壁の中の声
その夜、悠は一睡もできなかった。
枕元に携帯を置き、録音アプリを起動したまま、壁に耳を押し当てていた。
「……ぃて……」
女の声は、時折かすれるように漏れてきた。
まるで、コンクリートの中で誰かが喋っているような……くぐもった、苦しげな声。
助けを呼んでいるのだと分かっていても、悠は動けなかった。
もしこれが、誰かのイタズラだとしたら?
それとも……自分の頭がおかしくなったのか?
けれど——
翌朝、録音データを確認して背筋が凍った。
そこには、しっかりと女の声が残っていたのだ。
「……たすけ……ここ……いる……」
音質は劣悪で、ノイズも多かったが、人の声だと断言できた。
悠は恐る恐る、管理会社に電話をかけた。
「すみません、隣の部屋のことなんですが……綿貫さんって、いまも住んでますか?」
少し沈黙があった。
「……綿貫さん、ですね? ええ、入居はされていますが……連絡はあまり取れていません。何か……騒音でも?」
「いえ、逆です。……あまりに、静かなんです」
「……」
電話の向こうで、管理人が短く息を吸った音がした。
「……ああ、そうですか……まあ、女性の一人暮らしですしね。神経質な方なのかもしれません」
「でも、その……声が聞こえるんです。助けてって、壁の中から……」
その瞬間、電話口の空気が変わった。
「……それは……録音、されてますか?」
「……あります」
「……すみません、そのデータ……送っていただけますか?」
急に、態度が変わった。
明らかに“何かを知っている”ような反応だった。
悠は、そのまま録音データを送信した。
だが、それ以降、管理会社からの返信は来なかった。
電話も、繋がらない。
数日後、悠は再び“声”を聞いた。
「……うえ……みて……」
上?
天井を見上げた。
何もない。
が、しばらくして——音がした。
カサ……カサ……
天井の中で、何かが這っているような音だった。
いや、それだけじゃない。
カッ……カツ……カサ……
それは、**“指の関節を使って、四足で這っている人間の動き”**に近かった。
ぞわり、と背中に冷たい汗が伝った。
怖い。
なにかが、自分の部屋の上にいる。
見てはいけない。
でも、知ってしまった。
綿貫の部屋に誰かが“閉じ込められている”ことを。
いや……本当に“いる”のか?
——その夜。
悠は、ついに決心する。
隣の部屋のドアノブに、手をかけた。
そして気づいた。
鍵が、開いている。