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第15章 鋼の足跡、月下の狼


 サイコスード三日目の夜。

 月は雲間から顔を出し、湿地の上に薄い銀の道を描いていた。今宵は満月。

 フェニックスは外壁の見回りをしていた。

 頭の奥ではまだノイズがざらついている。だが、初日のように叫び出したくなるほどの苛立ちは、すでに鈍い疲労へと変わりつつあった。

(……そろそろ、終わってくれないかな)

 独り言のように呟いたその時——

 遠くの森の方から、甲高い金属音が空気を裂いた。

 金属と金属がぶつかる、鋭い衝突音。

 続いて、低くうなるような機械音。

 さらにそれに重なるように、獣の咆哮が震えを運んでくる。

 喉の奥から絞り出すような、巨狼の吠え声。

 威嚇であり、同時に何かを奮い立たせるような、腹を叩く震動。

「今の、聞こえた?」

 見張り台に立っていたヨーダーが身を乗り出す。

「……機械の足音」

 山茶がナノマシンを通じて地面を伝わる振動を拾った。

「それと、何か大きな生体反応が一つ。人間サイズ……いや、少し大きい」

「まさか、メカノイドか?」

 ステロイドが工具を置き、外を睨む。

 メカノイド——

 フェニックスの脳裏に、教団の星系で見聞きした戦火の記録がよみがえる。

 かつて、どこかの誰かが作り出したはずの殺戮機械。

 目的も、出自も諸説ある。

 だが確かなのは、彼らがあらゆる人型種族の母星を次々と焼き払い、

 終わりのない戦端を開き続けているという事実だけ。

 人類への憎悪で動いているとも、

 人であったものが変質した成れの果てとも囁かれる、鋼の群れ。

「単独行動のパトロールか、小規模な追撃部隊だろうな」

 イネッサが銃を抱えて外壁に駆け上がる。

「どっちにしても、碌な話じゃないね」

 やがて、月光に照らされた街道の先に、その“影”が現れた。

 一体のスカイスキャナー型ドローン。

 蜘蛛のような細い脚を複数伸ばし、地面を這うように移動しながら、

 時折ふわりと跳ね上がり、胴体側面の射撃ポートから青白い光をばら撒く。

 そのドローンに追われるようにして、ひとつの影が月明かりの下を駆け抜けていた。

 満月の光を受けて、銀灰色の毛並みが淡く光る。

 人間よりも、頭一つ分ほど背の高い影。

 長くしなる尾と、獣の耳。

 ウルフェイン——狼と人の性質を合わせ持つ種族。

 月の満ち欠けと共に身体能力が変化し、

 今宵のような満月の夜には、筋力も反応速度も通常の数割増しになる。

 鋭い嗅覚と聴覚、戦闘と追跡を得意とする戦士種族。

 だが、その影はすでに傷だらけだった。

 肩には光線に焼かれた焦げ跡。

 片足には血の筋が乾いてこびりつき、

 防具の隙間からは、古い傷と新しい傷が重なってのぞいている。

 それでも、彼女は転ばずに走り続けていた。

 満月の加護を受けているはずの身体でさえ、追撃に削り取られ、ギリギリで持ちこたえているのが見て取れる。

「ウルフェインだ」

 セラが目を細めた。

「あの身のこなし……一人でドローンと渡り合っておる。

 モエロトルの武人にもそうはおらんわ」

 内功で鍛え上げたモエロトルの功夫と比べても、

 遜色ないどころか、状況次第では上を行くかもしれない。

 セラの瞳に、わずかな驚嘆と敬意が灯る。

 次の瞬間、ドローンの光線が彼女の足元を抉った。

 土と火花が跳ね上がり、ウルフェインの体勢が大きく崩れる。

 多勢に無勢。

 戦況は明らかにドローン側へと傾きつつあった。

「フェニックス」

 山茶が短く言う。

「判断を」

 フェニックスは、ほとんど迷わなかった。

(放っておいても、あのドローンはこっちに来る。

 なら、まだ息のあるうちに“味方候補”を拾った方がいい)

 教典に刻まれた「迷える者を助けよ」という言葉と、

 この星での生存計算が、たまたま同じ答えを示していた。

「援護する。全員、持ち場へ!」

 ◆ ◆ ◆

 狙撃は、いつも通りイネッサが引き受けた。

 外壁の上に腹ばいになり、頬をストックに預ける。

「距離、百五十メートル。風は左から弱」

 背後で、山茶が端末を操作しながら情報を送る。

「了解、観測者さんもちゃんと見ときなさいよー」

 イネッサは軽口を返しながら、引き金に指をかけた。

 一度、二度と深呼吸をし、

 三度目の呼吸で息を止める。

 銃声。

 弾丸が月光を裂き、ドローンのセンサー部をかすめる。

 光学レンズの一部が弾け飛び、機械の動きが一瞬だけ乱れた。

 その刹那、ウルフェインの女がこちらを一瞬だけ振り返る。

 暗闇の中、黄金色の瞳が、

 まるでスコープ越しのイネッサの位置を正確に見抜いたかのように、

 ぴたりと合った。

(——気づいた)

 イネッサが息を呑む間に、

 ウルフェインは崩れかけた体勢を無理やり立て直し、

 両手で握った鈍い光沢の武器を振りかぶった。

 ヘビーパワーハンマー。

 衝撃を一点に集約するための質量の塊。

 振り下ろされた一撃が、ドローンの脚部を打ち抜く。

 甲高い金属音と、

 短い悲鳴にも似た機械音が夜気を震わせ、

 ドローンの足が一本、あり得ない方向へと折れ曲がった。

「もう一発!」

 イネッサは即座に次弾を送り込み、再び引き金を絞る。

 二発目の弾丸が、装甲の継ぎ目をすり抜け、

 ドローンのエネルギーポッドを貫いた。

 次の瞬間、内部で電光が暴れ、

 青白い閃光と共に小さな爆発が起こる。

 ドローンは痙攣するように震え、

 脚を取られた虫のように地面に沈んでいった。

「一体、ダウン」

 山茶が戦況を読み上げる。

「ただし——まだ終わりじゃない」

 霧の向こうで、別の機械音が重なった。

 木々の間から、さらに二体のスカイスキャナーが姿を現す。

 先頭の一体が倒れた瞬間、

 残りが追撃態勢へと移行したのだ。

「ほんと、群れで来るときは容赦ないんだから」

 イネッサが舌打ちする。

◆ ◆ ◆

「門、開け!」

 フェニックスが声を張る。

「セラ、ステロイド、一緒に行く!」

 門が軋む音を立てて開き、三人が街道へ駆け出す。

 月光の下で見るウルフェインの傷は、

 近くで見ると想像以上に深刻だった。

 片耳は半ば千切れ、

 脇腹には焼け焦げた切創が走り、

 防具の下の毛並みには、古い傷が幾重にも刻まれている。

「……敵じゃない。撃たないでくれ」

 それでも、フェニックスよりも先に口を開いたのは、彼女の方だった。

 鋭い犬歯を覗かせる口元とは裏腹に、

 その瞳に宿っているのは、敵意よりも先に、積もり積もった疲労だった。

「味方かどうかは、これから決める」

 ステロイドが武器を下ろさずに応じる。

「こいつを一人で落とせる奴に、今文句つけてる場合?」

 外壁の上から、イネッサの声が飛ぶ。

 フェニックスはウルフェインの女の前で膝をついた。

「動けるか?」

「……動けなきゃ、ここまで辿り着いてない」

 女は薄く笑った。

「でも、これ以上は……あんたらの手を、少し借りたいところだ」

 言葉は軽いが、その息は荒く短い。

 その背後から、残りのドローン二体が迫る。

 センサーライトがこちらを捉え、砲口が音もなく旋回する。

「話は後だ。まずは、こいつらを片付ける」

 フェニックスが立ち上がり、銃を構えた。

「イネッサ、照準をばらけさせる。

 一体目のセンサーを潰して、二体目の脚を狙え!」

「了解!」

「山茶、敵の移動パターンを送れ!」

「転送中。……右側の個体、優先」

「セラ、左へ回り込んで斬撃。ステロイドは中央で射線を押さえろ!」

「承知じゃ」

「任せろ」

 ウルフェインの女も、血に濡れたハンマーを握り直した。

「……一丁、付き合うさ。

 逃げ込んだ先で黙って転がってるほど、まだ歳は取っちゃいない」

 彼女はそう言って、傷だらけの足で再び地面を蹴った。

 月光の下、銃声と金属音と咆哮が交錯する。

 イネッサの弾丸が、一体目のセンサーを撃ち抜き、視界を奪う。

 狂った動作で暴れるドローンの懐へ、

 セラが滑り込むように踏み込み、脚部の関節を斬り払う。

 ステロイドのショットガンが、もう一体の進路を遮るように土を抉り、

 足を止めたところへ、ウルフェインの女——マウルスタッドのハンマーが叩き込まれる。

 鈍い衝撃音。

 歪む脚。

 最後の一体がエネルギーポッドを破裂させて倒れ、

 ようやく森の中からの機械音が途絶えた。

 静寂。

 その中心で、マウルスタッドは力を出し切ったようにその場へ崩れ落ちた。

「セラ、担架を」

 フェニックスが息を整えながら指示を飛ばす。

「俺は周囲の警戒に回る。

 ステロイド、ドローンの残骸を、回収できる分だけ確保だ」

「了解」

「任せろ」

 セラは棒材と、コロニーで作り始めたばかりの毛皮の上着を外し、

 手早く即席の担架を組み上げる。

「横になれ。今は走らんでよい」

「……了解」

 マウルスタッドは肩で息をしながらも、

 担架に身体を預けつつ、なお周囲を観察するのをやめなかった。

 湖、遺跡、街道、防壁、見張り台——

 戦場の目で、要所を一通り確認する。

「……悪くない場所だな」

 彼女は息を整えながら呟いた。

「湖、遺跡、街道。

 狙われやすいが、そのぶん守りがいがある」

「参観日の感想は、後でゆっくり聞く」

 フェニックスが苦笑する。

「名前は?」

「マウルスタッド。

 元ウルフェイン軍需コロニー所属——

 今は、逃亡者だ」

 担架に揺られながらの自己紹介のはずなのに、

 どこか芝居がかった、妙に絵になる調子だった。

 幾度となく同じ戦場を往復させられた精密機械から、

 一本だけ外れて転がり出た部品が、

 自由という名の錆を誇らしげに身に纏い始めたかのように。

 ◆ ◆ ◆

 マウルスタッドには、長屋の一角が仮の寝床としてあてがわれた。

 山茶とセラが手早く応急処置を施し、焼けただれた傷に薬を塗る。

「出血は止まった。

 感染の可能性は高いが……ヨーダーの分から、少しだけ薬を回せば、ギリギリ均衡は取れる」

 山茶が淡々と診断する。

「ぼくの分、使ってもいいよ」

 隅でヨーダーが、眠そうな目をこすりながら言った。

「助けてくれた人でしょ? だったらなおさら」

「お前のは、お前の分だ」

 フェニックスが即座に否定する。

「少しずつ分け合うんだよ。

 誰か一人のために全部使うわけにはいかない」

「理の教え?」

「半分はそうだ。半分は現実だ」

 マウルスタッドが薄く笑う。

「……変な教団だな。

 こっちの方が、まだまともに聞こえる」

「お前のいたコロニーは?」

 ステロイドが問う。

「鋼主義の工場さ。

 “働く機械は信仰の証、止まった機械は廃棄物”——

 そんな標語を壁に貼って、皆がそれをありがたがってた」

 マウルスタッドは肩をすくめる。

「だから、止まりそうになった私は逃げるしかなかった。

 まぁ、“止まりたくなった”とも言えるけどね」

 ステロイドの目が、わずかに興味深そうに細められる。

「ウルフェインの工場ってことは、武器や装甲の技術を持ってるってことか」

「まぁね。

 金属の歌は、今も少しだけ耳に残ってる」

 マウルスタッドは指先をひらひらと動かし、

 空中に見えない図面を描くような仕草をする。

「あんたら、まだバッテリーを自作できてないだろ」

 山茶の眉がぴくりと動いた。

「……なぜ分かる」

「風力発電だけじゃ、この規模の照明と冷却を安定させられない。

 夜になると、明るさが微妙に落ちてる。

 それと——」

 彼女の視線が、部屋の隅で淡く光るAIコアへ向かう。

 その手前には、小さな仕切り。

 膝を抱えて中に座るファアークの姿も見える。

「その心臓、まだまともに動いてないように見えるね」

 皆の視線が、一瞬だけAIコアに集まる。

「……見られてたか」

 フェニックスが苦笑する。

「匂いで分かるさ。

 “壊したい奴”と、“直したい奴”と、“怖がってる奴”。

 その三つの匂いが、同じ部屋でごちゃ混ぜになってる」

 マウルスタッドはそう言って、少しだけ真面目な表情になった。

 耳がぴくりと動く。

 戦士として鍛えられた感覚なのだろうが、その仕草は妙に愛嬌がある。

 横目で見ていたステロイドが、それを一瞬だけ「かわいい」と思ってしまったことは、

 当然ながら顔には一切出なかった。

 傍から見れば、いつもの仏頂面で睨みつけているようにしか見えない。

「取引をしよう」

「取引?」

「あんたたちは、私を匿う。

 代わりに、ウルフェイン工場で覚えた技術と、

 メカノイド対策に使える知識を全部出す。

 どうだ?」

「それはつまり、企業——お前の元の軍需コロニーから追われ続けるってことだろ」

 ステロイドが言う。

 本来なら「そんなリスクを取るわけにはいかない」と続けるところだが、

 言葉は喉の手前で止まった。

 この家がすでに、灰の盾や鉄の谷、インピッド、

 そして得体の知れない噂に囲まれていることを、

 自分でも分かっていたからだ。

「今さら、“今まで通りに暮らせる”なんて思ってる?」

 マウルスタッドは笑う。

「あんたらだって、周囲と喧嘩を売りまくってるくせに。

 それに——」

 彼女はわずかに耳を傾けるような顔になり、

 ナノマシンのざわめきを嗅ぎ取る。

「もう座標は、どこかに抜けてるよ。

 メカノイドの追撃が伸びてきた時点でね。

 だったら、戦力は多い方が得だ」

 ナノマシンネットワークを通じて、

 その“勘”めいた言葉が、コロニー全体へ薄く広がる。

 フェニックスは彼女を見つめた。

 ギラギラとした闘争心と、

 どこか疲れきった孤独が同居する目。

 そして、その奥底で——

 本心から「助けてほしい」と願っている、

 擦り切れかけた願いの色が、わずかに揺れている。

(ヨーダーも、ファアークも、マウルスタッドも——

 ここに来る奴は皆、どこか“行き場”を失くした顔をしている)

 胸の奥に、棘のような痛みが走る。

 あの街道で倒れた少年の顔が、一瞬だけ過ぎる。

「……一つだけ、先に言っておく」

 フェニックスはゆっくりと言った。

「ここは、“鋼主義”でも“純粋なアウルテウス”でもない。

 俺たちは、理の名前を借りながら、

 自分たちの都合で線を引いてる」

「いいじゃないか」

 マウルスタッドは薄く笑う。

「都合のいい理ほど、人はよく働く」

「それでいいのか?」

「私だって、自分の都合でここに転がり込んだんだ。

 お互い様ってやつだろ」

 フェニックスはしばらく黙り、やがて頷いた。

「……分かった。

 ようこそ、《桃花源》へ。

 “守るべき厄介者”ばかりの、巡礼コロニーへ」

 差し出した手を、マウルスタッドが握る。

 鋼を叩いてきた掌と、

 祈りと土と血で汚れてきた掌が、

 ぎし、と小さな音を立てて結ばれる。

 思想も、信仰も、歩いてきた星も違えど——

 この握手だけは、同じ「ここにいてもいいか」という問いと、

 「ここにいてくれ」という答えで、確かにつながっていた。

 ◆ ◆ ◆

 マウルスタッドが眠りについた後、

 フェニックスは研究小屋の仕切りの前に腰を下ろした。

 薄い板の向こうには、膝を抱えたファアークの気配がある。

「起きてるか」

「……起きてる」

 扉越しに、かすかな声。

「新しい狼が一人、増えた」

 フェニックスが言う。

「ウルフェインの、武器屋上がりだ」

「さっき、音で分かったよ」

 ファアークの声が、少しだけ柔らかくなる。

「歩き方が“鋼”の人。

 ぼくとは違う。

 ぼくは“土”の音だから」

 フェニックスは扉に背中を預けた。

「……なぁ、ファアーク」

「うん」

「もし、お前が本当にあのコアを壊してたら、どうなってたと思う?」

「ぼくは、ここにいられなくなってた。

 動物たちも、きっと遠くに行っちゃう。

 ヨーダーは、もうぼくを見たくなくなる」

 言葉の端々に、彼なりの“想像”が滲む。

「前のぼくは、それでも“自分が正しい”って思い込んでやってた。

 でも、今のぼくは……怖かった。

 壊した後の音が、怖かった」

「それなら、まだ間に合う」

 フェニックスは、《雲切り》のシェイ・ロトルに言われた言葉を思い出しながら言った。

「守りたいものが増えたなら、手を汚す場面も増える。

 でも、“壊さなくていいもの”まで壊す必要はない」

「……ぼく、アウルテウスのこと、よく分からないんだ」

 ファアークがぽつりと言う。

「でも、フェニックスたちが“理”って呼んでるものは、

 ぼくには“皆が繋がってる音”みたいに聞こえる」

「それでいいんじゃないか」

 フェニックスは笑った。

「俺だって、全部分かってるわけじゃない。

 ただ、“ここにいてほしい音”と“ここにいてほしくない音”を、

 少しずつ聞き分けようとしてるだけだ」

「……じゃあ、ぼくも、少しずつ聞き分けてみる。

 前の宗教みたいに、“これが正しい”って決めつけるんじゃなくて」

「それができたら、多分、お前はもう前の自分じゃない」

 短い沈黙が落ちる。

 外では、サイコスードのざわめきがまだ空を満たしている。

 だが、小屋の中だけは、さっきより少しだけ静かだった。

 ◆ ◆ ◆

 夜が明ける頃、サイコスードはようやく収まり始めた。

 湖畔の霧は薄くなり、

 遺跡の黒い輪郭が、朝の光の中にはっきりと浮かび上がる。

 マウルスタッドは浅い眠りから目を覚まし、見知らぬ天井を見上げて短く息を吐いた。

「……さて、稼がないとな」

 彼女はそう呟き、ゆっくりと身体を起こす。

 枕元には、山茶が用意した簡素な朝食が置かれていた。

 焼いた粗い穀物パンと、スープ代わりの温い野菜の煮汁。

 それが、彼女がすでに「客」ではなく、

 この家の食卓を分け合う一人として数えられ始めている証でもあった。

 扉の向こうからは、騒がしくも妙に温かい声がいくつも響いている。

 イネッサのからかい混じりの声。

 ヨーダーの拗ねた抗議。

 ファアークのぼんやりした返事。

 ステロイドの短い相槌。

 山茶の的確な指示。

 セラの低く落ち着いた調子。

 マウルスタッドは一瞬だけ耳を澄まし、

 「悪くない音だ」と小さく呟いて、朝食に手を伸ばした。

 ◆ ◆ ◆

「おはよう、理」

 湖畔のどこかで、フェニックスが小さく呟いた。

「今日からまた一人、“守るべき厄介者”が増えたぞ」

 AIコアが、かすかに光を強める。

 ナノマシンネットワークを通じて、静かなログが流れた。

——新規個体登録:マウルスタッド。

——内部関係網、複雑化。

——観測者、興味を示す。

 湖面で、一匹の魚が跳ねた。

 波紋は広がり、やがて静かに消えていく。

 その消えた先に何が待っているのか——

 それを知るのは、もう少し先の話だった。

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