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ある男の話をしよう。


1942年のプラハ、その男は38歳にして自分の人生に悩んでいた。


「40にして惑わず」と言うが、あいにく彼の国の言葉ではない。


彼の人生は傍から見れば、十分過ぎるほどに上手くいっていた(ある一面からみれば、ではあるが)。


音楽家の両親の元に産まれ、色々な才能にも恵まれていた。あまり美形の面構えとは言えなかったが、背も高く育ち、何事もそつなくこなすことができ、特に語学に秀でていた。


海軍の軍人としてキャリアをスタートした彼は、そのまま行けば提督と呼ばれ、何隻もの軍艦を率いる立場になっていたかもしれない。


だがそうはならなかった。


女性関係のトラブルを起こしてしまい、海軍を早々に不名誉除隊となった彼は、当時、彼の国で育ちつつあったイロモノ政党で働くことになった。


そのイロモノ政党はパブの酔っ払いぐらいしか口にしないようなことを声高に叫ぶ集団だった。


どの時代にもある泡沫政党。だが時代の気まぐれか、そのイロモノ政党が無視できない支持を獲得し、ついには政権を担うことになる。


さて彼はその政権のなかで、ある妄想、いや、偏執病(パラノイア)に関する計画の責任者となる。


彼は皆の頭の中にあやふやにしか存在していなかった計画をイベンターとして細かなところまで具体化して立案、そして実務者としてそれを恐るべきほど効率的に実行した。


その功績がみとめられ、彼はその政権の次世代を担う後継者としてみなされるようになり、美しき【黄金の街】プラハ、およびその周辺の工業都市群の実質的な管理者として任ぜられるようになる。


彼だって人並みの自尊心がある。大きな組織のなかで、大きな仕事を自分自身の才覚で成し遂げて、誰よりも早く出世したのだ。その高揚感がさらに前へ前へと彼を急かした。


そんな輝かしい日々のなかで、転機とも言うにはいささか何とでもない出来事。


政府から専用の公用飛行機を与えられていた彼は、プラハからの母国へのフライトの途中、ふと気まぐれにパイロットに操縦席を譲ってもらい操縦桿を握らせてもらった。


操縦桿をただ握るだけで、真っ直ぐ飛行機を飛ばすだけの数十秒間。その数十秒が彼を大いに悩ませることになる。


遮るものが何も無い視界、手から伝わってくる振動、エンジンオイルの匂い、プロペラの回転音。


当時の人類の英知の粋ともいえる飛行機が、古来より神様の領域であった大空を切り裂いて進んでいく。その楽しさ、ロマンを特等席で味わったのだ。それからの彼はまるで初めて恋を知った少年のようであった。


夜中の間に必要な書類仕事を終わらせて、日中の執務は最低限のみで済ませて、残りの時間は操縦桿を握り、地上を離れて操縦の練習に費やした。


睡眠時間なんていくら短くなっても気にならない。彼の人生でここまで夢中になれたものはなかった。彼が推進した例の大事業とさえ、比較にならない。


彼の上司や部下は、普段は彼

陰鬱で神経質そうな彼が年甲斐もなく熱中する様に呆れ返ったが、彼の本業が滞っているわけではないのであまり口出ししなかった(むしろ以前よりも、仕事に対してもエネルギッシュになっているかもしれない)。


さて、ここまでであれば、仕事人間が大人になってから趣味を見つけて、仕事もプライベートも充実した日々を送れるようになったという話とも言える。


だが彼にとって幸か不幸か、彼には飛行機のパイロットとしての素質が【そこそこ】あった。


これでからっきし才能がなければ、下手の横好きとして、彼もあくまで趣味として楽しんでいただろう。


しかし何事も人並み以上にこなす彼の器用さは、飛行機の操縦においても発揮された。宙返りやら背面飛行、簡単な曲芸飛行の技ならすぐにマスターして、メキメキと上達していった。


けれどもあくまで【そこそこ】。数ヶ月練習したところで、歴戦のエースパイロットどころか、中堅どころにもまだまだ追いつけない。


それでも【そこそこ】。数年続けることが出来れば、技能だけならトップ層に追いつけただろう。


だがそれではだめだった。彼はもう三十代後半。時代はまだまだ飛行機乗りに動体視力や反射神経など肉体的素養を求めていた。テクニックがピークに達する前に、身体がついて行かなくなる。


その事実に思い至った時、彼は歯噛みした。10年、いやせめてあと5年早く、飛行機に乗り始めていればと。


『何歳からでも新しいことを始めてもいい』


色んなところで見かけるフレーズ。確かにそうだし、人に希望を与えるいい言葉だ。だがいささか言葉足らず。『ただし、同じ場所からはスタートはできない』と注釈を付けなくては。


そもそも、海軍にそのまま残っていれば良かったのだ。そうすれば空軍に転籍して正規のパイロットとしてのキャリアを最小限の遠回りで20代の前半からスタートすることができたかもしれない。


彼が自分の人生の選択肢に疑問を持った時、彼が積み上げたこれまでの功績の全てが色褪せてしまった。路頭に迷いかけていた彼を拾い上げ重用してくれた党にさえ、逆恨みに近い感情を抱く始末。


現代日本でよく見かける新社会人向けの、ページ数も内容も薄っぺらいビジネス本に書いてあるようなことを参考にすれば、「出来ること(can)」と「求められること(must)」は一致しているが、「やりたいこと(will)」だけがズレていた。


それはそうである。周りからすれば彼は行政官として余人をもって変え難い人材であるが、誰も【そこそこ】のパイロットが1人増えることなど、さほど求めてはいないのだ。


もし彼が常人に近い感性を持っていれば、「あの時、ああしていれば、こうしていれば、こんな人生もあったかもしれない」なんていう感傷のほろ苦さを噛み締めながら、自分が選んだ人生を生きていっただろう。


だがやはり曲がりなりにも傑出した人物とはどこか理解し難い一面もあるのだろうか。彼は執務室から自分が支配する美しいプラハの街並みを眺めながら、己の人生の哀れさに涙まで流す始末であった。


そんな彼に二度目の転機。


彼の直属の上司に届けられるはずだった【猿の手】なる怪しげなアイテムがなにかの行き違いか偶然、彼の手元に届く。


その上司というのが、神秘主義、いわゆるオカルトに傾倒していることで有名な人物であった。リアリストである彼は上司のことを普段から影では馬鹿にしていた。


彼は元からオカルトどころか宗教的な要素を毛嫌いしている節があった。母親が厳格なカトリック教徒であり、彼にも信仰を強要しようとした反動かもしれない。彼は己の豊かな才能を自覚していたが、それ以上に自分自身の強い意志と断固たる行動で、自分の人生を切り開いてきたという自負があった。


彼の中で神に祈りを捧げたり感謝するという行為は、自分の人生に神の介入を許し、自分で成し遂げた功績にケチをつけるようなものだった。


だから、いくら叶えたい願いがあろうとも、こんな胡散臭い代物に跪くことは決してなかった。


しかし、彼の意志などとは無関係なところで、【猿の手】をきっかけに運命の歯車が動き出しかのように、彼の元に届いた次の日に彼の乗る車に爆弾が投げ入れられた。


そうして「鋼鉄の心臓を持つ男」や「金髪の野獣」と異名をとった彼は、爆弾テロにより呆気なく歴史の舞台から姿を消した。


さてこの事件には様々な疑問点があり、よく陰謀論者の話のネタにされているが、本題ではないためここでは触れない。


分かっていることが3つある。


1つ目、彼は1942年6月に、爆発による怪我がもとでプラハの病院で息を引き取ったこと。


2つ目、彼の上司が彼の死後、【猿の手】をくまなく探したが、見つからなかったこと。


そして3つ目、()()()()()3()()()()()()()1()9()4()5()()4()()()()()()()で彼の姿を見た者が複数いたこと。


ただ最後に関しては、混乱の極みであった当時のベルリンでの目撃情報など信憑性があるはずもない。



そして時と場所は移ろい、令和の日本、京都。


彼と同じ名を名乗るばかりか、【猿の手】を持って蘭丸の前に現れた男。


この男は一体、誰だと…いや、いったいナニだというのだろうか。


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「では今日の授業はここまでデス。テスト勉強を忘れないように。質問があれば聞きに来なさい」


陰鬱で神経質そうな雰囲気の外国人英語教師は、その印象に違わず、生徒たちの気の滅入る言葉で授業を締めた。


そんな教師が生徒に人気があるわけもなく、誰も彼に質問をしに行こうとすらしない。


いつもそうなのだろう。彼は特に気にする素振りもなく教室から去っていった。


今日の授業はこれで終わり。放課後になるや、部活に行ったり、友達と遊びに繰り出したりと皆、足早に教室から去っていった。


「…」


部活にも所属せず、まだ友達らしい友達もできていない蘭丸は、その様子を教室の一番うしろの席からじっと見ていた。この後、桃や菊次郎と合流する約束の時間までまだ少しある。



ラインハルト・ハイドリッヒ



スマートフォンでその名を調べれば、第二次大戦中の人物だということはすぐにわかる。歴史上の彼が何をしたのかも。スマホの画面に映る顔も似ていると言えなくもない。


しかし歴史上のラインハルト・ハイドリッヒは生きていたとしても、とうに100歳を優に超える年齢だ。30代ぐらいにしかみえない教師のラインハルト・ハイドリッヒはどう考えても別人だろう。


同じ名前だから顔も似ていると感じるのだろうか。


「紅君、帰らないの?それとも、転校してきてもう二か月も経つのに下駄箱までの行き方をまだ覚えてないの?」


「さすがにもう覚えたよ。そういう綾瀬は帰らないの?それとももう中二なのにまだ一緒に帰る友達がいないの?」


「サイテー。けど友達がいたら、クラスでも浮いてる転校生の紅君に話しかけないよ」


蘭丸が自分の席に座ったまま、思案にふけっていると、クラスメイトの綾瀬という女子生徒が話しかけてきた。


蘭丸は海外留学が長く、日本の中学校に特有のノリや文化、暗黙のルールに慣れておらず、クラスにも馴染めないでいた。さらに転校早々にクラスのリーダー格の男子と喧嘩騒ぎを起こして、もはや腫れもの扱いされていた。


そんな蘭丸に唯一話しかけるクラスメイトが綾瀬だった。彼女も彼女で、会話の端々に皮肉を言わずにいられないところがあり、クラスで浮いた存在だった。しかし蘭丸だけは少々エッジが効いた程度のシニカルな会話など留学先でいやでも慣れていたため気にも留めなかった。


蘭丸はどうも彼女に気に入られたようで、互いが互い同士、唯一まともに話す会話するクラスメイトとなっていた。


「あっそ。それはどうでもいいけど、ハイドリッヒ先生ってさ、どんな人なの?」


「どんな人って…紅君の方が詳しいんじゃないの?二人で話しているところ見た事あるよ」


「まぁそうなんだけど、綾瀬からみたらって意味で」


「そうねぇ、『陰気なドイツ人』なんじゃない?見た目や話し方や授業の仕方だったりのイメージ通り。なんだか珍しいよね、ほかの外国の先生は国籍問わずアメリカン♪って感じの陽キャだけど。いや、もちろん別に陰気なドイツ人がいても悪いわけじゃないんだけど、わざわざ遠い日本にまで来て、英語教師やるようなタイプじゃないよなーって


あとはやっぱり名前かな。クラスでも結構盛り上がったよ」


「…」


「顔の感じも写真と似てるっちゃ似てるもんね。けどこれも失礼な言い方だけど、私たちみたいな日本生まれの日本育ちには欧米人の顔って、正直、判別しにくいよね。向こうから見た日本人もそうなんだろうけど。


紅君はずっと向こうにいたから、やっぱり見え方が違うのかな?」


「…100年近く前の白黒写真と似ているかは別として、ハイドリッヒ先生は純粋なヨーロッパ系の顔じゃないと思う。たぶんアジア系の血が入ってる」


「ふーん、さすがのご意見ですねぇ。ふふっ、これが小説なら、不老不死になった本人かと思わせといて、実は子孫でしたーってオチのパターンのやつだね」


「なんだよそれ。もし先生が仮に子孫だとしてなんで、先祖の名前を名乗ってるんだよ?」


「私に聞かれても。クラスで盛り上がったって言っても、オカルトが好きそうな一部だけだしね」


「…綾瀬はどう思う?信じる?」


「まぁ、ほんとうにそうだったら、なんだかロマンがあっていいかもね。歴史上のラインハルト・ハイドリッヒがやらかしたことを考えたら、不謹慎かもしれないけど。そういう紅君自身はどうなの?ハイドリッヒ先生の正体について」


「俺は…、とりあえず自分で確かめてみるよ」


「ふふっ、なぁに?紅君も体育会系のくせにオカルト好きなの?かわいいところあるんだね。 結果がわかったら、私が聞いてあげる」


「…馬鹿にして、からかうなら教えない」


「もし本当なら、そんな面白い話、誰かに話したくて仕方なくなるでしょ?けど紅君、クラスで話す相手は私しかいないじゃない」


「教室の中だけが全てじゃないよ」


「紅君みたいにサッカーの有名人にそう言われると反論できないね。 まぁ小説と違って、現実には謎を解くべき事件なんて起こってないわけだしね。たまたま似た雰囲気で、たまたま同じ名前の人が、母国だと名前をからかわれるのが嫌になって、日本にやってきただけなのかもね」


もうそろそろ学校を出なきゃいけない時間。蘭丸は綾瀬との会話を切り上げて、席を立つ。


体育館からはバスケットボールの弾む音、グラウンドからはランニング中の掛け声、音楽室からは管楽器の音色。

放課後の中学校では、それぞれの青春が自分勝手な音を奏でている。決して調和など取れてはいない、不協和音。

しかし、蘭丸が将来、この中学校での生活を思い出すとき、思い出はこの能天気な不協和音の旋律と共に蘇るに違いない。


事件は起こっていない。そう、まだ何も起こってはいない、この中学校では。

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