隣の部屋の静けさ
宮原悠は、音に敏感な人間だった。
隣人の目覚まし時計の音。
上階の子供が走り回る足音。
深夜のテレビの低いノイズ。
それらが些細なストレスになって、これまでに三度、引っ越している。
だからこそ、今回の部屋は奇跡のように思えた。
駅から徒歩10分。築年数もそこそこ。1Kの間取り。
なにより——静かだった。
驚くほどに、どの方向からも生活音がしない。
窓の外は住宅街。線路も学校も近くにない。
一日じゅう耳を澄ましても、隣人の咳ひとつ聞こえない。
最初の一週間、悠はそれを「理想の環境」だと喜んでいた。
だが、次第に、ある違和感がじわじわと心に巣食い始めた。
静かすぎるのだ。
隣の部屋は、人が住んでいるはずだった。
引っ越しのとき、管理人から「若い女性の方が入ってます」と聞いた。
表札には「綿貫」という苗字が貼ってあった。
だが、その住人の気配がまるでない。
物音がしない。
ドアの開閉音もしない。
洗濯物も干されていない。
朝も夜も、照明の光がカーテンから漏れることがない。
それでも、なぜか——悠は確かに感じていた。
壁の向こう側に、「誰かがいる」。
夜。
部屋の電気をすべて消して、ベッドに入る。
まぶたを閉じ、耳を澄ませたその時——
「……ッ」
心臓の奥が、わずかに跳ねた。
音ではなかった。
“気配”だった。
そこにいるのだ。
壁一枚隔てた向こうに、音を立てず、息を殺して、こちらを見つめている“なにか”が。
ただじっと、動かずに。
悠は、掛け布団を握る手に力を込めた。
部屋は静寂に満ちていた。
だがその静けさは、穏やかさではなく——捕食者が息を潜めるような、異様な“静”だった。
そしてその夜。
壁の向こうから、初めて音がした。
「……ぃて……」
かすれた、女の声だった。
「……たすけ……」
その声は、壁の中から響いていた。