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1-2

元号が令和に代わって何度目かの春。その男はいつものように満員の通勤電車に揺られていた。


彼は通勤時間がとても苦痛で苦痛で仕方がなかった。何も生み出さず、人生が浪費されていく焦燥感。周りを見渡せば自分より一世代も二世代も上のおじさんたちが死んだような顔を並べていて、いつか自分もああなるのだと見せつけられているようで辟易としていた。


だがそんな辛い時間も今日で最後である。そのせいか電車から降りる足取りも普段よりも心なしか軽やかに見える。


「おはようございます、紫さん」


「ん?ああ、おはよう」


不意に掛けられて声に彼が振り返ると、そこにいたのは同じ部署の後輩。いつも同じ電車に乗ってはいるものの、通勤途中に挨拶されたのは初めてだった。彼らの仲が悪いわけでは決してないのだが、勤務時間外にはお互い気付いていないふりをするのが暗黙の了解だと思っていた。


「いやぁ、今日が紫さんの最終出社日だと思うと感慨深くて、つい」


どうも菊次郎という男は、今日は気が緩んでいたのか考えが顔に出ていたらしい。


「引き継ぎもスムーズに済んだしな。心置き無く有休消化できるよ」


「今後はどうされるんです?隠居生活はまだまだ早すぎるでしょうに」


「まぁ時間だけはあるからね。のんびり考えてみるよ」


「独身だと選択肢がいっぱいあって、いいですね」


「あははっ、そうだな」


紫菊次郎(むらさき きくじろう)、33歳。この時、彼は明らかに浮かれていた。後輩からのちょっとした皮肉にも気付かないほどに。


春の心地よい陽気や風に舞う桜の花びらでさえ、自分の新たなる門出を祝福してくれていると勘違いする程に。


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「ふぅー…」


そこから2ヶ月あまり経った、7月の初旬。彼は暇を腐ってしまうほど持て余していた。いつか見ようと思っていた海外ドラマを一気見したり、いつか読もうと思っていた司馬遼太郎の長編小説を読んでみたり。


家を飛び出して、一人キャンプをしてみたり、温泉旅館に1週間ぐらい泊まってみたり。


そして出てきた感想はすべて同じ。「こんなもんか…」である。


齢30を超えれば、新しい感動体験を得ることなど難しくなるのかもしれない。


「おい、“菊の字”。ここ一週間、毎日うちの店に来て、毎日辛気臭いため息つきやがって。しかもブレンド一杯で長時間居座りよって。まったく貧乏くさい。お金がたまったから“ふぁいあ”とやらをしたんじゃないのか」


「貧乏くさいからお金が貯まって、“FIRE”できたんだよ。それにこの店は趣味でやってるみたいなもんでしょうに」


老年の店主が苦言を呈したように、菊次郎は馴染みの喫茶店に入り浸っていた。


関西有数の歓楽街、京都祇園。その中心部から北に歩いて10分ほどに位置するこの喫茶店「Indiana」。SNS映えするドリンクやパンケーキなどは提供していないが、主張し過ぎ無い程度に流れるジャズとゆったりと身を預けたくなる上等なソファでまさに「昔ながらの」といった雰囲気のである。


「まったく…。二宮君、後は任せるけど、こんな中年になっちゃいかんぞ」


「あはは、わかりましたマスター」


「二宮君は一回生だっけか…いいなぁ若いってのは」


「紫さんもまだまだお若いじゃないですか」


「時間はある、金銭的余裕も有難いことにある。それでも若さは戻ってもこないし買えもしないんだよなぁ」


大学生のバイトに絡んでいって、挙句の果てに年下に気を遣わせる。菊次郎が数か月前まで忌み嫌っていた中年の姿そのものがそこにあった。


そんなうだうだとした空気を非難するかのようなタイミングでドアベルが鳴り、そしてその音のように“鈴を転がしたかのような”というにはいささか元気すぎる声で新たな来店者が訪れた。


「おっ!菊ちゃん、やっぱり今日もいた!」


シックな雰囲気のこの店が想定している客層とは違うであろう、部活帰りの女子高生。メインの客層であるご老人たちに苦言を呈されやしないかと菊次郎は店内を見渡すが幸いなことに常連たちの姿はなかった。


店内には菊次郎たち以外には、店の奥に一組だけ。中学生ぐらいの男の子と、えらく長身の金髪の外人という妙な組み合わせの二人組。


「…」


訝しむ菊次郎だったが、自分たちもおじさん予備軍の自分(しかも無職)と、女子高生という組み合わせだったので、他人様のことはとやかく言えやしないと思い、気にしないことにした。


「二宮さん、私、メロンクリームソーダでお願いします」


「はーい、少々お待ちをー」


「おい、桃。奢るなんて一言も言ってないぞ」


「えー、けど私、お財布に200円しか入ってないよ」


「なんで高1にもなって、200円しか持ってないんだよ。というかそもそもそれで、喫茶店に入るんじゃありませんよ」


「うちの学校、バイト禁止だもん。それに部活あるから、バイトなんてする時間ないし」


「花の16歳が、女子高で剣道三昧なんてもったいないねぇ」


「なんか菊ちゃん、仕事辞めてから言い回しの“おじさんっぽさ”が増しちゃって、ちょっと気持ち悪ーい」


「うっ…」


勤め人時代はコンプライアンスというものをこれでもかと意識させられていたのだが、社会から二か月も離れれば世間ずれも生じてくるようである。


西田桃(にしだ もも)、高校1年生。菊次郎は彼女の母親と知り合いであり、桃とも生まれた時からの付き合いである。


「そうだ、この後、ウチに晩御飯食べに来てよ。お母さんも喜ぶと思うしさ」


「そんな思い付きでお邪魔したら、朱梨さんに迷惑だろ。遠慮しとくよ」


「えー、昔はよく遊びに来てたじゃん。うーん、しょうがない、ここで話すか。

ねぇ、菊ちゃん。ちょっと相談したいことがあるんだけど」


「なんだよ、改まって」


いつまでも子供だと思っていた桃が不意に見せた大人のような真剣な表情に菊次郎はたじろいでしまった。顔つきは彫が深く鼻筋の通っており、どちらかというと父親の顔がベースだ。しかし目だけは母親のもの、そのものであった。


菊次郎はこの目でじっと見つめられるのが苦手であった。桃が生まれる前から。


「菊ちゃん、今、暇なんでしょ。人探しを手伝ってほしいの」


「人探し?」


「ほら、この子。同じ剣道部の飯田サオリちゃん」


桃が差し出したスマートフォンの画面に映るのはポニーテールでスポーティーな雰囲気の女の子であった。


「三日前の部活終わりから家に帰ってないみたいなの」


「いやいや、ちょっと待て。話を勝手に進めるな。そんなのどうせ家出だろ。彼氏の部屋に転がり込んでいるんだよ」


「サオリちゃんはそんな子じゃないのっ!」


「お待たせしました、メロンクリームソーダです。桃ちゃん、仮に家出じゃないとしても、それは警察のお仕事じゃない?」


「そうだ、二宮君の言うとおりだね」


「警察にはとっくにご両親が相談済みだよ…。けど、“事件性”ってやつを示す証拠がないと、家出少年少女リストに登録されるだけで実際は何もしてくれないんだよ」


「なおさら俺に何しろってんだ」


「私だって、ただの家出だと思ってたんだよ。けどね、サオリちゃんが数日前から変な夢を見るようになってあんまり眠れないって言ってたのを思い出したんだ…。だからね、きっとこれは家出でも普通の誘拐でもないんだよ」


「おいおいおい…」


「モモちゃん…さすがに…。それこそ紫さんにオカルトじみた事を相談しても…」


「あっ、やっぱり二宮さんは知らないんだ。菊ちゃんは今はこんな暇を持て余した無職だけどね、その昔は…」


「おい、桃」


「…」


短くも明確な意図を込めた菊次郎の制止に、桃は次の言葉を継げなくなる。


「…僕、すこしバックヤードに下がってますね」


「なんだか気を使わせてすまないね、二宮君」


「いえいえサボってくるだけですから、マスターには秘密でお願いしますね。あとお客さんきたら呼んでもらえると助かります」


「ああ、ありがとう。…ふぅ、桃。そのサオリちゃんのことが心配なのはわかるけど、俺にできることは何もない」


「菊ちゃん…。けど、もしだよ。…もし本当に不思議なことが関係しているんだったら、菊ちゃん以外に頼れる人がいないよ」


「そんな不思議なことはめったに起きることがないから不思議なことなんだ。それにどちらにしろお前が安易に関わるべきことじゃない。不用意に関わった人間がどういう目に合うかお前もよくわかっているはずだ」


「…菊ちゃん」


「ほら、トイレ行って顔拭いてこい。早くしないとクリームソーダが溶けちまうぞ」


「うぅ…わかったよ」


「…はぁ」


桃が席を離れるや菊次郎は大きくため息をついた。自分の娘でもない桃に対して、偉そうに説きふせた自分が少し嫌になってしまった。もっと上手い話し方があったのではないだろうか。33歳で結婚も子育ても経験していない自分は、大人としての経験値不足しているのではないかと自己嫌悪を深めた。


婚姻率の下がっている今の日本ではそこまで気にする必要もないのだが、10代で桃を産んで、育てている彼女の母親を間近で見ていたためか、菊次郎は結婚もせずに一人気楽に生きている自分の生き方に、本人も気づかない内に少し罪悪感のような感情を抱いていた。


そうしていると店の奥にいた中学生の男の子と外人さんの二人組が席を立ち、会計するためにレジまでやってきていた。


「二宮君、お客さんお帰りだよ」


「はーい」


「あぁ、ドーモ。ありがとウございまス」


「いえいえ」


その白人男性の達者な日本語の使い方は、イントネーションこそ少し違和感があったが、彼が長期間日本で暮らしていることをうかがわせた。


「菊ちゃん、お待たせ。ごめんね、顔洗ったら、ちょっと冷静になれたよ」


部活に夢中だからか、それともまだ興味がないだけか、化粧らしい化粧をする習慣がまだない桃は豪快に水道水で顔を洗ったのだろう。顔や髪はさすがにきちんと水気を拭き取っているが、制服の襟元が濡れていた。


「いや、俺もちょっと言い過ぎたよ。悪かった」


「じゃあチーズケーキ追加でチャラね。二宮さん、チーズケーキお願いします」


「おいおい…さっきまでの殊勝な態度はなんだったんだよ」


ここら辺の桃の図々しさや切り替えの早さも彼女の母親譲りだろう。


「あ、そうだ。さっきまで奥のテーブルに座ってた外人さんと男の子の二人組だけど、なんか不思議な組み合わせだったね」


「そんなの俺らだって、他人から見ればそう見えてるかもしれんだろ」


「私たちは普通に仲の良い親子だと思われてるんじゃない?仕事辞めてからのこの数か月で、菊ちゃんちょっと老け込んだし」


「…」


菊次郎と桃は17歳差である。親子としてありえなくはない歳の差だが、菊次郎には受け入れがたいものがあった。


「あっそうそう、それだけじゃなくてね。私がお手洗いに行くときにちょうど見えちゃったんだけど、なんかサルのミイラの腕を外人さんが男の子に渡してたんだよ」


「…え?桃、今、何を見たって言った? おい、桃。本当にサルのミイラだったのか?見間違いじゃないのか?」


「えっなに?急に真剣な顔しちゃって…。 本当にサルのミイラかはわかんないよ、そりゃ。 けど毛むくらじゃらでカピカピに干からびてたし、そうなんじゃない」


「…」


「どうしたん、菊ちゃん?」


「二宮君、お会計ここにおいておくよ。桃、行くぞ」


「ちょ、ちょっと、待ってよ、菊ちゃん!」


「あの二人組…いや男の子の方を追いかけるぞ」


「なに、急に?私、チーズケーキまだ食べてないんだけど」


「お前の友達の捜索も手伝ってやるから、こっちを先に手伝え」


「ホントッ!なら手伝う!あの子をとっ掴えたらいいんだよね!」


「お、おい、あんまり手荒には…行っちまった」


まるで首輪を外されたドーベルマンのように数歩でトップスピードまで加速して少年の追跡を始めた。何故、見ず知らずの少年を追いかけるのか説明すらしていないのに彼女の足には一切の躊躇などない。


菊次郎と桃が店を出た時にはもう少年の姿は見えなくなっていたのに、一体どこを目指して全力で駆けだしたのか。


長いこと運動らしい運動習慣のなかった30代半ばの菊次郎ではとてもじゃないが追い付けやしない。諦めた菊次郎は近くの喫煙所に行き、一服しながら桃からの連絡を待つことにした。


「ふぅ…」


決してヘビースモーカーなどではない。気が向いたときに1,2本。吸わない日もある。だいたい一月で1箱のペース。なのに菊次郎はタバコとライターを手放せずにいた。


もう今年も早いもので半分が過ぎて、7月。蒸し暑いこの街で、野外での喫煙はもうそろそろできなくなるだろう。慣れた手つきで火をつけて、じりじりと短くなっていくタバコを見ながら思いを馳せる。


世の理から外れたもの。


それらは思いのほか我々の近くにあって、妖しい光でこちらを誘っている。


菊次郎もその昔、その光に見せられた一人であった。まるで誘蛾灯に群がる羽虫のように、追い求めて、痛い目を見た。


関わらないようになって15年近く。必死に目を背けてきたにもかかわらず、旧友のようにまた菊次郎の人生にそれらは現れた。


ちょうど一本目が吸い終わったあたりで桃からのメッセージが届き、タバコを灰皿に押し付け、菊次郎は桃のもとへと向かった。


『この世は舞台、人はみな役者。人は誰でも与えられた役を、舞台から去るまで演じなければならない 』


この言葉が正しいとすれば、菊次郎の前にまた世の理から外れたものが現れたことにも意味があるのだろう。

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