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1945年7月、太平洋戦争末期。時の米大統領ハリー・S・トルーマンは日本本土への上陸作戦、ダウンフォール作戦の発動前に、日本軍の反抗能力を喪失させるため新型爆弾の投入を決定する。
当初の投下目標の第一候補は京都。四方を山に囲まれた盆地であり、またそれまで大規模な空襲が行われておらず、新型爆弾の威力を検証しやすいからというのが選定理由であった。
しかし、直前にヘンリー・ スティムソン戦争長官がトルーマン大統領を直接説得し、京都を候補から外してしまう。
はたして戦争長官は何故、京都を候補から外そうとしたのか。
京都の壊滅は日本人のアイデンティティーを刺激し、戦後統治に支障をきたすと懸念したからだろうか。はたまた彼にとって京都は妻とハネムーンで訪れたことのある思い出の地だったからだろうか。
現代に生きる我々には当時の為政者の心情など知る由もないが、だからこそ荒唐無稽な陰謀論や与太話が、面白おかしく語られ続けているともいえる。
さてここでそんな与太話を一つお披露目させていただきたい。
時間を少し遡り、1945年4月。ドイツ第三帝国の帝都ベルリンがソビエト赤軍の猛攻によって、陥落寸前であった。その包囲網が完全に閉ざされる前に、ナチス高官たちが機密書類や欧州各地から簒奪した宝飾品、文化財とともに我先にと脱出を試みようとした。その多くが連合軍に捕縛されてしまったが、一部は南米の親独国家などに逃げ延びることに成功している。
この与太話の肝はここからである。そのナチス高官の中に同盟国であった日本の京都に逃げ延びた人物がいたらしく、そしてとてもとても「特別な文化財」を肌身離さず持ち込んでいたらしい。その情報を耳にしたスティムソン戦争長官はその特別な文化財が消失してしまうことを恐れたため、京都を新型爆弾の投下候補地から外すよう大統領に進言した理由なのだとか。
さて、与太話らしく、その人物の名も、「特別な文化財」とやらが一体、何だったのかも、肝心なところがわかっていない。
とるに足らない話だと一笑に付すのは簡単だが、逆に言えば想像の余地が多いに残っているともいえる。嘘を嘘と見抜くのも結構だが、あえて騙されるのも一興というもの。
これから始まる話もそんな寛大な心でお読みいただきたい。