最後の魔導士
夕暮れの草原の丘にある一軒家、夏の終わりの季節でまだ寒くはない。敷地の仕切りはなく、伸ばしたひさしのしたではデッキチェアに座ってパイプを燻らせる老人がいる。顔は皺も深く歳を感じさせるが、身体付きはがっしりとして腕も太くて見事なものだ。どこか、農作業だけではつかない肉のつき方をしている。笠麦帽子を目元まで下げて長い昼寝をとっている様でもある。
そこに一人のスーツの若い男が歩いてくる。丘の麓にある駅舎(といっても簡易的に古屋が立っているだけだが)から歩いてきたのだ。この何もないところに。男は定期馬車便から降りて、辺りを見回して家を見つけたあとはただ静かに歩いてきた。初めて来たが、そこに何があるのかは知り、それが目的のものであることを知る歩みだ。
「カンパニーのことが知りたい」
若い男は、デッキチェアで眠る(様に見える)老人に前口上もなく告げた。それが当たり前のことかの様に、自分には権利があるかの様にどこか苛立った様子で話す。
男が近づいても何も動かなかった老人は、男の言葉を聞いた瞬間にぴくりと動いた。
「懐かしい名前を聴いたな。まだその名前を知っていた者がいたとは。」
なにか"カンパニー"には特別な意味があるらしい。麦わら帽子を顔の上からどけて男を見てニヤリと笑った老人は言う。
「せっかくだから大いに語りたいところだが、もう日が落ちるな。出直してこいと言うのも気の毒だし、一杯やっていくか?」
「ああ、どうやら馬車は最終だったらしい」
若い男はさも当然とばかりに応えた。老人は立ち上がり、男を家の中へと招き入れた。田舎の一軒家にしては意外と居心地の良い内装だ。簡素ながら、必要なものは揃っている。老人は棚から取り出した土着な酒と、二つの分厚いガラスのコップをテーブルに置いた。
「ハロルド・シュタイナーだ。ここらでは単にハルと呼ばれている」
老人は自己紹介すると、コップに琥珀色の液体を注いだ。
「レイモンド・クルーガー。歴史研究者です」
若い男—レイモンドも席につきながら名乗った。彼はテーブルの上に小さな手帳とペンを置いたが、ハルはそれを見て小さく首を振った。
「今夜は記録なしで話そう。明日の朝には忘れているかもしれないがね」
ハルは意味深な微笑みを浮かべ、自分のグラスを掲げた。
「乾杯、若き探求者よ」
「お付き合いします」
レイモンドは少し躊躇ったが、結局はグラスを手に取った。
二人が一口ずつ酒を飲み干した後、沈黙が部屋を満たした。窓の外では、太陽が完全に地平線の向こうに沈み、紫がかった闇が世界を包み込み始めていた。
「さて、"カンパニー"か、何が知りたいのかな?」
ハルは静かに口を開いた。
「すべてだ」
レイモンドは躊躇わず答えた。
「その起源、目的、現在の活動内容。特に"ブルジリア"との関係について」
その名前を聞いてハルの目に一瞬、警戒の色が浮かんだ。だが、すぐに冷静さを取り戻し、彼は再びグラスに酒を注ぎながら話し始めた。
「通常"カンパニー"と呼ばれるブレーメン商隊合同会社は、中原諸国の魔法国家から南部に移り住んだ者達が運送業として発展させた…というのがカバーストーリーだな」
「カバーストーリー?」
レイモンドは身を乗り出した。
「ああ、実際は中原諸国にあったブルジリアの特殊魔導部隊の生き残りがはじまりだ」
ハルは淡々と語った。
「ブルジリア?」
レイモンドの目が輝いた。
「50年前に戦略魔法を暴走させて消滅した"ザ・ロスト"か?」
「そうだ」
「だって、あれは魔法の暴走で国土が国民ごと消失したんだろ?」
レイモンドは学者らしく知識を披露しながら、ハルの反応を注意深く観察していた。
「言葉だけでは伝わらないこともある」
ハルはそう言うと、テーブルの上に手をかざした。彼の指先から淡い青白い光が漏れ、空中に霧のような映像が浮かび上がった。
レイモンドは息を呑んだ。映像の中では、若き日のハルと、別の若い男性が並んで立っていた。彼らの背後には壮麗な建物が見え、空には複数の浮遊する塔が漂っていた。
「ブルジリアの魔法アカデミーだ、反乱の前日の姿だよ」
ハルは静かに言った。
「これは記憶投影魔法……現代では失われた技術です」
レイモンドは驚きの表情を浮かべた。
「失われたというより、封印されたというべきだろう」
ハルは映像を変化させた。今度は広大な議事堂のような場所が映し出され、豪華な衣装を身にまとった貴族たちが並んでいた。彼らの前には、虚ろな表情の市民たちが整列していた。
「闇魔法だ、他人のオドに干渉し、行動を制御する禁忌の魔法。ブルジリアの貴族たちは、これを使って民を支配していた」
ハルは冷たい声で言った。映像が再び変わり、凛とした表情の女性が現れた。彼女は複雑な魔法陣の前に立ち、両手を広げていた。
「マーガレット……私の妻だ、彼女は防御魔法の権威だった。闇魔法に対抗する術を研究していたんだ」
ハルの声には深い敬愛が滲んでいた。それにも気づかないほど、レイモンドは映像に見入っていた。
「そして、反乱が」
「ああ」
ハルは頷き、映像を消した……。
「ブルジリアの暴走は、馬鹿な貴族が戦乱に乗じて暴走して下剋上しようとしたのを、闇魔法を受けつつも抵抗した者達が引き起こした闘いの結果だな」
「そんな情報がどこにもないのはなぜですか?」
レイモンドは首を傾げた。
「その馬鹿には中原の外からもいろんな国が支援をしていた。だから、ある程度の国の上層部は何が起きたかを知っている」
ハルは意味深に言った。沈黙が流れた。レイモンドは頭の中で情報を整理しようとしているようだった。彼の表情には混乱と驚きが交錯していた。これまで信じてきた歴史が、目の前で覆されていくことへの戸惑いが見て取れた。やがて彼は口を開いた。
「そして、その反乱に加わった魔導士たちが後に"カンパニー"を設立したと」
ハルは静かに頷いた。
「生き残った者たちはね。我々は…いや、彼らは二度とあのような力が悪用されないよう見張る役目を自らに課したんだ」
「そうか、だから現代魔法協会の活動を影から監視していたのか」
レイモンドが呟くと、ハルは鋭い目でレイモンドを見た。
「ほう、君はそこまで知っているのか。ただの歴史研究者にしては詳しいな」
レイモンドは一瞬たじろいだが、すぐに取り繕った。
「推測です。魔法協会が古代魔法の研究を進めているのは公知の事実ですから」
「そうかな」
ハルは納得していない様子だったが、追及はしなかった。代わりに彼は立ち上がり、部屋の隅にある古い木製の箱に向かった。
「協会は最近、特にブルジリアの魔法に関心を持っているようだな。特に、闇魔法についてね」
ハルは箱から古ぼけた書類を取り出した。レイモンドの顔色が一瞬変わった。
「協会は平和利用のための研究を—」
「嘘をつくな、レイモンド・クルーガー」
ハルが静かに、だがしっかり目を見据えている。
「もしくは、エレノア・ブラックウッド長官の密使と言うべきか。私は君が協会から送られてきたことを知っている」
部屋の空気が一気に張り詰めた。レイモンドは席から立ち上がりかけたが、ハルの落ち着いた態度に押されるように再び腰を下ろした。
「……どうしてわかったんですか」
彼は観念したように尋ねた。ハルはふと優しい表情になった。
「ヴィクター・クルーガーと同じ目をしているからだよ。君は彼の孫だろう。顔立ちは違うが、あの探求心に満ちた目は間違いない」
レイモンドは驚愕の表情を浮かべた。
「祖父を知っていたんですか?」
「ああ、彼は私の親友だった。そして戦友でもあった」
ハルはため息をついた。
「ブルジリア特殊魔導部隊の反乱後、我々は進むべき道について意見が分かれた。私は秘密を守り続けることを選び、ヴィクターは新たな魔法研究の可能性を信じた。彼が魔法協会の礎を築いたんだ」
レイモンドの顔に複雑な感情が浮かんだ。
「祖父は私に何も語りませんでした。ただ、いつか"最後の魔導士"を訪ねるよう言い残しただけで」
「そうか」
ハルは静かに笑った。
「彼らしいな」
二人の間に再び沈黙が流れた。外では風が強くなり、木々が揺れる音が聞こえた。やがてレイモンドが口を開いた。
「私の任務は、ブルジリアの闇魔法についての情報を収集することです。エレノア長官は、その力を現代の問題解決に活用できると考えています」
「そして君はどう思う?」
ハルは静かに、鋭く尋ねた。レイモンドは一瞬言葉に詰まった。彼の心の中では、相反する思いが渦巻いていた。協会での自分の立場、エレノア長官からの信頼、そして出世の可能性—それらは確かな現実だった。だが今夜知った真実は、その全てを疑問に付すものだった。
「正直、わかりません」
彼は静かに言った。
「知識そのものに罪はないと思いますが、闇魔法の力は……」
「人の意志を縛る魔法だ」
ハルは静かに言った。
「たとえ善意から始まったとしても、いずれは必ず悪用される。それがブルジリアの教訓だ」
レイモンドはハルをじっと見つめた。
「でも、あなたはその知識を持っている。最後の生き残りとして」
「そうだ」
ハルは重々しく頷いた。
「だからこそ私はここにいる。知識を保存しつつ、同時に封印するために」
「矛盾しているじゃないですか!」
レイモンドは食い下がった。
「そうかもしれないな」
ハルは微笑んだ。
「だが、歴史は繰り返す。いつか、また同じような危機が訪れたとき、誰かが真実を知る必要がある。しかし、その時が来るまでは……」
「秘密は守られるべきだと」
レイモンドが言葉を継いだ。
「そういうことだ」
二人は再びグラスを傾けた。レイモンドは自分の使命と、今夜知った真実の間で葛藤していた。彼は窓辺に立ち、夜空を見上げた。
祖父は何も語らなかった—なぜだろう?彼は胸ポケットから祖父の遺した懐中時計を取り出した。その裏には小さな言葉が刻まれていた。
『真実は時に隠されるべきもの、されど永遠に失われてはならない』
その言葉の意味が、今になって痛いほど明確になっていた。祖父は協会の方向性を懸念していたのだ。だからこそ、彼をここに導いた。選択をさせるために。
「私はエレノア長官に何と報告すれば……」
レイモンドは呟いた。
「何も報告する必要はない」
ハルは穏やかに言った。
「君の祖父は最期に私に手紙を残した。彼は協会が彼の理想から外れつつあることを懸念していたよ。だから君を私のところに導いたんだろう」
「まさか……」
レイモンドは愕然としたが、ハルは続けた。
「考えてみたまえ、なぜ彼は協会の若き有望な調査官である孫に、秘密裏に"最後の魔導士"を訪ねるよう言ったのか。それは選択をさせるためだ。真実を知った上で、君自身が決断するために」
ハルは再び手をかざし、小さな魔法陣を描いた。青白い光が部屋を満たし、一瞬だけ、若き日のヴィクター・クルーガーの姿が浮かび上がった。彼の目には、レイモンドと同じ探求心と、深い悲しみが宿っていた。
「彼は最後まで、正しい道を探し続けた。そして、その希望を君に託したんだ」
ハルは静かに言った。
レイモンドは黙って窓の外を見つめた。夜空には無数の星が輝いていた。彼の心の中では、協会への忠誠と、祖父の遺志、そして今夜知った真実が複雑に絡み合っていた。
「あなたは…この先もずっとここにいるんですか?」
しばらくして彼が尋ねた。ハルは首を振った。
「いや、「私の時間も長くはない。だからこそ、次の守護者が必要なんだ」
「私に、ですか?」
レイモンドは驚いて振り返った。
「選択は君のものだ」
ハルは静かに言った。
「協会に戻り、彼らの目的に従うこともできる。あるいは……」
「あるいは?」
ハルは立ち上がり、窓辺に歩み寄った。
「"カンパニー"の一員となり、知識を守る道を選ぶこともできる。どちらを選ぶにせよ、明日の朝までに決めるといい。最終馬車は正午に出る」
レイモンドは黙って頷いた。夜はまだ長く、彼には考える時間がたっぷりとあった。
翌朝、朝日が丘を照らし始めた頃、レイモンドは決断を下していた。彼は祖父の懐中時計を握りしめ、ハルの前に立った。
「私は協会には戻りません、真実を守る道を選びます」
彼の声は静かだが、揺るぎなかった。ハルは穏やかに微笑んだ。
「ヴィクターの孫らしい選択だ」
彼は古い木箱から一冊の本を取り出し、レイモンドに手渡した。
「これがブルジリアの記録だ。そして、"カンパニー"の真の目的を記したものだ」
レイモンドが本を開くと、その瞬間、ページから淡い光が立ち上り、彼の指先に吸収されていった。彼は驚いて手を引っ込めようとしたが、ハルは静かに首を振った。
「知識の継承の儀式だ。心配することはない」
光が消えると、レイモンドの頭の中には新たな記憶が広がっていた。闇魔法に対抗する術、失われた防御魔法の技術、そして"カンパニー"のネットワーク。
「これから君は長い旅に出ることになる」
ハルは言った。
「だが、一人ではない。仲間がいる」
その日、「最後の魔導士」の記憶は確実に次の世代へと受け継がれた。
そして、忘れられた国の真実は、新たな守護者を得たのだった。