第6章 降下の嵐
それは、空の音から始まった。
いつもの風とも、遠雷とも違う。
金属同士が擦れ合い、空気の中に長い引っかき傷を刻んでいくような、耳の奥にこびりつく高い音。
その瞬間、フェニックスの皮膚の下で、ナノマシンのネットワークが一斉にざわめいた。
——警戒レベル上昇。
——未登録音源。高高度起因の振動パターン検出。
頭の内側に、かすかな警報音が鳴る。
それは鼓膜を叩くのではなく、神経のどこかを直接つまむような不快な震えだった。
鍬を握っていた手から、汗が一気に引いていく。
フェニックスは反射的に鍬を放り出し、空を仰いだ。
青く晴れていた空の奥で、何かがきしんでいる。
見えない歯車が、強引にかみ合わされていくような音。
それと同時に、別のざわめきが肌を撫でた。
招かれざる客たちから漏れ出す、薄く尖った悪意と殺意。
ナノマシンの感覚が、それを「環境ノイズ」として処理しきれずに、
フェニックスの背骨を冷たくなぞっていく。
「……山茶!」
思わず叫ぶより早く、研究小屋の扉が開いた。
「感知。高高度からの熱源反応、急速接近」
山茶がデータパッドを片手に飛び出してくる。
瞳に映る数字の列が、容赦なく現実を突きつけた。
「降下ポッド、少なくとも三基。ここを狙っている!」
言葉が終わるのとほとんど同時に、空を裂く光の筋が湖畔に降りてきた。
尾を引く炎。
回転しながら落ちてくる金属の筒が、湿地を抉り、泥と水を派手に跳ね上げる。
轟音と衝撃。
地面が殴られたように揺れ、フェニックスの膝がわずかに折れた。
土と水しぶきが空に舞い上がり、一瞬、視界が白い幕で覆われる。
耳の中で、音が潰れたようにくぐもった。
「イネッサ、北側の窓。セラ、遺跡側の警戒!」
フェニックスは肺の底から声を絞り出しながら、走り出していた。
「ステロイドは玄関と外壁の補強。山茶は……」
「後方で支援。負傷者が出たらすぐ処置できるように準備する」
山茶もすぐに反応し、研究小屋の中へ引き返す。
その背中は、恐怖よりも「やるべき手順」を優先する者のものだった。
降下ポッドの装甲が焼け落ち、内部から影が飛び出した。
宙族——空の略奪者たち。
元々は軌道輸送や護衛を担っていたはずの装備を、
今は落下と襲撃のためだけに使うようになった民兵兼盗賊。
軽量な装甲服に、標準的なライフル。
だが、その動きには迷いがない。
彼らは一瞬で周囲の地形を把握し、
外壁と建物を挟むように散開しながら、銃火を浴びせてきた。
土壁に弾が食い込み、乾いた音を立てて土が飛び散る。
ガラス代わりの板にひびが走り、木片が弾け飛んだ。
五人の胸に、同じ種類の感覚が生まれる。
——「いつか、こうなるかもしれない」と思っていた場面が、
今、実際に目の前で起きている。
頭では分かっていた殺し合いが、「自分の生」をかけた現実として押し寄せてくる。
ステロイドの足が、一瞬だけ地面に縫いつけられたように動かなくなる。
イネッサの尾が、笑いとも恐怖ともつかないリズムで大きく揺れる。
山茶の喉が乾いた音を立て、セラの瞳だけが、諦観にも似た落ち着きで敵の動きを追っていた。
この瞬間だけ、彼女の心は他の四人とは少し違う場所にいた。
「またか」と、小さな声で呟いてもおかしくないような場所に。
長屋の二階の窓へ駆け上がりながら、イネッサは息を荒げた。
窓枠に肘をつき、銃を構える。
教団時代に、何度も何度も繰り返した射撃訓練が、
脳裏をよぎる。
標的はいつも、動かない板か、決まったパターンで動くドローンだった。
「呼吸を整えろ」
「指は引くな、押し出すな。そっと預けろ」
「照準は、狙う場所より一瞬先を見る」
それは身体に染み込んだ動きだ。
だが、今、照準の先にいるのは、
単なる「標的」ではない。
自分たちの畑を踏み荒らし、
壁に弾を叩き込み、
殺す気で走ってくる「誰かの生きた身体」そのもの。
その差異が、指先をわずかに重くした。
「……理、見てるなら、ちゃんと当てさせてよね」
イネッサは、ほとんど独り言のように呟いた。
祈りというより、半分は八つ当たりに近い言葉。
引き金が絞られる。
一発目はわずかにそれて、宙族の肩をかすめた。
装甲の表面に火花が散り、男の身体がぐらりと揺れる。
二発目が、その揺れを正確に捉え、膝の装甲の隙間を撃ち抜いた。
悲鳴とともに敵が倒れ、泥にまみれる。
その叫びは、イネッサの耳の中で一瞬だけ膨らんでから、
すぐに遠くへ引き伸ばされていった。
(当たった……当たったけど……)
胸の奥が、形容しがたい感覚でひっくり返る。
快感でもなければ、罪悪感だけでもない。
「やらなきゃやられていた」という理屈と、「本当にそうか?」という声が、
脳内で激しくぶつかり合っていた。
「イネッサ、一人無力化。右側の木立、まだ二人」
山茶の冷静な声が、ナノマシン越しに届く。
その報告が、イネッサの思考を無理やり前へ押し戻した。
◆
セラは外壁の影を滑るように移動しながら、刃を抜いた。
螈鋼の長剣が、湿った空気を切り裂く。
外鰓がわずかに開き、周囲の湿度と螈気の流れを読み取る。
壁の死角を回り込んできた宙族が一人、
銃口をこちらへ向けながら角を曲がった。
その時には、もう遅かった。
セラの足が、泥の上を滑るように前へ出る。
上半身は微動だにせず、腰の捻りだけで踏み込みの速度を生み出す。
鋼の閃きが、彼の銃と腕の間に走った。
剣先が銃のストックを弾き飛ばし、
返す刃が腕の装甲の隙間を正確に打つ。
関節のわずかな柔らかさを読み、そこだけを狙った一撃だった。
銃が回転して湿地に落ち、宙族は呻きながら膝をつく。
「降伏するなら今じゃぞ」
セラの声は冷静で、静かだ。
殺意も怒りも、表には浮かんでこない。
ただ「選択肢」を提示しているだけの声音。
だが、返事は銃声だった。
別方向から飛んできた弾丸が、彼女の足元の土を抉る。
泥が跳ね、外鰓に冷たい粒が散った。
セラは舌打ちし、刃を構え直しながら影の中へ身を引いた。
彼女の動きには、他の四人にはない「線の細さ」と「深さ」があった。
無駄がなく、ためらいもない。
その滑らかさは、初めて命を奪う者のそれではなかった。
◆
玄関側では、ステロイドが即席の土嚢と木板を積み上げていた。
柱から外した板と、崩れた壁の土を使い、
射線をできるだけ狭く、敵の足場をできるだけ悪くする。
「そこ、あと半枚」
フェニックスが肩で板を支えながら言う。
声が震えていないことが、自分でも少し不思議だった。
(俺、こんなに普通に動けるんだな……)
心臓は早鐘を打っているのに、
口と手だけは、訓練通りに動いている。
ステロイドは逆だった。
(体が……重い)
本当なら一番に身体が動き出すはずなのに、
足と腕が、一拍遅れてついてくる。
頭の中で「急げ」と命じているのに、
骨と筋肉は「本当にここに立っていていいのか」と問い返してくるようだった。
それでも手は止まらない。
止めてしまえば、その先に何があるかを知っているからだ。
防壁がどうにか形になった頃、
フェニックスはそこに滑り込み、銃口を外へ向けた。
「三人、左側の木立から回り込んでくる。……山茶、位置共有!」
「座標送信済み。イネッサ、右上の窓から視界取って」
「了解、観測者さんも見てなさいよー!」
イネッサの軽口が、ほんの少しだけ空気を戻す。
銃声と悲鳴、土と金属のぶつかる音が、
コロニーの周りを何度もぐるぐる回っていた。
戦闘は、長くは続かなかった。
宙族の装備は確かに整っていたが、
五人は、自分たちの庭を知っていた。
泥の深さも、廃墟の陰も、風の流れも。
どこが足を取られ、どこが音を消すかを、
身体で覚え始めたばかりの土地だ。
そのわずかな差が、
数分のうちに決着をつけた。
銃弾の応酬が途切れ、耳鳴りだけが残る。
森の獣たちの気配が、周囲からすっかり消えていた。
さっきまで水面にいたはずの魚の波紋も、湖から死んだように消え失せている。
音という音が引いていき、
代わりに、火薬と血の匂いが濃くなっていった。
最後の一人が倒れたとき、
湖畔のコロニーには、重い静寂だけが満ちていた。
◆ ◆ ◆
戦闘が終わった後、時間だけが取り残されたように静かになった。
倒れた宙族の一人が、まだ息をしていた。
腹を押さえ、泥の中でもがいている。
さっきまで整えたばかりの畝の上を、
靴と血と装甲で容赦なく踏み荒らしながら。
彼の動き一つ一つが、
フェニックスたちの生活に泥を塗っていくようだった。
イネッサが思わず一歩近づきかけて、足を止めた。
「……どうする?」
自分の声が、自分のものではないみたいに掠れている。
喉がひどく乾いて、
問い自体が「選択肢がありますように」という祈りにも似た響きを帯びていた。
山茶が膝をつき、負傷の度合いを確認する。
指先は淡々と動いているのに、呼吸は少し早い。
「医薬品なしでは助からない。手当てしても、延命にしかならない」
「殺すってことか?」
ステロイドが、現実だけを見据えた目つきで問いかける。
感情を挟めば、分裂してしまいそうな場面だからこそ、
あえて「単純な二択」にしてしまおうとする声だった。
「放っておいて、ここで苦しませるか」
セラが小さく言う。
「鋼主義なら、どちらも“弱さ”と見るじゃろうな」
その声音には、
何度か同じ場面をくぐり抜けてきた者の慣れと、
その慣れを自分でも嫌悪しているような冷たさが混じっていた。
その違和感を、他の四人は、うまく言葉にできないまま感じ取る。
フェニックスは、宙族の男の目を見た。
そこには、憎しみも、恐怖も、かろうじて残っていた。
そして、どこか自分たちと似た「諦め」が底に沈んでいる。
「……君は、俺たちをどう言う?」
フェニックスは、思わずそう尋ねていた。
返事は、血の泡を含んだ笑いだった。
「……巡礼者……? 笑わせるな……ただの……武装したガキだろ……」
宙族の指が、驚くほどの速さでフェニックスの腰の銃に伸びかける。
ステロイドの靴が、その手を踏みつけた。
骨が折れる音が、乾いた音を立てる。
「やめろ」
フェニックスが言った。
誰に向けてなのか、自分でも分からなかった。
宙族にか、ステロイドにか、それとも、自分自身にか。
イネッサが顔をしかめ、山茶は目を伏せる。
セラは唇を固く結び、ステロイドは淡々と足をどけた。
「……理は、どう言うんだろうな」
ステロイドが呟く。
「ここでこいつを生かすか、殺すか」
「理は沈黙してる」
山茶の声は、いつになく乾いていた。
「決めるのは、私たちだ」
湿地の上に、重い沈黙が落ちた。
風も、湖も、今だけは何も言わない。
やがて、銃声が一度だけ響いた。
誰が引き金を引いたのか、
あとで誰も口にしなかった。
ただ、その瞬間に“線”が一本、世界に引かれたことだけは、
全員が理解していた。
◆ ◆ ◆
夕暮れ。
湖面は赤く染まり、風が血の匂いを少しずつ薄めていく。
焚き火の周りに集まった五人の顔は、火に照らされてそれぞれ違う影を落としていた。
「……吐き気、止まった?」
イネッサが、フェニックスの横顔を覗き込む。
「ああ。……もう、止まった」
フェニックスは答えた。
「でも、匂いはまだ残ってる」
鼻腔の奥にこびりついた火薬と血と泥の匂いが、
どれだけ息をしても消えてくれない。
「最初の戦死者が出なかったのは、理の加護だと解釈すべきだろう」
山茶が淡々と言う。
「一方で、初めての殺人も“観測された”」
「観測者さん、どんな顔してんだろうね」
イネッサは乾いた笑いを漏らす。
「笑ってる? 悲しんでる? それとも、何も思ってない?」
「理は、感情を持たぬ」
セラが薪をつつきながら言う。
「持つのは、我らの方じゃ」
火の粉がひとつ、夜空へ舞い上がる。
セラの横顔は、焚き火の光と影の境目にあって、
どこか「そうだとも」と続けたがっているように見えた。
その微かなニュアンスに、フェニックスだけがうっすらと気づいた。
だが、何も言わなかった。
今は、自分自身の感情を持て余すだけで精一杯だ。
「……俺は、守るために撃った」
ステロイドが握った拳を見つめながら言った。
「それだけは、嘘じゃない」
大きくて荒れた手が、今は妙に頼りなく見える。
フェニックスは、火の向こうにいる仲間たちを見た。
それぞれが、自分なりに“正しさ”を探している顔だった。
どれも少しずつ違っていて、どれも同じくらい不確かだ。
(理は、答えをくれない。観測するだけだ)
その夜、AIコアはいつも通り淡い光を明滅させていた。
ただ一行だけ、いつもと違うログが残された。
——初回戦闘行為、記録。
——死亡個体、識別不能。
——観測者の感情値……計測不能。
フェニックスはその文字を読み、静かに目を閉じた。
霧が湖面から立ち上り、遺跡のシルエットをぼやかしていく。
遠く、ノイズ混じりの微かな声が、
死んだはずの通信回線の奥から聞こえた気がした。
——……だれか……たすけて……
それが次へ続く呼び水になることを、
この時の彼らはまだ知らなかった。




