第11章 境界線の向こう側
帰り道の空気は、来た時よりも重たく感じられた。
背中の荷袋には、ヨーダーの命を繋ぐ薬が入っている。
代わりに、懐はほとんど空だ。
そのぶん体の動きそのものは来た時より軽いはずなのに、
一歩ごとに、見えない重りが足首に巻きついていくようだった。
シルバーの軽さが、そのまま桃花源の脆さを示している。
「薬と引き換えに、別の何かを削ってきた」——そんな感覚が、
背中の荷袋と一緒にずっしりと肩にのしかかっていた。
「……なぁ」
沈黙の中で、ステロイドが口を開いた。
「あの交易所のシェイとか言ったか? やけにセラにご執心だったな」
「モエロトルも、そう多く頒けておるわけでもないからの」
セラが外鰓をわずかに揺らし、頷く。
「それに、あやつの言うことは筋は通っておった。
“長く生き残るコロニー”というものの一例じゃ」
「だが、あっちから見たら、俺たちは“美味しい未熟者”だ」
フェニックスは苦い顔をした。
「育てれば良い取引相手になるし、失敗したら失敗したで、
レイダーや猛獣を引きつけてくれる。
自分たちは壁の内側から、結果だけ眺めていればいい」
「それでも、ゼロよりはマシだ」
ステロイドが、荷物の重みを肩で受け止めながら言う。
「あいつらは、計算ずくでこっちを“生かす”つもりだ。
力を示せば、あるいは同盟なんてしてくれるかもな」
「理の“慈悲”とは、ずいぶん違うがのぅ」
セラが苦笑する。
フェニックスは、そのやり取りに言葉を挟まなかった。
それどころか、足取りまで少し重くなっているのが自分でも分かった。
過剰に疲れているわけでもないのに、
膝から下だけ、別の重力の中に沈んでいるような感覚。
頭の中には、シェイ・ロトルの言葉が何度も反芻されていた。
(——“守りたいもの”が増えれば増えるほど、手を汚す場面も増える)
初めて殺した夜のことが、ふいに鮮やかによみがえる。
宙族の男の胸から噴き出した血の色。
泥と混ざりあって、元の色を失っていく赤。
銃声の余韻が、湖畔の霧に呑まれて戻ってこなかった静けさ。
あの時、誰が引き金を引いたか——
意識して避けてきた記憶が、別の角度からじわじわと浮かび上がる。
自分たちはもう、血を一度だけではなく複数回流させ、
血を流され、誰かの死を選んだ側の人間になりつつある。
その先で、何を選び続けるのか。
信仰者としての「正しさ」と、
コロニーを守る現実的な選択肢は、本当に同じ線のどこかで交わるのか。
それとも、いつか決定的に食い違う瞬間が来るのか。
「フェニ」
ステロイドが、不意に口を開いた。
「さっきさ、“祈祷章を担保にしてもいい”って言ったろ」
「ああ」
「本気で言ったのか?」
「……ああ」
短い返事。
ステロイドはしばらく、フェニックスの横顔をじっと見ていた。
額の汗を拭おうともしないまま、視線だけがじりじりと彼を測る。
やがて、何かを飲み込むようにして前を向いた。
街道脇の景色が、二人分の沈黙を受け止めるように流れていく。
湿地はもう遠く、低い草原とまばらな木立が続く地帯だ。
乾いた風が、彼らの髪と衣を撫でる。
「お前さ」
「何だ」
「信仰と現実のどっちかを選べって言われたら、どっち選ぶ?」
真正面からの問い。
「その二つを別物として出してくる時点で、質問が間違ってる」
フェニックスは、疲れたように笑った。
「俺にとっては、同じ線の両端だ。
どっちかを選ぶんじゃなくて、
どこに立つか、毎回決め直すしかない」
「便利な言葉だな」
ステロイドは鼻で笑う。
「どっちにも転べる」
「そうかもしれない」
フェニックスは否定しなかった。
二人の間に流れる空気は重いのに、どこか馴染み深い。
物心ついた時にはもう、
教団の石畳の中庭で、同じ木漏れ日の下に座っていた。
祈祷章の読み方も、銃の分解の仕方も、
同じ教官に殴られながら覚えた。
幼い頃、夏の昼下がり。
古い木の影の中で、祈祷章を声に出して読むフェニックスの隣で、
ステロイドは分厚い「実用建築入門」を退屈そうに開いていた。
『理が与えし技術は——』
『はいはい、“正しく使う者にのみ微笑む”だろ。
なら、俺は柱の立て方を覚える。お前は言葉を覚えとけよ』
そんな、どうしようもなく他愛ない記憶。
今は、その延長線上で本当に「家」を建てていて、
その家と仲間を守るために、人を殺す引き金を引いている。
フェニックスはふと足を止めた。
「……待て」
彼は耳を澄ませ、ナノマシンのネットワークに意識を落とす。
周囲の空気の揺れ、小さな振動、足音の周期。
「前方、物音。……人間が複数。
隠れているつもりの音だな。あれは」
「待ち伏せか」
セラの手が、ごく自然な動作で柄に伸びる。
西日に斜めに切られた街道の先。
曲がり角の陰から、影がいくつか流れ出してきた。
粗末な布の服は擦り切れ、
革の上着はところどころ破れ、継ぎはぎだらけ。
靴は片方だけ底が抜けていて、
何度も補修した跡が見える。
頬はこけ、目の下には濃い隈。
皮膚には日焼けと凍傷の痕が混ざっている。
レイダーというより、
「生きるために奪うしかなくなった者たち」という言葉の方が似合う風体だった。
「よう、巡礼さんたち」
先頭の男が、両手を広げて見せた。
笑みは貼り付けの余裕顔だが、
その目はずっと前から眠れていない獣のようにぎらついている。
「ちょっとした“通行税”だ」
彼の後ろに並ぶ者たちの中に、一人、あまりにも小柄な影があった。
ヨーダーと同じくらいの背丈。
手には、慣れない様子で握ったピストル。
指は震え、銃身はわずかに上下に揺れている。
痩せた頬、薄汚れた髪。
目の奥には、疲れと飢えと、どうしようもない焦燥。
——コロニーに命からがら転がり込んできたあの日のヨーダーの姿と、
ぴたりと重なって見えた。
「ここで銃を渡してくれりゃ、命までは取らない」
男は言う。
「あんたら、最近この辺でちょっとした噂になってるんだぜ。
“理だの教典だの掲げて、新米コロニー作った巡礼団”ってな」
「噂はどうでもいい」
フェニックスは、できるだけ穏やかな声を保った。
「渡せるものは、食料と一部の部品だけだ。
武器は——」
「武器が欲しいんだよ」
男の笑みが、ぎし、と歪んだ。
一瞬、声が裏返るくらいには焦っていて、
それを隠すように、わざと大仰に手を広げて見せる。
「そっちは“理”とやらが守ってくれるんだろ?
なら銃くらいなくても生きていけるさ」
ステロイドが、短く舌打ちした。
セラの視線が、ちらりとフェニックスに向く。
その視線には「任せるぞ」と「早く決めろ」の両方が混ざっていた。
ステロイドは、既に一歩前へ出ている。
「悪いが、その取引は飲めない」
フェニックスははっきりと言った。
「こっちには、守るべき家と、助けるべき子供がいる」
「そっちにも“守るべき家族”がいるかもしれないけどな」
男の後ろで、小柄な少年の肩がぴくりと震えた。
まだ幼さの残る顔。
その目には、怯えと、それでも前に出ようとする無茶な決意が宿っている。
「こっちだって必死なんだ!」
少年が叫んだ。
「銃があれば、次の冬を越せるんだよ!」
その言葉に、フェニックスの胸に嫌な既視感が走る。
ヨーダーの顔と、目の前の少年の顔が重なる。
燃え上がる建物から逃げ出す小さな背中。
叱られ慣れた、でも叱られたくないと心底願っている子供の目。
どこもかしこも、似たような地獄を抱えている。
「……話し合いでどうにかならないか?」
自分でも無茶だと分かっていた。
それでも、言葉は口をついて出ていた。
「ならないね」
男は短く言い捨てる。
「ここで引き下がったら、俺たちは“弱い”って噂を流される。
そうなったら、次に狙われるのはこっちだ」
「噂、か」
ステロイドが低く笑った。
「結局、どこも同じだな」
空気が固まった。
誰かが引き金に指をかければ、
一瞬で血の匂いに変わる空気。
先に動いたのは、少年だった。
震える手で、まっすぐフェニックスに銃口を向ける。
狙いも呼吸も滅茶苦茶。
けれど、この距離なら、その一発で誰かは確実に倒れる。
乾いた銃声が——
その音を上書きするように、もう一発、別の銃声が重なった。
少年の体が、後ろに弾かれる。
胸の中央に、小さな穴。
ピストルが手から滑り落ち、土埃を上げた。
引き金を引いていたのは、ステロイドだった。
彼の目は淡々としていた。
怒りも、躊躇も、後悔も、表情には浮かんでいない。
だが、銃口をわずかに下ろした瞬間——
強く噛みしめていた奥歯から、筋肉が解けるように震えた。
男たちの顔から血の気が引く。
その一瞬の隙を、セラが見逃すはずもなかった。
「下がれ!」
セラの叫びとともに、
近づいてきたレイダーの武器が、刃の軌跡で弾き飛ばされていく。
ステロイドのショットガンが土と枝葉を抉り、
「次は頭だ」と無言で告げる威嚇射撃。
目の前で倒れた少年に駆け寄ろうとした男が一人。
だが、もう一人がその腕を乱暴に引き剥がし、
何かを叫びながら反転する。
「覚えてろよ……!」
怨嗟の声だけが、その場に置き去りにされる。
あまりにもあっけない崩壊だった。
男たちは罵声を残し、散り散りに逃げていった。
◆ ◆ ◆
静寂だけが残った街道で、
少年の遺体だけが、転がるように倒れていた。
フェニックスは、しばらくその場から動けなかった。
乾いた土の上に広がる血は、
さっき雲切りで見た赤い交易旗の色よりも、ずっと安っぽく見えた。
でも、それが一つの命の全てだった。
「……なんでだ」
やっと絞り出した声は、驚くほど掠れていた。
「なんで、撃った」
「撃たなきゃ、お前か誰かが死んでた」
ステロイドの声は平板だった。
「それだけの話だ」
「あいつは、ヨーダーと同じくらいの年だ」
フェニックスは、視線を少年から外せない。
「同じように、必死だった。……だったら——」
「だったら、何だ」
ステロイドが振り返る。
その目には、怒りに似た何かが宿っていた。
相手にではなく、問いそのものに向けられた苛立ち。
「“理の教え”を説いて、武器を置いて帰ってくれって頼めばよかったか?
“助けを求める者は拒むな”って?」
フェニックスは言葉に詰まる。
「お前がヨーダーを拾った時、俺は何も言わなかった」
ステロイドは続けた。
「あれは“助ける価値のある危険”だったと、今も思ってる。
……でもな、今のは違う。
あいつらは最初から“奪う気”で来てた」
「それでも、別のやり方が——」
「ない」
ステロイドは断ち切るように言った。
「ここで躊躇って、お前かセラが撃たれたら、
それこそ本末転倒だ」
セラが、静かに口を挟んだ。
「事実だけを言えば、ステロイドの判断は妥当だった。
戦況と距離、力量を考えれば、のう」
「お前もか、セラ」
フェニックスが苦笑する。
「理の教えはどこへ行った」
「理の教えは、“現実から目をそらすための飾りではない”はずだ」
セラは目を伏せた。
「私は、そう教わったよ」
フェニックスは、少年の亡骸に目を落とした。
ヨーダーと同じ歳。
別の街道を、別のコロニーを、
別の“理”を信じて生きてきた誰か。
その背後には、きっとどこかに、
名前も知らない家族がいたはずだ。
湖の魚が跳ねる音が、頭の中で響く。
——家のすぐそばで聞くそれとは違う、
もっと遠くて、届かない音。
波紋は広がり、やがて消える。
戻ってこない波紋。
戻れない命。
「……俺は、何を守ろうとしてるんだろうな」
呟きは、風に溶けていった。
返事の代わりのように、
胸の奥でナノマシンのノイズがざわめく。
遠く離れた湖畔のAIコアが、
また一つ何かを記録した気配。
——因果関係、記録。
——選択の分岐点、タグ付け。
——観測、継続中。
少年の遺体は、街道脇の木の根元に埋めた。
ステロイドが、無言で土を掘り返し、
簡単な石の印を刻む。
セラが短く祈りの言葉を口にする。
モエロトルの古い言葉で、誰にも意味は分からない。
けれど、その響きは、不思議とこの場にはふさわしく思えた。
フェニックスは、何も言えなかった。
手を合わせることも、祈りの一節を口にすることもできなかった。
その沈黙のまま、三人は湖畔の家へと帰路を急いだ。
背中の荷袋の中で、薬瓶がかすかに音を立てる。
その音だけが、
今はまだ「選んだ結果に意味があった」と信じさせてくれる、
細い綱のように思えた。




