第8話 水の洞窟
砂の国には一年の真ん中、夏に祭りをする風習がある。
半分を無事に過ごせたことを感謝して、もう半分の幸せを願うために。誰もが盛大に祝う日で、昔からとても大切にされている一日だと聞いていた。
日が落ちて、薄暗くなりはじめる。あたりは群青色だった。大通りはいつもよりもにぎやかで、ずっと笑い声が響いていた。ノエは街中の壁にもたれかかって、かかとで地面をたたく。
表からは独特の香りが漂っていた。どの店も酒を売っているのだ。馬の乳を混ぜこんだ酒らしく、何人もがカップを受け取っているのが見える。ノエも何回か声をかけられたけれど、いざというとき酔っ払っていたら話にならないので断る。
「お待たせ」
すぐそばの建物から出てきたアメリが、もじもじとしながらノエの近くまでやってきた。
彼女は黒いワンピースドレスを着せられていた。絹で織られているそれはわずかな明かりでつややかに光る。いつも後ろで一つに結んでいる髪も、綺麗に結い上げられていた。銀の髪飾りもついて、とても清楚だ。
ノエはぼうっとしたまま彼女を見ていた。
いつもだってそうだけれど、今日はいちだんと──。
「どうかしら。変じゃない……?」
黙りこんでしまったノエに、彼女は両手をきゅっと握る。駄目だ、なにか言わないと。脳内ではさらっと褒めるシミュレーションが完璧に行われていたのに、現実のノエの声は若干ひっくり返っていた。
「に」
「に?」
「似合って」
「似合って?」
彼女がにじり寄ってくる。
ぐっとつばを飲みこんだ。そのときノエは意を決したのだった。
「似合って……ないこともない……」
アメリは「よかった。似合っていないこともないのね」と満足そうにうなずいた。
どうして自分はこうなのだろう、とノエはがっくりと肩を落とす。出だしから最悪だった。ちなみに調子が良かったときなんて一度もない。
彼女は「そろそろ行きましょうか」と街の下を指さした。街は令学院からゆるやかな下り坂になっていて、人波は下へと向かっているのだ。二人も人にまぎれるように並んで歩いていく。しばらくしてノエは舌打ちをした。
「後ろ、ずっとついてきてる」
アメリは顔だけ振り返った。もうすっかり見知った顔の世話人が、数メートル離れたところから追いかけてきているのだ。
アメリと視線が合うとにこりと微笑むから、アメリも会釈していた。そういうことをするからつけ上がるんだ、とやや八つ当たりをした。たぶん関係はない。
「本当だわ、よく気が付くのね」
「そりゃ、それが俺の仕事だし」
なんでもないことのように返しつつも、悪い気はしない。機嫌のメーターが戻ってきたので、ノエはできる限りあの男を空気だと思うことにした。
「まあ、さすがに見張りくらいつけるか」
「でも許可が下りるなんて信じられないわ。私、ずっと出られないと思っていたのに」
「……あんたを毛嫌いしてるのは、政治をしている人たち。令学院そのものはたぶん、というか確実にアメリに興味がある。それはアメリだってわかってるでしょ。お忍びで学者たちが顔出しにくるし、黙認もされているし。だから条件はそんなに悪くなかった」
「だから今日を狙ったのね?」
「この日は一番大事にされてるらしいから。パワーバランスが崩れるんじゃないかと思った」
ただの予想で、願望こみ。今回はたまたまノエの思い通りに転んだだけ。けれど一度でもそういう日があれば、後々のためになる。『許されたことがある』のと『ない』のとでは大違いだ。
「儀礼に参加するだけっていう条件付きだけどね」
坂道を下ると、一本の長い洞窟があった。
ずっと遠くまで続いていて、中は暗い。人はランプを持ってどんどん中へ入っていく。
「ここに行けって、令学院のじいさんから聞いてたけど」
「どこへ続いているのかしら?」
二人は顔を見合わせる。そもそも祭りの作法がさっぱりわからない。ノエが聞いていたのは、アメリの礼装を用意してくれる店と、道筋だけだ。するとアメリは後ろを振り返って「世話人さん」と呼びかけた。
「これからどうすればいいの?」
彼女はときどきノエの予想を簡単に越えて、ぶっとんだことをする。人なんて山ほどいるのに、どうしてよりによって彼に訊くのだ。
さすがの彼も驚いたようで、「はい?」と不思議そうな顔をしていた。けれどすぐにいつもの薄っぺらい笑みを浮かべると、二人のもとまで歩いてきた。
「入り口に立たれている方から、ランプを一つずつお受け取りください。そして洞窟を道なりに進みます。中ほどから水が張っておりますから、靴は手でお持ちになるとよいでしょう」
「ええ」
「五分ほど歩きますと、外へ出ます。ランプを所定の位置に戻していただきますと、代わりに麻紐を受け取れます。それを手首に巻かれますと、年の終わりまで安泰に過ごせると言われております。古くからのおまじないのようなものでございますね」
アメリはうんうんと頷きながら聞いていた。存外丁寧に説明してくれたので、ノエは「どうも」と口だけ礼を言ってから、「どっか行け」と手で追い払った。本音は後半にしかない。
無意識のうちに睨みつけてしまう。彼はアメリに呼びつけられたから、わざわざ近づいてきただけなのだが、特に不満そうではなくて、むしろちょっと面白いものを見たような顔で去っていった。
洞窟の空気はひんやりとしていて、少し重たい気がする。ランプにはたくさんの装飾がされていて、アメリは綺麗ね、と笑った。ノエは足元を照らすように下ろして、彼女の半歩前を歩いていった。
彼の言っていた通り、途中から水がたまって奥の方まで静かに流れている。この水はどこから来るのだろうとランプをかざすと、隅のあたりから自然に湧き出しているのが見えた。ノエは「靴貸して。持つから」と左手を伸ばした。
「絶対落とすでしょ」
「一応訊くけれど、私のこといくつだと思っているの?」
「二十四歳児」
「惜しいわね。最後だけがちょっと余計」
彼女は少しふらついたから、壁に手をつきながら靴を脱ぐ。
「子どもはあなたよ、ノエ」
「……八つしか違わない」
「あなた十六歳でしょう。人生の半分じゃない」
言い返す方法が見つからなかったので、自分の靴は自分で持つことになった。
昼間はあんなに汗をかいていたのに、今では足が水に濡れて肌寒いくらいだ。足首まで浸かっていて少し歩きにくい。足を大きく上げて、じゃぶじゃぶと音を立てながら進んでいく。「寒くない?」と訊くと、アメリは「ちょうどいいくらい。さっきまで少し暑かったの」と答えた。
「ノエはこのあたりに来たことがある?」
「近くまで買い物で行ったけど、こんなに大きい洞窟があったのは知らなかった」
「街で遊んだりはしないの? 食べる店がたくさん並んでいるし、劇場もあると聞いているわ。自由に使えるお金だって渡しているのに」
「俺はいつでも仕事中」
「もう、拗ねたようなことばかり言って」
アメリは仕方がなさそうに返した。思ってもいない返事だったから、ノエは水に足を取られてつまずきそうになった。
「拗ね…………誰が?」
「もしかして気が付いていなかったの?」
今度はアメリが驚いたように言った。
思わず顔を見合わせて、お互いなんでそっちが驚いているんだという目で見つめあう。しかしどちらも譲らなかったので、二人して釈然としないまま退くことになった。
心の中で拗ねてるってなんだよ、と呟く。
誰がいつ、そんなことを言ったのだろう。まったく身に覚えがない。なのにその言葉が妙に引っかかって、考えこんでしまう。アメリは「ごめんなさい、あなたを悪く言ったつもりはないのよ」と慌てて付け足した。
「ほら、ちゃんと前を見て歩かなくちゃ駄目よ。転んだら悲惨だわ」
「あんたから言い出したくせに」
深く考えるのはやめることにしたが、やっぱり釈然としなかった。