両方が動いている」
「来るなら、話は早い」
ステロイドが立ち上がる。
「玄関と外壁、強化する」
「イネッサ、遠距離から威嚇射撃を。セラは街道と森の境、挟撃されないよう警戒」
フェニックスはいつものように指示を出しながら、
自分の手が震えていることに気づいていた。
通信機は静かになった。
ただ、オープンバンドの隅で、
まだ小さな声が残響のように揺れている。
『……どうして……たすけてくれたの……?』
さっきの少年の声だ。
その問いへの答えを用意する時間は、まだなかった。
だが、決心そのものには、もう迷いはなかった。
◆ ◆ ◆
戦いは、降下宙族ほど激しくはなかった。
彼らは、あくまで“脅し”と“見せしめ”を目的としていたのだろう。
中距離からの狙撃、森の陰からの散発的な銃声。
フェニックスたちは外に出すぎず、壁と地形を生かして応戦した。
「そっち、抑えた!」
イネッサが叫び、二人目の銃撃手が悲鳴を上げて倒れる。
彼女の弾は、致命傷を避けるように、しかし戦闘不能には追い込む位置を正確に穿っていた。
ステロイドは外壁の隙間を埋めながら、
よじ登ろうとした男の手首を木板越しに叩き落とし、
侵入しようとした者の顎に正確な一撃を叩き込んだ。
セラの剣がひときわ鋭く光った時、
“灰の盾”の部隊が最初に退いた。
“鉄の谷”の方も、数人の負傷者が出たところで、
深追いを避けるように撤退を選んだ。
彼らは、殺し合いの一線を越えきることを、
あえて避けているようにも見えた。
「ここで死ぬ気はない」「これは宣告だ」という意思表示。
遠ざかる足音と、怒りに満ちた罵倒の声。
『覚えておけよ、巡礼者共!』
最後の声が霧に溶けた時、
湖畔には再び静けさが戻った。
「……終わった?」
イネッサが肩で息をしながら辺りを見回す。
「少なくとも、今夜は」
山茶が答えた。
「明日以降は、知らない」
◆ ◆ ◆
戦いの後、フェニックスは、
AIコアの安置場所としてステロイドが区画してくれた小部屋——
簡素な研究室のドアを開いた。
中で、痩せた少年が丸くなっていた。
ヨーダー。
まだ幼い顔立ちだが、頬はこけ、
目の下には濁った影が落ちている。
髪は伸び放題で、泥と灰が絡んで固まっていた。
服はところどころ焦げ跡と破れがあり、
膝だらけのズボンからは擦り傷と古い痣が覗いている。
それでも、その目だけは妙に大人びていた。
諦めと、恐怖と、「どうせまた捨てられる」という予感を、
もう何度も味わってきた目だ。
「……ヨーダー、だったな」
少年はびくりと肩を揺らし、
それからおそるおそる顔を上げた。
「どうして、助けたの……?」
さっき通信機に残った問いの続きが、
ようやく震える声で形になった。
フェニックスは少しだけ考え、それから口を開いた。
「――助けを求める声から目をそらすほど、
まだ心の端っこまで錆びついたつもりはないんだ」
どこか劇画じみた、少しクサい言い回しだった。
自分で言っておいて、フェニックスは内心で苦笑する。
「でも、ぼく、悪いことした。
和平交渉の場だって、知らなかったけど……
火をつけたら面白いかなって思って……」
「知らなかったなら、罪は半分」
扉の後ろからひょいと顔を覗かせ、
狐の尻尾をぴょんと振りながら、イネッサが口を挟む。
「残りの半分は、あんたのどうしようもない好奇心のせい」
「イネッサ」
フェニックスが制するように名を呼ぶ。
彼女は肩をすくめ、半歩ほど引いた。
「アウルテウスの教えは、“苦しい者、迷える者を見捨てるな”だ」
フェニックスは、少年の目をまっすぐ見た。
「俺たちはそれを、ただ……やってみたくなった。それだけだ」
「罰しないの……?」
「罰は、必要なら受けるべきだ」
フェニックスは言葉を選びながら続ける。
「でも、殴りたいから殴るのは、罰じゃなくて八つ当たりだ」
いつの間にか、五人ともが
ヨーダーを囲むような位置に立っていた。
その中で、ステロイドがぼそりと言う。
「アイツらがやろうとしてたのは、後者だ」
握りしめた拳を一度開き直しながら、
静かに熱い声で。
ヨーダーは、ぐしゃぐしゃになった顔で俯いた。
膝の上に、ぽたぽたと涙が落ちていく。
「……ぼく、また追い出される?」
「ここからか?」
フェニックスが聞く。
ヨーダーは、小さく頷いた。
「それは、そなた次第じゃ」
セラが静かに言う。
その声色は柔らかく、
少なくともこの場で「すぐに追い出すつもりはない」と
穏やかに告げていた。
「働く気があるなら、家族として扱おう。
逃げるなら、その足でまた別の街道に出ていけばよい」
「ど、どっちにしても厳しい……!」
イネッサが吹き出した。
「そういうもんだよ、人生ってやつは」
フェニックスは、苦笑しながら同意する。
——そうだろ、と目で他の三人にも問いかけると、
それぞれが微妙に違う表情で、しかし否定はしなかった。
山茶は、AIコアの方をちらりと見た。
コアは、淡い光を刻むだけで何も言わない。
——新規個体、受け入れ。
——内部関係値、変動開始。
——観測、継続中。
研究台の小さなモニタに、そんなログが静かに流れた。
フェニックスは、ヨーダーの肩にそっと手を置いた。
「ここでは、過去より“これから何をするか”の方が重い」
「……“理”の教え?」
「半分は理。半分は、俺たちの都合」
フェニックスがそう答えると、
ヨーダーは泣き笑いみたいな顔で、低い天井を見上げた。
「……どっちでもいいや。もう、追われない場所なら、それで」
その夜、湖面ではまた魚が一匹跳ねた。
波紋は小さく広がり、霧の中で静かに消えていく。
戻れない場所と、新しく始まる場所の境目で、
ヨーダーは、用意された寝台を使うこともなく、
壁に背中を預けたまま、力尽きたように眠りに落ちた。
その寝息は、最初こそ荒く震えていたが、
やがて、どこか安堵の滲んだ穏やかなものへと変わっていく。
長く続いた逃走の末、ようやく辿り着いた「今夜だけは追われない場所」が、
彼の小さな胸の内を、少しずつ緩めていった。




