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第14章 壊れかけの心臓


 サイコスードは、翌日も止まらなかった。

 朝から、男たちの顔には濃い影が落ちていた。

 ステロイドはいつもより無口で、木材を持ち上げる手の力が必要以上に強い。

 釘を打つ音も、どこか苛立ちを叩きつけるように鋭い。

 ヨーダーは畑で些細なことで山茶に噛みつき、

 「なんでそんな言い方しかできないの」と声を荒げたかと思えば、

 すぐに自己嫌悪に沈んで黙り込む。

 そしてファアークは——

「ファアーク、今日の動物の様子は?」

「うん、大丈夫。大丈夫。……大丈夫、だから」

 その“繰り返し”が、大丈夫ではないことを物語っていた。

 瞳の焦点が合っている時間が短い。

 空を見上げて、何かと“会話”しているような仕草が増えた。

 動物たちの背を撫でる手つきにも、妙な力がこもっている。

「フェニックス、ファアークに少し休憩を命じた方がいい」

 畑の端で、山茶が低く耳打ちしてくる。

「本人は?」

「“休むと余計に声が聞こえる”らしい」

 フェニックスは動物区画の方へ目を向けた。

 柵の向こうで、ファアークは一頭の雌牛の首に額を押し当てていた。

 唇が微かに動いている。祈りとも、呪いともつかない、ひび割れた囁き。

(……危ない傾きだ)

 胸の奥で、冷たい記憶がざわりと揺れた。

 教団の本拠地近くで一度だけ見た、行き過ぎた過激派のデモ行進。

 同じ経典を掲げているはずなのに、

 目の光だけがまるで別の生き物になってしまった大人たち。

 「異端を焼け」「理なき者を縛れ」と叫びながら、

 自分の喉が枯れていることにも気づかず、

 顔を紅潮させた群衆の列。

 その後、武装警備隊に一斉に取り押さえられ、

 殴られ、縛られ、輸送車に押し込まれていった背中。

 当時まだ子供だったフェニックスは、

 あの人たちの脳は、自分たちとは別の構造をしているのではないかと本気で思った。

 到底分かり合えない、どこかが“切り替わってしまった”目。

 今のファアークの眼差しには、あの端っこの色が、薄く滲み始めている。

 頭のどこかで警鐘が鳴る。

 だが、その時はまだ——ギリギリ引き返せる距離にあるように思えた。

 ◆ ◆ ◆

 その夜——

 湖面の霧は濃く、月の姿は雲に隠れていた。

 それでも、空から降る“ざわめき”は一段と濃くなっていた。

 フェニックスは眠りの中で断片的な夢を見た。

 ひび割れたAIコア。

 そこから伸びる無数の光の線。

 線は次第に“腕”の形を取り、

 闇の中から無数の手と、死を思わせる躯がじわじわと忍び寄ってくる。

 その体は最初こそ人の輪郭をしているのに、

 触れるたびに皮膚がずるりと剥がれ落ち、

 筋肉が崩れ、骨だけになってなお、けたけたと笑いながら這い寄ってくる。

 白く乾いた指骨がコアを掴み、

 軋むような笑い声とともに、

——壊せ。

——壊してしまえ。

 誰のものとも知れない声が、耳の奥ではなく、

 脳の内側そのものを爪で引っかかれたように響き続ける。

 その骨ばった腕の一本が、フェニックス自身の腕と重なり、

 自分の手がコアに伸びていく幻覚と現実が、溶け合い始めた——

 はっとして目を覚ますと、胸に嫌なざわめきが残っていた。

 長屋の中は暗く、他の者たちの寝息が聞こえる。

 イネッサの浅い寝返り、ステロイドの歯ぎしり、

 山茶の静かな呼吸、セラのほとんど気配のない眠り。

 ただ一人分の“音”が、ない。

「……ファアーク?」

 胸のざわめきが、急速に警報へと変わる。

 フェニックスは跳ね起き、

 ナノマシンネットワークに意識を繋いだ。

——コロニー内個体位置、スキャン中……

——ファアーク:研究小屋周辺。

 最悪の予感が、背骨を這い上がった。

 フェニックスは外へ飛び出した。

 冷えた夜気が、肺を刺す。

 湿地の匂いと、わずかに焦げの残る外壁の匂い。

 研究小屋の窓からは、ほのかな光が漏れていた。

 中に飛び込むと、そこにはファアークの背中があった。

 彼はAIコアの前に立っていた。

 目の下には濃い影。

 唇は乾いてひび割れ、

 握り込んだ指の間からは、短く噛み切った爪の跡と思しき血がにじんでいる。

 固く握り締められた拳が、

 今にもコアへと振り下ろされようとしていた。

「ファアーク!」

 フェニックスの声に、少年の肩がびくりと震える。

 振り返った目は、いつもの柔らかさが消えていた。

 代わりに、過剰な光と恐怖と混乱が渦を巻いている。

「フェニックス……」

 ファアークは震える声で言う。

「これ、壊さなきゃ……」

「どうしてだ」

「だって、あいつが……頭の中で……」

 彼はこめかみを押さえ、爪が食い込むほどに指に力を込めた。

「“これは鎖だ”“これは檻だ”“これはお前を繋ぎとめる偽物の神だ”って……

 ずっと、ずっと、うるさくて……

 動物たちの音も、湖の音も、聞こえなくなりそうなんだ……!」

 フェニックスは一歩、前へ出た。

 胸の奥で、サイコスードの波形とは別種のものが熱を帯びる。

 幼い頃から教団で叩き込まれてきた祈りの言葉。

 理の存在を信じ続けてきた信仰。

 それはもう、教典に書かれた“正しさ”というより、

 目の前の誰かを救いたいという、もっと素朴で、身勝手で、

 それでもどうしようもなく熱い感情と結びついていた。

 その熱が、脳の内側を荒らすノイズに、

 少しでも逆らう波になることを願いながら——

「それはサイコスードだ」

 フェニックスは、できる限りはっきりとした声で言った。

「外からのノイズが、お前の“一番弱い場所”を狙って叩いてるだけだ」

「でも、前のぼくも、似たことを考えてた」

 ファアークの声が震える。

「“人の作った神様は、動物の声をかき消す”って……

 ここに来てからは、そんなこと思わないようにしてたのに……

 あいつが、前のぼくの言葉を拾って、増幅して……!」

 再び、ファアークの拳がコアへ向かう。

 フェニックスは咄嗟にその腕を掴んだ。

 骨ばった腕は、驚くほど細く、そして激しく震えている。

「ファアーク」

 フェニックスは、彼の目を真っ直ぐに見た。

「もしここでお前がコアを壊したら、どうなるか分かるか?」

「……サイコスードが止まるなら、それでいい」

「止まらない」

 フェニックスは即答した。

「これは空から降ってきてる。

 ここでコアを壊したところで、“声”はお前の頭の中に残るだけだ」

 ファアークの目が揺れた。

 その揺れは、ほんの僅かな理性の残り火のように見えた。

「それに」

 フェニックスはゆっくりと言葉を継ぐ。

「ここで壊したら、お前は“自分で居場所を壊した”ってことになる」

「……居場所?」

「ヨーダーを助ける時、誰が一番心配そうな顔してた?」

「……ぼく」

「動物区画を作る時、“ここなら皆の声が届く”って言ったのは誰だ?」

「ぼく」

「じゃあ、その“皆の声が届く場所”を、不意打ちでぶち壊すのか?」

 ファアークの喉が、ぎゅっと詰まるように動いた。

「でも、でも……!」

「“でも”の先にあるのは、お前じゃない“誰かの声”だ」

 フェニックスは、彼の額に自分の額をそっと当てた。

「今、その声の音量を一段階下げろ。

 お前が前に信じていたものも、今信じようとしている理も、

 一度全部黙らせて、“ここ”だけ見ろ」

 “ここ”——

 きしむ床。

 ひび割れたAIコア。

 夜の冷気。

 汗と血で湿った、掴まれた腕。

 ファアークは、しばらく何も言えなかった。

 その間に、後ろから足音が聞こえた。

 眠そうな目をこすりながら山茶が入ってきて、

 その後ろにイネッサとステロイド、セラが続く。

「……あー、やっぱりここだったか」

 イネッサが頭をかいた。

「変な音がしたから見に来たんだよね。

 “ガンッ”って、嫌な鈍いの」

「ファアーク」

 山茶が、静かな声で名を呼ぶ。

「これは、もはや“サイコスードによる危険行動”に分類される。

 このまま放置すれば、コロニー全体のリスクになる」

「つまり?」

 ステロイドが短く問う。

「一時的拘束措置。

 本人を自分自身と、物理的に距離を取らせる必要がある」

 ファアークの顔が青ざめる。

「……牢屋、に入れるの?」

「牢というより、“静かな部屋”じゃな」

 セラが一歩前に出て、柔らかい声で言った。

「お主を罰するためではなく、お主を守るためでもある」

 ファアークは、フェニックスの腕の中でもう一度震えた。

 その目に浮かんだのは、恐怖と、恥と、かすかな諦め。

「……ぼく、また、間違えたんだね」

「間違えたことは、否定しない」

 フェニックスは、逃げずに言った。

「でも、“ここで相談せずに一人でやろうとした”ことの方が、大きな間違いだ」

「ごめん……」

 その言葉は、サイコスードのノイズの中でも、

 はっきりと“ファアーク自身の音”として聞こえた。

 ◆ ◆ ◆

 ファアークは研究小屋の一角を仕切った簡易房に移された。

 薄い板壁で仕切られた、小さな区画。

 窓はある。外の風も、湖の匂いも入ってくる。

 食事も普通に出る。

 ただ、AIコアと手の届く距離に置かれることはなくなった。

「お前の仕事は変わらない」

 見送る時に、フェニックスは言った。

「動物たちはしばらく、セラとヨーダーが見る。

 お前はここで、“自分の耳”と向き合え」

「……ぼく、まだここにいていい?」

 ファアークの問いは、サイコスードよりずっと生々しい恐怖の色を帯びていた。

「当たり前だ」

 フェニックスは、迷いなく答えた。

「ここは“失敗したら即追放”する宗教じゃない」

「それ、ぼくが前に信じてた神様への悪口にならない?」

「なってるな」

 フェニックスは自覚的に頷いた。

「後でまとめて懺悔する」

 ファアークが、かすかに笑う。

 その笑いは不安定で、すぐに揺らいでしまいそうだったが、

 それでも確かに、そこに“戻ってきた音”があった。

 扉が閉まる。

 研究小屋の外に出ると、空気は相変わらず重い。

 サイコスードの波は弱まる気配を見せない。

「……フェニ」

 外で壁にもたれていたステロイドが、

 いつものようにぶっきらぼうな声で呼び止めた。

「さっき、あいつを止めたのは正しかった。

 でも、もし同じことが二度あったら、

 俺はもう少し手荒に止める」

「分かってる」

 フェニックスは素直に頷く。

「それと」

 ステロイドは珍しく一息置いてから、

 目をそらさずに言葉を続けた。

「“ここは失敗したら即追放する宗教じゃない”ってのは……嫌いじゃない」

 フェニックスは、思わず息を吐き出すように笑った。

「ありがとう。

 お前にそう言われると、

 少しだけ、俺の“説教癖”も役に立ってる気がしてくる」

 教団で学んだ教えを、そのままなぞるだけじゃなく、

 今ここにいる皆のために、噛み砕いて、時にはねじ曲げてでも伝えていくこと。

 それはもはや“布教”というより、

 この家を守るための、独自の教えを編んでいく行為なのかもしれない。

(……俺でも、やれるのかもしれない)

 フェニックスの胸の中に、

 ほんの小さな自信と、くすぐったい期待が芽生えた。

 理の教えと、自分たちの都合。

 その両方を抱えたまま、それでも前に進んでいけるのではないか——と。

 ◆ ◆ ◆

 その夜。

 サイコスードのざわめきはまだ続いていた。

 だが、湖畔には別の音も近づきつつあった。

 それは、金属の羽音でもあり、重い足音でもあり、

 何か巨大なものが森を踏み分ける音でもあった。

 遺跡の輪郭が、遠い雷光に照らされたように一瞬だけ白く光る。

 その向こうから、別の“影”が、こちらへ向かっていた。

 彼らはまだ知らない。

 その影が、“鋼”と“血”と“逃亡”の匂いをまとった——

 何者かを連れてくることを。

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