1-7
「お待たせしましタ、ランマル君」
「あぁ、いや、全然…です。ハイドリッヒ先生」
「良いところですネ。ゆっくりした時間デ過ごせそうです」
「うん、確かにここは僕も気に入っています」
鴨川の河川敷も四条通り辺りは騒がしいが、今出川通まで北に行けば静かな雰囲気。日本に帰ってきたばかりで日の浅い蘭丸にとって落ち着ける数少ない場所。まだサッカーを始める前に親によく連れてきてもらっていた。 飛び石を使って対岸に行ったり来たりしている子供たちの姿が微笑ましい。 そんななかベンチに、えらく長身の白人男性と中学生男子が並んで座っていれば、少し目立つ。
「先生、これ、やっぱり返します」
バックから猿の手を取り出す。ハイドリッヒから蘭丸に渡された時より、厳重に梱包されていて、傍目には何が入っているかは分からないほど。
「…」
ハイドリッヒは何も言わずにそれを受け取った。
「…せっかく貰ったのに、なんか…ごめんなさい」
「…」
普段は神経質そうな顔付きをしているハイドリッヒにしては珍しく、穏やかな表情で猿の手を眺めている。
「…なぜ、これを使わなかったのか知りたいでス。使えばキミの足はなおっタ」
「…」
渡す時とは違い、この猿の手がホンモノであると蘭丸もわかっていることが前提の口ぶり。
誤魔化してもよかったが、蘭丸は本音を語った。
自分が上手く嘘をつけない性格だと自覚しているのと、たとえ何か思惑があったとしても選択肢を示してくれたハイドリッヒに対する蘭丸なりの筋の通し方だった。
「…たぶん足が治っても、俺は同じことをしてまた足をダメにするからだと思う。
あの日、あのボールに飛び込まなきゃ怪我せずにすんだんだけど…俺はストライカーだから。
あの時、あいつは俺なら飛び込むと信じたからパスを出してくれたんだ。
だから…それに応えなきゃいけないし、応えないなら、何かを…誰かを不幸せにしてまでサッカーをもう一度やれるようになったって意味がない」
出会って日が浅い菊次郎や桃はもちろんのこと、自分の母親にだって語ったことのない本音。
たとえ目の前にいるハイドリッヒの正体が誘拐犯だったとしても、蘭丸にとってハイドリッヒは日本に帰ってきてから初めて出会った心許せる相手だったから。
「よい答えです。…私はキミがこれを使わなかったことがうれしイ。キミのオモイ…アー、【イシ】を大事にした。私はコレをキミに渡して良かった。
…さてランマル君、これで君のセンセーとして、そしてトモダチとしてはお別れです」
ハイドリッヒが立ち上がると、先程までの穏やかな表情から普段通りの神経質そうな顔つきに戻った。
「この猿の手のテープの中に、何か入れましたね?」
「っ!…どうして」
菊次郎は猿の手に巻いたテープの中にGPS発信機を埋め込んでいたのだが、あっさりと看破されてしまった。
「ハハハ、私は昔の仕事でプロだったのデ。…機械が進化して小さイ見つけにくくなっても、使う人間ガ昔から変わらない。
それに川の反対側のベンチに座っている女性と、6時の方向のビルの屋上にいる男性。ランマル君の仲間ですね?
この後、私を追いかけようとしても、出来ないのであきらめろと、ランマル君から伝えてください」
ハイドリッヒがこのベンチに座ってから、周りの様子を伺う素振りすら見せなかったのに、菊次郎と桃の存在を言い当てた。対岸とはいえ一応視界には入っていた桃はまだしも、死角にいたはずの菊次郎まで。
「ハイドリッヒ先生、いったいこれから何を…女の人を誘拐までして」
「素晴らしイ、そのことまで理解しましたか。テストなら“A”です」
蘭丸の問いかけにハイドリッヒはあっさりと猿の手と誘拐事件は関連していたことを認めた。
「そうですね…私にもずっとやりたいことがあります。ただ…私はキミと違って、ボールに飛び込むことが出来なかった。眠る前に考える…何年も何十年も…」
「…そこまでしたいことがあるなら、どうして…、なんで【猿の手】を自分で使わずに、俺に渡したんですか?」
「実は私にはもう一つ”とっておき”があります。それに…それを使うのは、もうこりごりです。ではランマル君、これでシツレイ」
ここまで話すのは、蘭丸への敬意だという口ぶりで言い残し、京都の西日の中に溶けるように去っていった。
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「あぁ、くそ、やっぱりGPSの発信もなんか調子悪いな」
「尾行しても消えたり、また現れたりして散々からかわれたって感じ」
「本職だな、あの動きは。まったく何者なんだ、あの外人さん」
「だから追っかけてもムダだよって言ったのに」
"本職" うんぬんではなく、あれは人以外のナニかなのではと、本性を表したハイドリッヒと直接対峙した蘭丸は思っていたが、考えが子供じみていると思われるのが嫌でその可能性を口にしなかった。
「はぁー、また岡野のところに行かないと」
「菊ちゃん、嫌なの?オカちゃんのお店行くの」
「いや、あいつ自身じゃなく、客層がなぁ…」
「なにそれ、今からヤクザの店でも行くの?」
「いやいや違うよ蘭丸君、ただのトレーディングカードショップで、オカちゃんは菊ちゃんの同級生だよ」
「え、なら、なんで?」
「あー、なんと言うか、お世辞にも衛生的じゃないというか、端的に言うと匂いがな… というか、桃はなんで大丈夫なんだよ」
「匂いに関しては、剣道部で鼻が鍛えられちゃってるからなぁ。それに何回か行ってたら、慣れちゃった」
「えっ、お前、岡野のところに1人で行ってんの?」
「うん、オカちゃん、よくラーメン奢ってくれるし。それに常連さんもジュース奢ってくれたり、レアなカードくれたりするよ。私には価値がよくわからないけど」
「お前、そんな“姫”みたいなことしていたのかよ、いや、さすがに岡野が見ているなら大丈夫だと思うが」
桃は時折、こういう無自覚な性質の悪さを見せるときがある。菊次郎は桃の母親の片鱗を垣間見た気がして、少しいやになった。
誰にも見つからないように、人様に迷惑をかけないように、じっと植物のように過ごしていたのに、彼女たちはわざわざ暗い場所までやってきて、自分が血の通った人間だといやでも思い出させてくる。
これが胸元や足が良く見える服装をして、男にちやほやされたがるぐらいなら、まだかわいげがあるといえる。男の性欲と女の承認欲求を両方を刺激されwin-winだ。
だが彼女達のこれは双方的なものではない。一方的な気まぐれの施し。
こちらがカードやジュースを送ろうと、いや、たとえ現金を積もうとも、彼女達の心には響かない。何を貢ごうと『ありがとー』とフラットな気持ちで受け取るだろう。こちらの内面がどれだけ揺れ動かされようと、こちら側の行動で彼女たちの心に何ら影響を与えることが出来ない。自分が心のない植物ではないことを思い出させておいて、自分が相手の心に何も残せない空虚な人間であることを自覚させられるのだ。
「 “姫” ってそんな大げさな。あ、蘭丸君、カード要る?」
「いや、いいよ。猿の手より、なんか重そうだし」
「はぁ、よし、行くぞ」
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オーバーツーリズムで来日外国人がごった返す京都四条河原町、それでも少し奥の路地に入ればまだ人も疎ら。そんな狭めの路地の雑居ビルの1Fと2Fに居を構えるカードショップ「Monty Python」。
1Fにはショーケースが並び、厳重に保管されたカードがきれいに並べられて陳列されている。蘭丸くらいの中学生から、菊次郎をよりもだいぶ年嵩の中年まで、ショーケースが鼻息で曇るくらいの至近距離で、キラキラしたカードをキラキラした目で吟味している。
このフロアはまだいい。客層もまだマイルドだし、風通しもいいから匂いも少し警戒感を抱く程度。二階へと続く階段の踊り場くらいから、恐ろしくなってくる。
2Fはカードで対戦ができるようにテーブルがいくつか並べられているスペース。
匂いについては…ここでは描写はしない。書いている方も、読んでいる方も、描写されている方も、誰もいい思いをしないからだ。
菊次郎は口で息をしながら足早にフロアを突っ切った。匂いもそうだが、何人かいた客と桃のやり取りする様を見たくはなかった。
顔見知りのバイトの子に店長に用事があると伝えると、スタッフルームに通してくれた。いろんな段ボールが積まれたスペースのさらに奥にある店長スペース。
あまり広くないテナントにわざわざ自分だけのスペースをリフォーム工事までして確保してあるあたり、この部屋の持ち主の気質が表れている。
「岡野ー、入るぞ」
「あれ、紫、また来たの?モモちゃんも一緒だし、めずらしいね…知らない子もいるし」
岡野と呼ばれた細身の男は、ぼそぼそと聞き取りにくい声で3人を出迎えた。
「こいつは…まぁまた説明するよ。それより昨日、用意してもらったGPSなんだけど、ちょっと反応見てくれよ。通信は切れてないのに、範囲をぜんぜん絞り切れないんだよ、京都市内全部が対象になったままだ」
「え、昨日の今日で壊したの?けっこう高かったんだけど、ちゃんと代金は払ってよ…、うーん、なんだろ、これ?信号はキャッチできているから受信機側の故障じゃないし、発信機も生きてはいるっぽいね」
「やっぱ発信機は生きてはいるんだよな。…発信機は見つかっているはずなのに」
「まったくどんな相手に仕掛けたんだか…。あぁ、そうか、たぶん発信機を金属製の箱とかに入れてるんだよ」
「あー、なるほど、それで外に出る電波が弱くなってるんだ。…あれ、なんで壊さずに金属の箱に?」
「俺が知るわけないよ。とにかく警察用とか軍用のとかならイケるんだろうけど、民間人が手に入れることが出来るグレードだとこれが限界だね。あと昨日も言ったけど、警察沙汰になっても俺の名前は出さないでよ」
「わかってるよ」
「…いい歳こいて、中高生を巻き込んで何やってんだか」
「う、うるさいな」
同じく脱サラ組の岡野と菊次郎だが、片や自分の趣味を仕事にして一国一城の主としてアルバイトとはいえ数人の雇用を担っている実業家と、片や暇を持て余して中高生を従えて犯罪スレスレの怪しげな行動をしているニートだ。
菊次郎にとって中学以来のツレからの呆れの混じった目線よりも、背中に感じる桃と蘭丸の視線から何かが欠け落ちるのが怖かった。
「まぁまぁオカちゃんもそれくらいにしてあげて。今回は私がお願いしたんだよ。どうせ菊ちゃんのことだから、オカちゃんにろくに説明せずにGPSだけ用意させたんでしょ」
桃が菊次郎に代わって事のあらましを岡野に説明する。ただし【猿の手】関連の話は除いて。それを意味ありげな顔で聞く岡野。
「剣道部の女の子が行方不明ねぇ…」
「どうしたの、オカちゃん?」
「いや、紫、覚えてない?俺らが中学生の頃もさ」
「へ?何の話?」
「やっぱり覚えてないか…まぁあの頃、紫はあの人と一緒に世界中を飛び回ってたもんねぇ。俺と吉本先輩をオカルト同行会に置き去りにして」
「も、もう20年も前の話はいいだろ、いつまでも根に持ちやがって、それで何の話だよ」
「僕らの1個上の女バスの先輩が行方不明になったんだよ。今回と同じで、家出なんてしなさそうな子がいきなりね」
「えぇー何それ、何それ!その子はどうなったの?見つかったの?」
「いや、結局、帰ってこなかったよ。その時は警察も動いてくれたんだけどね。名前も今でもはっきり覚えてるよ、“若葉あかり”だ」
「あー、ちょっと思い出してきたかも。逆に岡野はよく覚えていたな」
「そりゃね、なにせ我らオカルト同好会の最大の事件だったから。吉本先輩と二人でね。紫に置いてけぼりにされたから、その間に二人で事件を解決して紫をぎゃふんと言わせてやろうって、吉本先輩が張り切っちゃってさ。
まぁ当時は何のスキルもコネもない子供2人だったから、何の成果もなかったけど」
「へぇー、お母さんが」
「昔の話だよ。モモちゃんの同級生はきっと見つかるから大丈夫だよ。そっちの子も…あまり危ないことはしちゃダメだよ。大人って君が思っているより無責任なもんだから」
「む…」
「大丈夫だよ、オカちゃん、私がいるからね」
「ほら、もう行くぞ、邪魔したな岡野」
三人は店長専用部屋を出た後は、店外まで足早に突っ切った。 外に出ればもう日も暮れた夜の7時。
「こういうお店初めて入ったけど、雰囲気とか嫌いじゃないかも。みんな真剣な顔してさ。…確かに匂いはきつかったけど。まぁクラブのロッカールームも同じみたいなもんだったし」
「そうでしょ、そうでしょ」
「あいにく俺はお前ら体育会系と違って、文化系のオカルト同好会出身でね」
「うふふ、なんだか今日はオカちゃんのアタリがきつかったね。それでどうするの?結局、GPSからは何もわかんないってことだよね?」
「そうだよ、おっさん。そもそも先生に渡す【猿の手】を偽物と入れ替えといたらよかったんじゃないの?本物を渡しちゃったから、先生と繋がる手掛かりはゼロだよ」
「いや、【猿の手】に関してはあれでよかったんだ。そもそもあいつにとって【猿の手】は自分じゃなく少年が持ってる方が都合が良かったから少年に渡したんだよ。
だから、今は“待ち”だな。きっと向こうからアクションを起こしてくるはずだ」
3人の誰の頭の中にも、勤め先の情報から家探しをしようだとか、ハイドリッヒの存在を警察に届けようだとかの真っ当な手段を取るという発想はなかったし、それを口に出して確かめ合うこともなかった。この時点で、3人がそれぞれハイドリッヒを尋常な存在とは認識していなかった。
「よし、じゃあまた3人でご飯食べにいこよ。蘭丸君は都合どう?」
「うん、俺も大丈夫。母さん、今日は夜勤だから」
「よし、じゃあ決まり!私、お好み焼きの気分」
「おい、財布役の俺の都合も確認しろよ」
「どうせ、菊ちゃんはいつでもOKでしょ。ダメだとしてもいいよ。蘭丸君、オカちゃんにラーメン連れてってもらお」
「わかったわかった。その代わり、場所はスーパー銭湯のお食事処だ。怪しい外人と追いかけっこして汗かいたり、匂いのキツイところにいったりで、まずはさっぱりしたい」
「俺、そういうところ行くの初めてかも」
「けっこう楽しいよ。私も異論なーし!行こ行こ」