第9話 行き場のない想い
しばらく歩き続けていると、洞窟の向こうが眩しくなってきた。二人で並んで外に出る。
水に光が反射して、キラキラと瞬いていた。
アメリが感嘆のため息をついたのがわかった。水場が広がっていて、それを囲むようにランプが並べられていたのだ。
夜の暗がり、色ガラスの中に火が揺れていて、これは確かに幻想的だとノエも思った。
みんな靴を外側のタイルに置いて、水場を歩き回っている。ノエたちも持っていたランプを隣り合わせになるように置いた。すると代わりに麻紐を一本ずつ渡された。いくつもの色の糸が編みこまれているそれは、指で撫でるとざらりとした。
安泰に過ごせるおまじない──。
気休めだな、とノエはつまみあげた。
こんなものを腕に巻くだけで無事に生きていけるなら、誰も不幸になんてならない。この国に来る前のノエなら、ポケットに入れてそのまま忘れていただろう。
けれど今は願うくらい自由なんじゃないかと思ったり、思わなかったり。
「アメリ」
灯りを見つめている彼女がこちらを見る。緑色の瞳には何色もの光が反射して、きらきらと輝いていた。ノエは彼女の手首をそっと取った。女性にしては骨感のある華奢な手首だった。じんわりと温い肌に触れると、体温が少しうつるような気がする。
「じっとしていて」
ノエは自分の分を彼女に結び付けた。
落ちてしまわないように結び目をきつく引っ張って。
「俺よりあんたの方が必要でしょ」
そうしたい、と思ったときには自然と身体が動いていたのだ。いつもみたいな緊張感はなくて、むしろ不思議と落ち着いているくらいだった。
砂の国に自由はないし安全も約束されていない。明日何が起こるかもわからない。それでもアメリが笑っているならそれでいい。どんなことが起きたって、彼女がいつもみたいに笑ってくれるならそれで──。
ノエはわずかに目を伏せた。
たぶん嘘だ。
自分はきっと、彼女の何かになりたいと思っている。
彼女のなかで特別な一人になりたい。彼女から特別な感情を向けられたい。彼女に選ばれたい。そんな想いが日に日に強くなって、自分でも混乱してしまうときがあるのだ。
今だってそうだ。この美しい景色とともに、ノエがしたことを忘れないでほしい。
この先も一生。
こんな気持ち、彼女は気付いてもいないだろうけれど。
彼女は静かに手を持ち上げて、月明りに手首をかざした。麻紐のはしが風に揺れる。
「あなたの気持ちはとても嬉しいわ」
彼女はゆっくりと手を下ろして、今度はノエの手を握った。くるりと手首を返して、ノエがしたのと同じように、自分の分をノエに結び付けていく。手元がよく見えないのか指先はおぼつかない。手先はとても器用なはずなのに、もたつきながら、紐を交差させて結び目をつくる。
「あなたは本当に優しい子なのね」
「それは」
「けれど忘れないで。ノエが私を守ってくれるみたいに、私だってあなたを守りたいと思うのよ」
「…………だから俺は仕事なんだって」
「それでも」
彼女はノエの両手を優しく包みこんだ。
「いつかそのときが来たら、私があなたを守るから」
その言葉は慈愛であったし、決意でもあった。
ノエは少しだけ笑う。やっぱり自分は子どもだと思われているのだ。そんなことでいちいち傷つきたくはなかったのに、思えば思うほど惨めになる。もしかすると一生このままなのかもしれない、と想像してしまうから。ノエが何歳になっても一生──。
触れているアメリの手は温かった。ほんのわずか力をこめて握り返す。ぼんやりとした明かりに照らされて、彼女の頬が赤くなっていることに気が付いた。
「アメリ?」
思わず彼女を呼んでいた。手を引っ張ってぐっと身体を寄せる。顔が近づく。
わずかに漂う甘い香り。
「アメリ、もしかして──酔ってる?」
嫌な予感がして、短く訊く。彼女はわざとらしく目を逸らした。
「…………なんのことかしら」
「酔ってるよね?」
もう一度はっきりと訊く。アメリは白々しく「ほら見て、あっちもランプの灯りが綺麗よ」と指差した。
「あれは街灯だし、めちゃくちゃ虫がたかってる」
ノエは白い目を向けた。さっきから足元も手元もおぼつかないし、やけに手が温かいなと思ったら、アルコールが回っていたのだ。仕方のないものを見るような目で見ていたら、アメリが「違うの!」と声を上げた。
「お店の人が勧めてくれたし、とても甘くて美味しかったの」
「とりあえず何が違うのか説明してもらっていい?」
ちょっと目を離した隙にこれだ。のんきなのは構わないけれど、少しくらい自分の立場に危機感を持ってもらいたいものだ。今のところ、とてもじゃないが軟禁されている人間の態度とは思えなかった。ノエは大きなため息をついて、大時計を見やる。
「もうじき刻限だ。そろそろ帰るよ」
アメリは名残惜しそうにしながらも、水場を出ていく。足を拭いてから靴を取ろうとして、けれどその手がピタリと止まった。
「あっ」
「なに?」
「……靴、片方落としてきちゃった……」
ノエはそろそろキレてもいいんじゃないかと思った。