第12章 ふたたびの夜明け
《桃花源》の外壁が見えた時、フェニックスは胸の奥がきしむような痛みを覚えた。
焦げ跡のついた壁。
真新しい板と古い材木がまだらに継ぎ足された屋根。
本来なら、「帰ってきた」とほっと胸を撫で下ろせるはずの光景だ。
けれど今日は、そのツギハギが、さっき街道に残してきた“もうひとつの家”を連想させた。
あの少年にも、本当ならこうして帰るはずだった壁があったのだろう。
汚れていても、継ぎ接ぎだらけでも、自分の居場所だと思いたかった屋根が。
自分たちはその可能性を、撃ち抜いて奪った側だ。
外から見れば、ここもただの小さなコロニーにすぎない。
だが、その中には——
「おかえりなさい」
門のところで、山茶が待っていた。
姿勢はいつも通りしゃんとしているが、その目の下には薄い隈が浮かんでいる。
眠れない夜を何度かやり過ごした者の顔だった。
「ヨーダーは?」
フェニックスが問う。
「まだ熱はあるけど、生きてる。すぐに薬を打ちたい」
山茶はそこまで言って、フェニックスの顔をじっと見た。
「……そっちは?」
いつもなら淡々とした報告だけで済ませる彼女が、
言葉を選ぶような間を挟む。
鎧の継ぎ目に指先を当てるみたいに、
彼の表情のひび割れをそっと確かめようとしている気配だった。
「大丈夫だ。こっちは問題なし」
フェニックスは、わざと軽い調子で肩をすくめた。
「詳しい話は、あとででいいか? 先にヨーダーだ」
嘘ではないが、本当でもない答え。
山茶は一瞬だけ目を細め、それ以上は追及しなかった。
「……分かった。中だ。ファアークもついている」
彼らは荷物を置く暇もなく、長屋の中へ駆け込んだ。
ヨーダーは浅い呼吸を繰り返し、額には細かな汗がにじんでいる。
頬はこけ、唇は乾き、全身が熱の中でじりじりと焼かれているようだった。
その側で、ファアークが瞳を閉じて、静かに耳を澄ませている。
彼にとっての“診察”は、脈でも体温でもなく——「音」だった。
「……間に合った?」
ファアークが、目を細めて問う。
「間に合わせに来たんだ」
ステロイドが、いつもより少し大げさに口角を上げて見せた。
「ほら、理様よりよっぽど役に立つ薬だぞ」
その冗談は、少しだけ空回りしていたが、
今の場にはそれで十分だった。
山茶が手際よく薬瓶を開け、注射器に薬液を満たす。
細い腕の静脈を探り当て、躊躇なく針を刺し込む。
ヨーダーの体がびくりと震え、それから呼吸が一つ深くなった。
「……最低限のラインは超えた」
山茶が小さく息を吐く。
「ここから先は、体力と時間と……運次第だ」
「運って、理より頼りになる?」
寝汗で貼りついた前髪の下から、
ヨーダーがかすれた声で言った。
「場合による」
山茶は即答した。
「今は、両方に祈っておくといい」
イネッサが、薬草を浸した布をヨーダーの額から取り替え、
ぺちんと軽く額を指先で弾く。
「ほら、ちゃんと生きて帰ってきたでしょ。
あたしたちを信じなさい、信者候補くん」
「……信仰の窓口は私ではないと言ったはずだが」
山茶のぼやきに、場の空気が少しだけ和らいだ。
皆の肩から、目に見えない緊張が少し抜けていく。
フェニックスは、その場に座り込むように膝をついた。
間に合ったという安堵と、
「間に合わなかった誰か」の影が同時に胸をよぎり、
内側からきしむような寂寥感に襲われる。
ヨーダーが、ぼんやりと天井を見上げ、それからフェニックスの顔を見た。
「……フェニックス」
「何だ」
「どうして、本当に……助けてくれたの?」
前にも、似たようなことを聞かれた。
でも今度の問いは、熱と痛みの底から、
擦り切れた心の芯をそのまま引きずり出すような響きだった。
「この前も言ったろ」
フェニックスは答える。
「助けを求めたからだ」
「それだけ?」
「それだけ、でいいじゃないか」
口にした瞬間、自分の声に、
独善と自嘲の気配がうっすら滲んだのを自覚する。
本当は、街道で引き金を引けなかった少年に対する、
せめてもの“帳尻合わせ”のつもりなのかもしれない。
けれど——少なくとも今、ヨーダーの前でだけは、
そこに余計な傷を混ぜたくなかった。
ヨーダーは、少しだけ笑った。
その笑顔は、以前よりも弱々しく、
それでも確かな「ありがとう」の形をしていた。
「ぼく……ずっと考えてた」
彼は天井を見ながら続ける。
「前のコロニーの神様はさ、殴るたびに近づいてきて、
ぼくが血を流すと満足してたんだ。
怒ってる時だけ、“信者”扱いされる」
言葉と一緒に、過去の記憶がわずかに滲み出る。
狭い部屋。
手の甲を掴む大人の指。
“しつけ”と称された殴打の痛み。
疲れ切った目をした親が、
「こいつが悪いからだ」と自分に言い聞かせるように怒鳴っていた姿。
望まれて生まれたわけじゃない。
飢えと信仰と疲労が錆びついて、
子供の顔を見る余裕なんてとうに失っていた大人たち。
「でも、ここは違う」
ヨーダーは、薄く笑う。
「血を流させないために、皆が必死になってる。
ぼくを殴って近づいてくるんじゃなくて、
遠くまで薬を取りに行ってくれる」
フェニックスの胸が、また痛んだ。
ヨーダーの言葉の、わずかな綻びの向こうに、
あの街道で倒れた少年の姿が入り込んでくる。
同じくらいの歳。
同じように、冬を越すための「武器」を求めていた誰か。
「だから、ぼく……」
ヨーダーは、フェニックスの方を向いた。
「ぼくも、その“理”を信じたい。
皆と同じ神様を信じて、ここにいていいって思いたい」
「それは——」
フェニックスが言葉を探していると、
横からイネッサが軽く口を挟んだ。
「改宗ってやつね。入会届は山茶が受け付けてるよ」
「私は会計担当であって、信仰の窓口ではない」
山茶が即座に否定する。
「信仰は各自の持ち物だ。数値化も管理もできない」
「でも、数字の神様ではあるよね?」
「否定は……しない」
ちいさな笑いが、長屋の中に広がった。
笑い声が、熱のこもった空気の重さを少し軽くする。
その笑いの中で、フェニックスはようやく言葉を見つけた。
悔恨が晴れきることはないと分かっていても、それでも——と、
自分自身にも聞かせるように。
「ヨーダー」
「うん」
「理はきっと、お前が何の名前を口にしても、あまり気にしないと思う」
フェニックスは正直に言った。
「でも、“ここでどう生きるか”は、お前自身の仕事だ」
「仕事、多いなぁ」
ヨーダーが苦笑する。
「でも……やってみてもいいかなって思う」
ファアークが、ぽんと手を打った。
「ねぇフェニックス。
もし“前のぼく”がここに来てたら、やっぱり助けてくれた?」
「前の?」
「自分の信仰の都合で、他の人の祈りを壊したりしてた頃のぼく。
スランボに匿われて、世界全部がぼくと動物のものだって思ってた時期」
ファアークの声は、責めるでも卑下するでもない。
ただ、「そうだった」と事実だけを並べている調子だった。
フェニックスは少しだけ考え、それから答えた。
「……助けたと思う」
「何で?」
「そういう面倒な奴を、抱え込む運命なんだよ、うちは」
口に出してみると、その言葉は予想以上に自分自身にしっくりきた。
“巡礼コロニー”なんて立派な看板を掲げていながら、
拾い物ばかり増えていくこの場所は、
教団の経典で読んだ“模範的な開拓団”というより、
もっと手触りのある、泥臭い「寄せ集め」になりつつある。
それでもいい、と——今は思えた。
イネッサが吹き出す。
「だってさ、ヨーダー。うちら“面倒くさい人類保護区”なんだって」
セラも珍しく肩を震わせ、
ステロイドは顔をそらしながら小さく笑った。
その笑いの響きが、
フェニックスの中で、わずかに固まっていた何かを溶かしていく。
◆ ◆ ◆
夜。
ヨーダーの熱は少しずつ下がり、呼吸も幾分か安定してきた。
「音が、さっきより丸くなってきた」
ファアークは、ヨーダーの胸に耳を当ててそう言った。
「“こっち側にいたい”って揺れ方だよ」
「薬が効き始めているんだろう」
山茶は、医療用パッドの簡易モニタを見ながら答える。
「あとは、水分と栄養と休息だ。……そして、やはり運」
外では、湖面を渡る風が、焦げた外壁を優しく撫でていく。
星々は静かに瞬き、遺跡は相変わらず不気味な沈黙を保っていた。
フェニックスは、一人で研究台の前に座っていた。
AIコアが淡い光を刻み、ログの一覧がモニタに流れていく。
——新規取引、記録。
——医薬品取得。
——外部個体死亡。
——内部個体、生存確率上昇。
——感情値……計測不能。
「……お前、本当に何も感じてないのか」
フェニックスは、コアに問いかけるように呟いた。
「外の少年を殺して、ここの少年を救った。
計算としてはプラスかもしれない。
でも、その線引きをしたのは、理じゃなくて、俺たちだ」
返事はない。
ただ、ナノマシンのネットワークを通じて、
ごく微かなノイズが頭の奥に響いた。
——観測者は、ただ記録する。
——選ぶのは、常に“そこにいる者たち”。
男でも女でもない、乾いた声が、
思考の底にぽたりと落ちて波紋を広げる。
フェニックスは、額に手を当てて目を閉じた。
(もう、手は汚れている)
宙族の血。
インピッドの血。
そして、名前も知らない少年の血。
それでも——
(もうこれ以上、掌から零したくない)
脳裏に浮かぶのは、湖畔で笑う仲間たちの姿だった。
ヨーダーのふざけた顔。
ファアークの夢見がちな瞳。
セラの静かな微笑。
ステロイドの不器用な真面目さ。
イネッサのわざとらしく明るい声。
山茶のぶっきらぼうな優しさ。
それらをまとめて「守りたい」と思った瞬間から、
自分たちはきっと、どこかの誰かにとっての「理不尽」になる。
その事実から、もう目をそらせない。
——それでも。
(どう手を汚すか、どこで線を引くかは、俺たちが決める)
祈りにも、誓いにも似たその想いは、
言葉になる前に、ゆっくりと心の底に沈んでいった。
窓の外で、一匹の魚が跳ねた。
波紋は、今度もやはり戻ってこない。
けれど、暗い水面の向こう側に、
かすかに新しい朝の気配が混じっているのを、フェニックスは感じた。
「おはよう、理」
まだ来ない夜明けに向けて、彼はそっと呟いた。
「明日も、もう少しだけ見ていてくれ。
俺たちが、どんな手で、どんなふうに、
この場所を“選び続ける”のかを」
AIコアが、かすかに光を強めた。
観測は続く。
湖畔の小さなコロニーの物語も、
まだ始まったばかりだった。




