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1-4

猿の手。


1902年、イギリスの 小説家 W・W・ジェイコブズ によって発表された怪奇小説に登場する、不思議なアイテム。


ロンドンに住む、とある年老いた夫婦と一人息子 の3人家族が、インド帰りの軍人から、願いを三つ叶えるという曰くつきのサルの手のミイラを受け取る。


面白がった息子は、物は試しと、家のローン残りである200ポンドを欲しいと願ってみる。


翌日。夫妻は、息子の勤める工場から彼が機械に巻き込まれて死んだことを知らされる。そして支払われた弔慰金は、“願い”通り200ポンドであった。


一人息子を亡くした母親は到底その運命を受け入れることはできず、息子を猿の手で生き返らせようとする。息子の無残な亡骸を目にしていた父親は妻を懸命になだめるが、彼女の必死の訴えを抑えることが出来ず、母親はサルの手に2つ目の願いをかける。


しばらくしたのち、夫妻は何者かが玄関をノックする音に気付く。


息子が戻ったと確信した妻は狂喜して迎え入れようとするが、恐ろしい結果を予感した父親は、妻が扉を開ける前に猿の手に最後の願いをかけると、ノックは止んだ。


さてこの逸話は「定められた宿命を変えるようなことすると痛い目に遭う」という教訓を与えるものである。菊次郎、蘭丸、桃の前に現れた猿の手は果たしてどんな願いをどんな風に叶えてしまうのだろうか。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「それでなんで俺の部屋なんだよ、『Indiana』に戻ればよかっただろ」


「いいじゃんいいじゃん、こっちの方が近かったんだし。それにしても、久しぶりに来たけど、相変わらず物は少ないのに生活感だけはあって、なんだか物悲しくなる部屋だね」


「…」


強引に来たにもかかわらず、失礼な桃の言いぶりに菊次郎は反論できず、口を噤んだ。つい先日TVで見た孤独死した老人の部屋の雰囲気が妙に自分の部屋の雰囲気と似ていて、気が滅入っていたところだったからだ。


オフィス街と住宅街の境目に建っている3階建ての雑居ビル。その3階のオフィス向けの物件に、わざわざ菊次郎は居を構えていた。


そしてそんな殺風景の30代独身男性の部屋に似つかわしくない、女子高校生と男子中学生。


(…今のこの部屋を見られたら、未成年誘拐になるのか)


桃も中学に上がってからはこの部屋には1人で入らせないようにしていた。外聞を恐れる独身男性の滑稽な自己防衛である。


「よーし、菊ちゃん、蘭丸くん。本題に入ろっか!もうそろそろ晩ご飯時だし、蘭くんのお家の人も心配しちゃうよ」


「別にいいよ、母さんは仕事だから、夜もどっかで食べるつもりだったし。…ほら」


蘭丸はスクールバックから包帯で何重にも巻き上げた物体を取り出して、テーブルの上に置いた。ゴトッという音から、その物体が硬く乾いているのが伺える。匂い消しだろうか、日本ではあまり嗅ぐことのないエキゾチックな香辛料のような香りが漂ってきた。


蘭丸が包帯を外していくと、毛むくじゃらの干からびた動物の手が現れた。3人とも動植物に詳しいわけでもなく、何の動物かは見当がつかず、ただ人間以外の霊長類の何かということしかわからなかった。


やはり形容するなら、猿の手のミイラとなるだろう。


「うへぇ、間近でみるとやっぱり気持ち悪いね、さっきはチラッと見えた程度だったけど」


「手の甲の二本の傷跡は最初からついていたのかい?」


菊次郎が指摘したように猿の手の甲に古い傷跡のような二本の線が深く刻まれていた。


「あぁ、これ?最初からついてたよ」


「…」


「それで蘭丸くんはこれに何を願おうとしたの?」


傷跡をじっと見つめながら黙り込んでいた菊次郎に対して、桃は本題に一足で切り込んだ。


桃の元々の気質として多少せっかちなのもあるが、彼女は他人の内面、テリトリーに踏み込んだ質問をするのが得意だった。 声のトーン、切り出すタイミング、表情。そして何より話し手が「言い出しにくいけれど聞いてほしいこと」と「聞かれたくないこと」の見極めが抜群に上手かった。


「…靭帯やっちゃってさ。手術でもどうにもならなくて。まぁ、そっちのおっさんが言ってた通りだよ」


「…」


菊次郎は人生で初めて言われた「おっさん」という単語に物申したくなったが、話の腰を折るまいと、一人静かにショックを噛み締めることにした。


「そっか。けど菊ちゃん、こういう怪しいアイテムって、結局上手くいかないのがお話の定番じゃない?」


「あ、ああ、そうだな。猿の手も逸話通りであれば『定められた運命を捻じ曲げると、痛い目にあう』ってのが、教訓だな。それでどうするんだ、少年、使うのか、それ?」


「え?」


「何、言ってんの!?菊ちゃん!ここは普通、止める流れでしょ!」


「いやいや、知らんがな。俺はその猿の手の危険性は伝えたし、それを分かった上なら少年が何を願おうと少年の好きにしたらいいじゃないか」


「それで蘭丸くんが大変な目にあったらどーすんの?!」


「いや、だから知らんがなって話なんだが…。少年がサッカーを取り戻すために何を犠牲にしても、…たとえ周りに不幸をばら蒔いたとしても、構わないってなら好きにしたらいいさ。『自ら不幸になる道を選ぶ権利』だってあるってことだよ」


蘭丸の気持ちなどは考えず、猿の手を取り上げるのが大人としての役割であり、義務だろう。幼稚園児が刃物で遊んでいたら誰だって取り上げる。そういう話だ。


菊次郎に子供がいれば、もしかしたら違う対応をしていたかもしれない。しかし、菊次郎にとって中学生といえば、去年までの桃しか例がいない。だから菊次郎の中で桃が基準となっていたのだが、桃は中学生の頃には妙にしっかりしていたせいか、菊次郎は中学生の蘭丸を明らかに過大評価していた。


「まぁ強いて言うなら、焦らず考えればいいってことくらいかな。悩む時間があるのも若者の特権さ」


「なにそれー。菊ちゃんのくせに妙に大人ぶっちゃって。蘭丸君の前だからってかっこつけてないー?」


「そ、そんなことはない」


「けどさー、そんな突き放した言い方するなら、わざわざ蘭丸君をここまで連れてこなくてよかったんじゃない?『勝手に不幸になってなさい』って見て見ぬふりしてさ」


「…俺はこの猿の手が、桃の同級生が失踪している件と関係していると睨んでいる…いや、確信している」


菊次郎にとって、自分の意思で妖しいアイテムを使って中学生の蘭丸がどうなろうと蘭丸の勝手だとみなすが、何かしらのトラブルに巻き込まれたであろう女子高生の失踪は見過ごせなかった。


自らの選択は自ら選ぶ。


菊次郎本人が自覚しているかは定かではないが、菊次郎のなかに染み付いた行動原理だった。


「し、失踪?なんだよ急にそれ、俺、知らないよ」


「そうだよ菊ちゃん、サオリちゃんは蘭丸君より背が高いし、蘭丸君に誘拐なんてできないよ」


「いや、そうは言ってない。直接的じゃなくても間接的にでも関わっているはずだ。そうだな…、そもそも少年に猿の手を渡したあの外人さんは何者で、何と言って渡されたんだ?」


「ハイドリッヒ先生?俺が通ってる中学の先生だよ。英語の先生だけどドイツの人で、俺も最近までドイツにいたから、よく話す様になってさ。


それで怪我の話にもなって、なんか旅行先でたまたま手に入れた願いが叶うっていう、猿の手をくれたんだよ。もちろん、俺も本気にはしてなかったし、先生も『気晴らしのおまじないだが、すこしでも君の心が軽くなるなら』って」


「へー、それだけ聞くと気遣いのできるイケオジって感じだね。どこかの無責任な無職とは大違い」


「…」


「まぁ、いい人だと思うよ。…で、先生が誘拐犯だっていうの?」


「さあな、今のところそこまでは。ただその猿の手は本物で、確実に失踪の件と関わっている確信がある。そして失踪の手掛かりは今のところなにもない。それなら、猿の手の件を足掛かりにしてみるしかないさ」


菊次郎は誘拐と言わず、失踪と表現した。行方知れずとなってからもう三日も経過したという。もうすでに全てが手遅れで、事は済んでしまった後なのかもしれない。その可能性をこの場で口にしないぐらいの分別ぐらいはあった。

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