誰が為の人生
雨が降る中、君が乗った馬車が動き出す。咄嗟に名前を呼ぼうとして、一歩足を踏み出した。ただそれだけ。
きっと馬車に打ちつける雨音で私の声なんて聞き取れやしない。大声を出しても、こんな雨じゃきっと聞こえない。だから、だから…。
わかってる。私に君を呼び止める資格なんてないことぐらい。
わかってる。呼び止める意気地もないことも。
全部わかってる。自分を正当化したって、何も変わらない。悪いのは全部私だ。
雨に打たれながら、馬車が通りを曲がっていくのを眺めていた。
図書室の窓辺の席に君はいた。中庭から図書室を見上げると、いつも君が見えた。一体あの子は誰なんだろう。いつからか君のことが気になって、中庭に行くたびに図書室を見上げていた。君が見たくて図書室へ行くようになったのはいつからだろうか。近くで見た君は、陽の光で髪が金色に輝きとても美しかった。それから何度となく図書室に足を運び、君をそっと盗み見た。
いつもの席に君がいなくなって数日、思わず学院の司書に君のことを尋ねた。
「あぁ、彼女はサリュ子爵令嬢のシシリーさんですよ。数日お休みされるとおっしゃってましたが、理由まではわかりませんね。来週には返しますと本を借りていかれたので来週には学院に来られるのでは?」
サリュ子爵令嬢?あぁ、あのサリュ子爵か。
サリュ子爵の領地といえば、領地の鉱山から宝石が取れるだけでなく、それらを素晴らしい貴金属に加工できる技術があり、国内外問わず取引を行っている。最近は珍しい宝石もとれることがわかり、さらに発展しているらしい。社交界でも名前を聞かないことはないぐらい有名で誰もがお近づきになりたい資産家一族だ。
僕は侯爵家の三男。スペアにもなれない、誰からも何も期待されない存在だ。王家に年齢の釣り合った子もおらず、側近になんてなれない。騎士になるか、文官になるか、平民になるか。
幼い頃は侯爵家の領地で代官をさせてもらえるのかと思っていたけれど、それは次兄が継ぐもので、三男の僕には関係のないことと領地にさえ滅多に連れ帰ってもらえなかった。
周りは侯爵家というだけで僕に忖度するけれど、実際の僕は無価値な人間だ。将来を約束された周りの嫡男や次男の学友が羨ましかった。どこかの家に婿入りさせるために夜会やお茶会に連れ出してもらえることもなく、本当に期待されていないのだと気づいてからは僕も両親に期待することはやめた。自分の将来は自分で切り拓かねばならないから、勉学も武道も頑張った。そうしないと僕は家族で一人だけ平民だ。兄二人は優しいが、爵位だけは兄たちにもどうしようもない。
彼女がサリュ子爵令嬢だと知って、複雑な気持ちを抱えた。もし「あの」子爵令嬢でなければ、何も持たないこんな僕でも見てもらえたかも知れない。この淡い気持ちをゆっくりと育て、図書室でいつか話ができたかも知れない。だけど彼女は一人娘だ。国有数の資産と資源を持つ子爵家の一人娘。僕が近づくことは純粋な好意だと受け取ってはもらえないだろう。それでもいい。彼女に僕を見て欲しい。
僕は本当の気持ちを押し隠し、両親に彼女との婚約を願い出た。両親はサリュ子爵と聞くと次兄への縁談としたいと渋ったが、なんとか押し切って侯爵家から縁談を申し入れてくれた。
いつも図書室で見ていた彼女と横に並んで図書室で勉強をする。それだけで僕は幸せだった。一つ上の彼女は頭も良く博識で、話をしてもとても楽しかった。領地経営にも携わっていた彼女を見て、子爵に願い出て僕も手伝いをさせてもらうようになった。長期休みは子爵と二人で領地に行き、自ら鉱山で宝石を掘り出す作業も手伝った。子爵も本当の息子のように可愛がってくれ、取引先や社交の際に連れ回してくれた。毎日が充実していた。初めて僕は生きているのだと、ようやく息ができた。必要とされることが自信に繋がった。
だから無自覚に浮かれていたんだろう。
僕のことを耳にした父から執務室に呼ばれ、婚約は次兄にすると言われた。
呆然とする僕に「単なる政略結婚だろう。お前は侯爵家の領地で代官でも務めればいい」とそう言って、出て行くよう促した。
「嫌です!僕は絶対にシシリーと結婚します。兄さんに譲りません!」
そう叫んでも、父はこちらを見ようともしなかった。僕は怒りに震え、すぐにサリュ子爵家へ行きことのあらましをシシリーと子爵に伝えた。
二人は驚いていたが、絶対に僕とシシリーの婚約は破棄させないと言ってくれた。
「シシリー、僕の話を聞いてもらえないかな。」
そう言って、僕は図書室にいるシシリーが気になって、図書室に通って盗み見ていたことを伝えた。シシリーと結婚したかったが、両親にいうときっと潰されるから「政略結婚」だと思わせて申し込んだ話をした。シシリーも僕と両親との関係には薄々気づいていて、僕の選んだ方法が正解だと笑ってくれた。
侯爵家から縁談相手の変更という「要望」があったが、家格は落ちようとも潤沢な資産を持つ子爵家の方が立場は圧倒的に強く、僕とシシリーの婚約は継続された。
季節外れの長雨が続いたある日、サリュ子爵家の領地で土砂災害が起こった。急ぎ現場確認に向かった子爵は、帰る前に立ち寄った鉱山の崖崩れに巻き込まれ、帰らぬ人となった。
「大丈夫。すぐに復興させるよ。卒業式までに戻るから、卒業したらすぐにシシリーと結婚しなさい。それまでシシリーをよろしく頼むよ。」
そう子爵は言って僕とシシリーを抱きしめて領地へ向かった。
僕の卒業まであと2ヶ月のことだった。
この国では貴族学院を卒業しないと成人とみなされない。女性にも継承権がない。卒業前の、単なる婚約者の僕ではサリュ子爵家を継げなかった。
幸い試験はいつも一番を取っており、必要な授業は履修済みだったので卒業試験の前倒しをお願いし、なんとか卒業資格がもらえないか学院に掛け合った。王家から許可が出たと知らされ、喜び勇んでシシリーに会いに行くとシシリーが泣いていた。
領地の被害が甚大で、その補償に資産のほとんどを使わなければいけなくなったこと。鉱山の一つを諦めなくてはならなくなったこと。残された家族たちに補償交渉を行うため、それに長けた人が必要になったこと。新規事業を控えていて、そちらにも人員と予算を割かねばならぬこと。多くのことが重なった。そこに漬け込んだのは我が侯爵家だった。
次兄と結婚すれば侯爵家が後ろ盾となり、領地も領民も使用人も守ると。僕だって侯爵家の三男だ。侯爵家は後ろ盾のはずだろう。だけどそうじゃない。僕と結婚したら、共同開発中の新規事業からも手を引くし、場合によっては契約不履行で訴えるかもしれないと笑顔で言われたらしい。
父の執務室に怒鳴り込んだが、侯爵家の決定に逆らうようなやつはいらないと相手にもされず護衛に私室へと閉じ込められた。
卒業式当日になって、ようやく部屋から出されそのまま学院に連れて行かれたが、皆の自分を見る目で何が起こったか感じとった。誰とも言葉を交わさず家に戻れば、僕の私室にあった荷物はまとめられ、すぐに領地へと出発させられた。
雨が打ちつける馬車の窓からシシリーが見えた。シシリーのそばに次兄が寄り添っていた。
わかってる。あの素晴らしい領地を守るにはこれが最善なんだと。
わかってる。シシリーを想うなら、これが最善なんだと。
わかってる。頭では。心がついていかないだけだ。
僕はいったいなんのために生きているのだろう。息ができない。