第6話 私の傭兵さん
しかけるなら今しかない。
ノエはそろそろしびれてきた右手の指を曲げた。くいっと、左側に。
「————」
アメリは二度瞬きをした。彼女だって状況は理解しているけれど、それが危険な賭けだということもわかっている。一瞬戸惑ったみたいに首を横に振ったので、ノエは軽くにらんだ。
アメリだってああまでして持ち出した本を捨てるつもりはないはずだ。数秒たって覚悟を決めたのか、唇を固く結び——そして小さなうなずきを返してきた。
「っ、ノエ!」
彼女は後ろに身体をひく――逃げるみたいに。
男がはっと振り返る。けれどそこには一歩分の距離があって、ナイフの切っ先はかすらない。男だって間抜けではないから追いかける。アメリはもう一歩下がる。さらによろけてもう一歩。
ふりかざされたナイフは差しこんだ日の光を反射して、ギラリと輝いた。
アメリは両目をぎゅっと閉じていた。
もう駄目かもしれない——そんな顔で身体を縮こまらせている。逃げたいのに逃げられない。
けれどナイフが彼女の肩を切り裂くその瞬間、ノエは二人の間に割りこんでいた。隠していた短剣を引き抜いて宙にかざす。金属音がして小さな火花が散った。
「ほら、これでイーブン」
ノエは動揺を押し隠すようにいつもの調子で言った。敵には焦りなんて少しも見せない。青い顔をしたアメリが、子どもみたいにノエの服をぎゅっと引っ張ってきた。
「今、人生の思い出を振り返っちゃった……! 昨日のお夕飯とか!」
「直近すぎない?」
二人には事前に取り決めていた合図がいくつかある。
今のはその一つで、後ろに下がれという意味だ。
これで人質はこちらの手に渡ったけれど、足手まといには変わらない。お互いに武器を持ってにらみ合う。じりじりと動きながら距離を保つ。ノエは片手を広げてアメリをかばい、背中越しに声をかけた。
「俺の後ろにいて」
「わ、私どうしましょう。ティーポットとか投げましょうか!?」
「言い方を変えるよ。すっこんでろ」
ノエにクリーンヒットする未来しか見えなかったので、頼むから黙って立っていてほしいと思った。彼女は少しずつ後ろに下がって、ノエたちから離れていった。
さすがに本を奪うことはできないとわかったのか、男は窓の方へ後ろ歩きする。たぶん今日のところは諦めるつもりだろう。そうだ、そのまま出ていけ——ノエが心の中で呟いていると、男の手が机にあたった。
「っ!?」
足元に落ちてきた、赤い革表紙の本。
床で小さくはねてゴトッと物音をたてる。三人の視線はそこに集まっていた。瞬間、緊張の糸がピンと張る。
「触るな!」
ノエは大きく一歩踏み出した。けれど男はすぐさま拾って、窓へ走っていく。本を抱えたままで窓から抜け出すと、裏庭の土を踏み荒らしながらまっすぐに逃げていく。
逃がすものか、とノエも窓枠に足をかけた。ここで逃したらもう後がない。男と同じように窓の向こうへ行こうとして、けれどすぐ後ろで人が倒れこむような音がした。さっと背筋が凍りついて、振り返る。
「アメリ!」
彼女は床に座りこんでしまっていた。柔らかな布のスカートが広がっている。
どこか怪我をしているのかもしれない。追うか、追わないか——一瞬迷ってから、ノエは短剣を捨てて駆け寄った。彼女の目の前にしゃがみこんで、両肩をぐっと掴んだ。
「どこが痛い?」
「…………腰が」
「腰?」
さっと目を向ける。
彼女は上ずった声で続ける。
「腰が抜けて、立てない」
ノエは思わず「は?」と聞き返してしまった。意味が分からなくて、「腰が抜けて立てない?」と棒読みで繰り返す。アメリはこくりと力なくうなずいた。
さっきまで平気な顔していたくせに、と唖然とした顔で彼女を見てしまう。何かの冗談かと思ったけれど、本当に立てないらしく、目を伏せたままで苦笑いをしていた。
しばらく呆気に取られていたノエは、「先に言ってくれない?」とぼやいた。
「さっきまでのお気楽さはどこに行ったんだよ」
ノエは盛大にため息をついた。安心感とか呆れとかいろいろな感情が入り混じって、もうどうでもよくなってしまって、その場に座ってしまう。
そもそもノエが戻るまで、彼女は一人で強盗とやりとりをしていたはずだ。いたって堂々と。たぶんノエがいなくても、あの調子で何とかやり過ごしていただろう。なのに今さら腰を抜かす理由がわからなくて尋ねると、アメリはへらっと笑った。
「時間稼ぎよ。上手にできていたでしょう?」
「なんの時間を稼いでいたわけ?」
彼女はとても不思議そうに小首をかしげる。
そして右手を伸ばした。縋るみたいにノエの服の裾をつまんで言う。
「あなたが帰ってきてくれるのを待ってた」
待っていたのよ、とアメリはもう一度言う。
「俺を? なんで」
「だってあなたならきっと助けてくれるって、信じていたんだもの」
ノエは吸った息を吐きだせなかった。
優しく細められた目尻。当然のことのように言い切った彼女の目には疑いなんて少しもなくて、ただただ信頼だけがこめられていた。
「そうでしょう、私の傭兵さん?」
そんなことを言われるなんて思ってもいなかったのだ。
ノエはうわごとにみたいに繰り返した。息をのむ。胸の奥で心臓がドクンと動いたのが自分でもわかった。ノエは何か言わなければと口を開こうとしたけれど、ろくな言葉が出てこなくて、唇がぱくぱくと動く。
頭がじんわりと痺れていくような、奇妙な感覚だった。
こんな気持ちをノエは知らなかった。
今になってアメリの手が小さく震えていることに気が付いて、恐る恐る握ってやる。彼女は小さく目を見開いて、それからちゃんと握り返してきた。たったそれだけのことにすらノエの心は動いていた。
本を奪われてしまったことに変わりはないけれど、アメリは「別にいいのよ」とたいして気にした風ではなかった。その理由はすぐにわかる。彼女は古びた紙をつまんで、ぴらりと見せた。
「本を解体して、一番欲しかったページだけ抜き出しておいたの」
ぬかりないな、とノエはこぼした。
夜な夜なペーパーカッターを使って何かしていると思っていたら、本をバラしていたらしい。最初にのりや糸を頼んでいたのもそのためだったのだ、と今さら気が付いた。
強盗に押し入られたことは世話人にも伝えた。
彼は「わたくしという者がそばについていながら。失態をお許しください」と頭を深々下げてくる。状況が状況なので神妙な顔をしていようと思っていたのに、あんまりにも白々しかったから、ノエはうっかり鼻で笑ってしまった。
「まあ嘘も吐き続ければ真実って言うし?」
さようでございますね、と彼は目を細めた。
少しくらい反省した顔をしろよと思った。