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第10章 初めての交易路


 朝の霧が、まだ湖面に薄く残っていた。

 冷えた空気の中、簡素な荷車の上に荷物が積まれていく。

 皮袋に詰めた水。

 干し肉と、塩を擦り込んだばかりの獲物の肉。

 拾い集めたコンポーネントと、脱出ポッドをばらした時に出てきた古い機械部品。

 そして——ヨーダーのためにどうしても手に入れねばならない医薬品の代価になりうる、

 ありったけの「売れそうなもの」。

(……これで足りなかったら、その時は、その時だ)

 フェニックスは、荷車の縄を締めながら胸の奥で小さく呟いた。

 行くのは自分とステロイドとセラ。

 戦える戦力の半分を外に連れ出すことになる。

 コロニーに残る顔ぶれを思い浮かべる。山茶、イネッサ、ファアーク、そしてヨーダー。

(この組み合わせで本当に大丈夫か?)

 山茶の判断力。イネッサの勘と行動力。ファアークの「音」を聞く力。

 そして、守られる側であるはずのヨーダーの、妙にしぶとい生命力。

 不安がないと言えば嘘になる。

 けれど、ここに残る三人を信じられないなら、

 そもそもこのコロニーを始める資格なんてなかったのだろう。

 荷積みを終え、長屋の前に立つ。

「じゃあ、留守番組」

 フェニックスは一度深く息を吸ってから、いつもの調子で口を開いた。

「山茶、イネッサ、それからファアークはここだ」

 布団に横たわるヨーダーは、熱に浮かされた目で彼らを見上げ、

 無理やり笑みを作ってみせた。

「いってらっしゃい……ぼくの分まで、ちゃんと値切ってきてね」

「その前に、こっちの分の世話をちゃんとさせなさい」

 イネッサがヨーダーの額に置いた薬草に浸した布を、ぺり、と丁寧に剥がす。

 新しい布を水椀から取り上げ、軽く絞ってから額に乗せ直し、

 ついでに指先でコツンと軽く額をつついた。

「祈る時はこう言いなさい。“どうか理が、あまり勉強熱心な商人をこっちから遠ざけてくださいますように”って」

「それ、値切る気満々の祈りじゃない……?」

「そうとも言う」

 イネッサは肩をすくめて笑った。

 窓際では、山茶が外を一望できる位置に立ち、

 既に周囲の地形と射線を頭の中で組み立てている。

「私が、ここを守る」

 彼女は短く言った。

「盗人や再襲撃があれば、迎え撃つ。

 ……その時は、戻ってくるまで家を残しておけるように、できるだけ頑張る」

「“できるだけ”って付けるあたりが、山茶らしいな」

 フェニックスが苦笑すると、

「嘘は書きたくない主義なんだ」

 と、山茶は端的に返した。

 ファアークはヨーダーの手を両手で包み込んでいる。

「ぼくは、ヨーダーの音を聞いてる」

 少年の胸の上下に意識を向けながら、彼は静かに言った。

「変な揺れが始まったら、すぐに山茶に伝えるから」

 山茶は、その言葉にうなずく。

「抗生剤が手に入れば、あとは時間と看護だ。

 そこまでは……こっちで持たせる」

 フェニックスは、長屋の壁と、その向こうの外壁へと視線を向けた。

 インピッドの火矢が残した焦げ跡が、まだあちこちに黒く染み付いている。

 それでも、壁は立っている。屋根も、修復の痕はあるが、ちゃんと「家」の形を保っている。

 ここに帰ってくるべき場所がある。

 帰ってくるのを待ってくれる仲間がいる。

 それだけで十分だった。

「行ってくる」

 フェニックスは、皆の顔を順番に見回した。

「理が俺たちを裏切らないことを——いや、

 ……俺たちが自分で自分を裏切らないことを祈っててくれ」

「理より、自分らの足を信じるのじゃな」

 セラが、口元だけで笑う。

「足が止まったら戻れぬぞ。

 倒れてもよいが、止まるでない」

 出立するのは、フェニックス、ステロイド、セラの三人。

 荷を積んだ雌牛の手綱をステロイドが握り、

 彼らは湖畔の開けた土地を後にして、古い街道へと向かった。

 霧の向こうに広がるのは、

 太古の石が崩れ、草が割れ目から伸びる道。

 桃花源——そう仮に呼んだ名は、

 誰も反対しなかったので、そのままコロニーの正式名称になった。

 井戸の中で空を見上げていた蛙が、

 ようやく井戸の縁を越えて、新しい空の広さを確かめに行く——

 そんな旅の始まりだった。

 ◆ ◆ ◆

 街道を進むにつれ、風景は少しずつ変わっていった。

 湖畔の湿地はゆるやかに終わり、

 代わりに低い丘と、背の低い草原が増えていく。

 足元の土は、ぬかるみから締まった土へ。

 水草と苔が目立っていた足元には、

 いつの間にか乾いた草と、小さな花が混じるようになっていた。

 丘を一つ越えるたび、

 木々の種類や葉の色が少しずつ変わる。

 遠くに見える山並みも、湿った黒から、

 やや赤みを帯びた、乾いた土の色へと変化していた。

 ところどころに、小さな狩猟キャンプの跡があった。

 焚き火の跡、地面に残った寝床のくぼみ、

 獣の骨だけを残して運び去られた痕。

 街道脇には、荷車を停めるにはちょうどよさそうな平坦地が点々とあり、

 中には崩れかけた宿場のような建物も混じっている。

 誰がいつ建て、いつまで使っていたのかも分からない、

 「通り過ぎる者たちの共同休憩所」の名残。

「この辺り、思ったより人の行き来があるんだな」

 ステロイドが、周囲を見回しながら言った。

「街道は、血管のようなものだ」

 セラが、ゆっくりと前方を見据える。

「物資も、情報も、ここを通る。

 噂も、の」

「また噂か……」

 フェニックスがため息をついた。

「例の武器商人、うちのことをどんな風に吹いて回ってるのか、ちょっと気になるな」

「“聖人ぶったガキども”」

 セラが苦く笑う。

「……そのくらいは言っておるじゃろ。

 実際、あながち間違いでもないのが、少し腹立たしいが」

「“ガキども”は余計だな」

 フェニックスが肩をすくめると、

「いや、そこは合ってるだろ」

 とステロイドが即答し、三人の間にほんの少しだけ笑いが戻った。

 半日ほど歩いただろうか。

 丘を一つ越えた向こう側に、

 石と木で組まれた壁が見えてきた。

 その上には、見張りの人影がいくつか。

 門の傍らに掲げられた古い紋章には、

 曲線を描く波と、そこから伸びる外鰓を模した意匠が刻まれている。

 モエロトル王朝期に使われていた様式に似た紋。

 セラの外鰓が、ほんのわずかに震えた。

「中立コロニー《雲切り》」

 ステロイドが、以前山茶から聞いた情報を確認するように呟く。

「鋼主義でもアウルテウスでもない。

 取引優先の連中って噂だ。……山茶がそう言ってた」

「一番やりやすいが、一番腹の中が見えにくいタイプだな」

 フェニックスは小さく息を吐く。

「それに、あの紋章……セラ、一応“同族”ってことになるのか?」

「同族と言えば、そうじゃな」

 セラは肩を竦めた。

「ただ、あやつらは“血統”と“功績”で自分を語りたがる一派じゃ。

 儂はそういう肩書きからは、とっくに降りた身よ」

 フェニックスたちが門の前に立つと、上から声が降ってきた。

「そこの巡礼団、用件は?」

 見張り台に立つ影の声は、どれも女のものだった。

 だが、その声ににじむ圧は、

 フェニックスが今まで会ってきたどの男の兵士よりも重い。

 淡い螈気が、彼女たちの周囲の空気をわずかに揺らしている。

「交易だ」

 フェニックスは、門の上に向かって声を張る。

「医薬品が必要だ。

 シルバーと物資は、できる限り用意してきた」

 門の上で、数人が顔を見合わせる様子が見えた。

 ステロイドは、その間にも門の構造や壁の積み方に目を光らせている。

 石と木の組み合わせ方、見張り台からの死角。

 その全てを、職人の目で焼き付けていた。

 やがて、ギィ、と木製の門が開く。

「入れ」

 先ほどの声の主が言う。

「武器は外すな。ただし——抜かないこと」

 中に入ると、そこには想像以上に整った光景が広がっていた。

 石造りの建物が、街道に沿って両側に並び、

 その合間ごとに、きちんと区画された畑が広がる。

 小さな市場には、干し肉や穀物、織物、工具が並び、

 子供たちが走り回り、老人たちがベンチで陽を浴びていた。

 よく見ると——男の姿は少ない。

 十人に一人いるかいないか、という割合だ。

 残りはほとんどが女で、その中には外鰓を持つモエロトルの姿も多い。

「……ちゃんと“暮らし”がある」

 フェニックスが、ぽつりと漏らす。

「長く生き残ったコロニーってのは、こういう顔をしてるんだ」

 ステロイドが低く言う。

「壁と畑と、ほどほどの武力と、ほどほどに黒い腹の中」

「黒いか白いかなど、場所によって色合いが変わるだけじゃ」

 セラが視線を巡らせる。

 懐かしさとも、嫌悪とも、

 それでもどこか拭いきれない愛情ともつかない感情が、

 その瞳に一瞬だけ影を落とした。

「生き残った集落は、皆どこか、似た匂いを纏う」

 ◆ ◆ ◆

 案内された先は、小さな交易所だった。

 カウンター越しに見えるのは、石壁に囲まれた一室。

 棚には薬瓶や工具、巻物や帳簿がきっちりと並んでいる。

 カウンターの奥には、眼光の鋭い中年の女が座っていた。

 白磁のような肌に、頬から首筋にかけて走る淡い文様。

 耳のあたりには、セラと同じように外鰓が花びらのように広がっている。

 額には、簡素だが位を示す金属の冠。

 衣は動きやすい布地だが、縫い糸には細やかな刺繍が施され、

 彼女がただの店番ではないことを物語っていた。

 無駄のない視線が、フェニックスたちの装備と荷物を一瞥する。

「医薬品が欲しいって?」

 女は、ゆっくりと指で机を叩いた。

「何に使う」

「負傷した子供がいる」

 フェニックスが簡潔に説明する。

「刺し傷からの感染の可能性が高い」

「子供、ねぇ」

 女は小さく鼻で笑う。

「あんたらが連れてきた? それとも、ここで生まれた子かえ?」

「いや、保護した」

 フェニックスは言った。

「二つのコロニーに追われていた」

「やっかいな拾いものだね」

 女は立ち上がり、棚からいくつかの薬瓶と包帯を取り出す。

「うちは慈善事業じゃない。値段は高いよ」

 カウンターに並べられた薬瓶を見て、セラが静かに息を呑んだ。

「……この量で、うちのシルバーはほぼ消えてしまうじゃろうな」

「分割払いは?」

 ステロイドが、半ば焦ったような声で口を挟む。

「信用がない」

 女は即答した。

「あんたらが一年後に、ここに立っている保証は?

 帳簿は“気持ち”じゃなく、数字でつけるもんでね」

 ステロイドがまだ何か言おうとしたが、

 フェニックスは手のひらを軽く上げて制した。

 しばらく黙ったまま、カウンターの上の薬瓶を見つめる。

 それから、顔を上げた。

「足元を見ていることは分かっている」

「自覚があるなら話が早いね」

「でも、その取引を飲む」

 フェニックスは胸元の祈祷章に手をやる。

「ヨーダーを救えるなら、教団から授かった祈祷章だって担保にしてもいい」

 女の目が、その銀色の板切れをちらりととらえた。

 その瞬間、室内の螈気の流れが、ほんのわずかに変わる。

 彼女の外鰓が、ごく小さく震えた。

「……ふむ」

 女は、面白そうに目を細めた。

「その銀の板きれに、うちの帳簿を動かすほどの価値はないよ。

 少なくとも、“ここ”の物差しではね」

 そう言いながらも、その声にはわずかな愉悦が混じっていた。

「ただ——そういう“馬鹿”は嫌いじゃない」

 結果として、取引は成立した。

 シルバーはほとんどが薬と包帯に変わり、

 残ったのは、手のひらに収まる程度の硬貨が少しだけ。

 それでもフェニックスの表情には、

 うっすらと安堵が浮かんでいた。

 目の前の瓶と包帯は、

 確かにヨーダーの命をこちら側へ引き寄せる「手」がかりになる。

 ◆ ◆ ◆

「——そこの娘よ」

 支払いを終え、立ち去ろうとしたところで、

 女の視線がセラにぴたりと止まった。

同族おなじものを見るのは久しい。

 どこの水辺の生まれだい? どの派閥の流れを汲む?」

 女の視線が、セラの腰に帯びられた刃へと滑る。

「その腰の業物わざもの、ただの巡礼者に持てる代物じゃない。

 抜けば、誰かの首が落ちる類のものだろう?」

 セラは一瞬だけ目を伏せ、それから自嘲気味に笑った。

「儂の出自を語るほどの看板は、とうの昔に剥がれ落ちたよ。

 今はただのセラ。

 ……“どこの誰でもないモエロトル”ということで勘弁してはくれぬか」

 モエロトルの礼儀として、本来ならば、

 同格と認めた相手同士が名乗りを交わすのが筋だ。

 セラはほんの一瞬、古い名を口にしかけたが——

 それを飲み込み、「セラ」の二文字だけを残した。

 女は、その躊躇いを見逃さなかった。

「そうかい。なら、こっちから名乗ろう」

 彼女は胸を軽く張った。

「ここ《雲切り》の交易と防衛を預かる者——

 ロトル王朝第七枝流の末裔、《シェイ・ロトル》と申す」

 芝居がかった、だが不思議と板についている名乗り。

 モエロトルの文化では、

 己から名乗るのは「対等と認めた相手」に対してだけとされている。

「同族なら、いつでも歓迎するよ、セラ。

 うちには、モエロトル専用の功夫カンフーを積むための“場”も残してある。

 螈気を深めたいなら、ここほど適した水場はそうない」

 勧誘とも、挑発ともつかない笑み。

 セラの外鰓が、わずかに震えた。

 遠い昔、今よりずっと強く螈気を操れていた頃の感覚が、

 一瞬だけ指先に戻りかけて——霧のように消える。

「……魅力的な誘いじゃな」

 セラは、正直に答えた。

「だが、今の儂は“桃花源のセラ”でありたい。

 ここへ戻る時が来るなら、その時は——

 この子らが胸を張って“連れて行ってやる”と言えるようになってからにするよ」

 フェニックスが、思わず目を瞬いた。

「セラ、それは初耳なんだが」

「言わぬだけで、考えるくらいはするわ」

 セラは肩をすくめる。

 シェイ・ロトルの視線が、今度はフェニックスとステロイドへ向かった。

「……ふうん」

 彼女は唇の端を持ち上げる。

「連れを引き抜かれそうになって、

 慌てて止めに入らないあたり——

 あんたたちもなかなか、見どころがある」

 それはつまり、ずっと様子を見て「試していた」ということだった。

 ステロイドが、小さく舌打ちする。

「そっちこそ、腹の中が真っ黒って自己紹介してるようなもんだ」

「褒め言葉として受け取っておくさ」

 シェイ・ロトルは、愉快そうに笑った。

「——その方ら」

 彼らが交易所の扉に手をかけたところで、女が改めて声をかける。

「この世界で長く生きたいなら、覚えておき」

 カウンターの上で、彼女の指先がトン、と小さく音を立てた。

「“守りたいもの”が増えれば増えるほど、

 手を汚す場面も増える。

 それでも引き金を引けるかどうかで、

 コロニーの寿命が決まるのだと」

 フェニックスは、その言葉を黙って聞いた。

 ステロイドは横目でシェイ・ロトルを見て、ひとつ息を吐く。

「もう、手は汚れてる」

 彼は短く返した。

「あとは、その汚れをどこまで見て見ぬふりするかの話だ」

 シェイ・ロトルは目を細め、口の端だけで笑った。

「いいね。その目は、すぐには折れなさそうだ」

 そして、セラに向き直る。

「またおいで、セラ。交易でも、功夫でも、酒でもいい。

 同族と語らう場は、そう多くは残っちゃいない」

「その時は——程よく値をまけてくれると嬉しいの」

 セラがそう返すと、シェイは声を立てて笑った。

 ◆ ◆ ◆

 彼らが《雲切り》を後にする頃には、

 太陽はすでに傾き、街道に長い影を落としていた。

 荷車の上で、薬瓶がかすかに触れ合い、

 チリ、と小さな音を立てる。

 その一音一音が、

 桃花源で寝息を立てるはずの少年の命と、

 細い糸で結ばれているように思えた。

「急ごう」

 フェニックスが、雌牛の首を軽く撫でる。

「足が止まったら戻れないんだろ? セラ」

「うむ」

 セラは前方の街道を見据えたまま頷く。

「だからこそ——

 止まらぬよう、歩幅を合わせるのじゃ」

 ステロイドは荷車の後ろを押しながら、

 振り返って遠くの湖の方向を見た。

 そこには、見えないはずの家の灯りと、

 仲間たちの気配が、はっきりと「ある」と感じられた。

「……待ってろよ、ヨーダー」

 誰に聞かせるでもなく、低く呟く。

 街道は、夕焼けの中で赤く染まり、

 その先には、まだ知らない幾つものコロニーと、

 幾つもの噂と、幾つもの選択が待っている。

 桃花源の初めての本格的な交易路は、

 こうして一歩を踏み出した。

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