第4話 二人きりの夜
夜中、なんだか眠れなくてベッドで仰向けになったままで目を開く。少しもまどろんでいなかったので、諦めて起き上がってみることにした。喉がカラカラに渇いている。居間で水でも飲んでこようかと、暗がりのなか手探りで靴を探した。
音をたてないようにゆっくりと廊下を歩いていく。すると居間の扉はうっすらと開いていて、一筋の光が伸びていた。ランプのオレンジ色の光だ。
「──?」
静かに覗きこんだ。部屋の中にはアメリがいて、いつものように机に向かって何か作業をしている。夜は冷えるからガウンをはおっているものの、昼と変わらない後ろ姿。髪も邪魔だったのかまとめている。
何をしているのかはわからないけれど、ナイフで紙を切っているように見えた。
アメリは日中だけでは時間が足りないらしい。
あまり寝ていないのに、いつだってきらきらとした目で研究をしていた。
そんなに夢中になれるものがあってうらやましいな、とノエは思った。
半分は嫌味で、半分は感心だ。
その研究のせいでひどい目にあって、こんな場所に追いやられて、それなのにまだやめようともしない。自分にはとてもできそうにない生き方だ。
「わっかんないなあ──」
誰にも聞こえないような小さな声でこぼす。
ノエは生まれてすぐに親に捨てられた。
そのまま死んでしまうはずだったけれど、たまたま傭兵団に拾われて、この歳になるまで生きてきた。いろいろな国を渡り歩いて仕事をして、食事にありついて、寝て、そんな毎日の繰り返し。愛されるべき家族ではなく、一人の労働力として生かされてきただけだ。
まあ言葉ほど悪いものじゃなかったな、とも思っている。
産声をあげたばかりの自分を捨てるような人間と暮らさずに済んでいるのだし。仕事が上手くいけば美味しい食事が与えられて、昼間から遊びに出かけることもできた。そうやって一日をのらりくらりと消費してきたのだ。
だからこそアメリのことがわからない。
そんなに必死になって、何になると言うのだろう。
「……ノエ?」
ギシッ、と床のきしむ音が響いた。ノエはとっさに足を浮かせたけれど、今さらだった。アメリは勢いよく振り返って、扉の向こうに立っているノエを見ていた。
「違う」
ノエは反射的にそう言った。言ってから、何が違うのだろうと考えた。
「違う。その──のぞきじゃない」
まごうことなきのぞきだったので、言えば言うほど分が悪くなるだけだった。ノエは真顔で押し切ろうとする。その甲斐あって、アメリは「えっと……そうね?」と誤魔化されていた。
彼女は手に持っていたペーパーナイフを机の上に置いた。カタンと小さく音がする。
「眠れないの?」
「…………別に」
「少し私と話していくのはどうかしら。ちょうど話し相手がほしいと思っていたところなの」
「それは傭兵の仕事?」
「いいえ、学者からのお願い」
ノエは数秒ほど考えてから、扉の向こうに足を踏み入れた。そのまま真っ直ぐにソファに行ってどかっと腰かけた。
ホットミルクを飲みましょう、とアメリが立ちあがったのを黙って見送る。しばらくするとキッチンから甘い香りがただよってきた。ハチミツを少したらしたのだろう。両手にカップを持った彼女は、片方を差し出してきた。
「温かいうちにどうぞ。世話人さんからいただいた、ラクダのミルクを使ってみたの。市場にはたくさん売っているそうよ」
「ふうん」
「そのうち私も外に出られるといいんだけれど──」
彼女は窓の外を見ていた。少し困ったようではあったけれど、いつもみたいに笑っていたから、ノエはカップを膝の上に乗せた。ゆらゆらと上がる湯気を見ながら、ノエは静かに息をする。
彼女の言うそのうちは、きっと来ない。
彼女がそれを知らないはずがなかったのに。
「あんたは」
なんで笑っていられるんだ。
言いかけて、やめる。
「……あんたは、理不尽だと思わないの?」
彼女のことは気に食わないが、けれど彼女が悪いわけではないこともわかっていた。歴史学者としてただ研究をしていただけで、ノエの方がよっぽど罪深い生き方をしてきたくらいだ。
なのにアメリはすべて奪われて、こんな場所に閉じこめられている。誰だって理不尽だと叫びたくなるはずなのに、彼女は取り乱したりせず、いつでも微笑んでいて──。
「強くありなさい、とお父様がおっしゃったのよ」
彼女はノエの方を向いた。横髪がさらりとなびく。
「人としての矜持を保ち、強くありなさい──私はその教えを守っているだけ。今までもこれからも、ずっと。本当にそれだけなの」
父親の顔なんて知りもしないノエには響かない。
アメリはホットミルクを一口飲んだ。息をついて、「冷めないうちに飲んだ方が美味しいわ」とうながした。ノエはふうふうと息を吹きかけてから、カップに口をつける。やっぱり甘い。
「私がどんな研究をしているか、知っている?」
「あんまり」
「私は古代ルディア語の解読を進めているの」
彼女は机の上に散らばっていた本のなかから、赤い革表紙のそれを手に取った。親指でぺらぺらとページをめくる。小さく手招きをされたから、ノエはゆっくりと腰を上げた。彼女の隣に立って覗きこむ。
「これが古代語よ。私たちの国の文献は、古くなればなるほど古代語で書かれているの。だからこの文字が読めれば、とても昔のことがわかるのよ」
「解読ってことは、まだぜんぶは読めないわけ?」
「九割は終わった」
ランプの火がゆらゆらと揺らいだ。手の影が落ちる。
「でも残り一割、それがいまだに明かされていないわ。古代語はとても複雑な言語で、何人もの学者が挑んできた。けれど今読めるのは私だけ──だから私が最後まで解き明かしたいの」
ふうん、といつもの返事。想像していたよりもアメリが天才であるとわかったけれど、そもそも歴史になんて興味がないので、価値がさっぱり理解できない。
それからふと疑問が浮かんだ。
古代ルディア語ということは本国の歴史書だ。けれどアメリはここに来るとき、研究に関わるものは何一つ持ちだしてはいけないと命じられていたはずだ。だとしたら──。
「……その本、この国で見つけたの?」
アメリはびくっと肩を揺らした。
ノエはよからぬ何かを確信してしまって白い目で彼女を見る。けれど彼女がこちらを向くことはなかった。無言の十秒が過ぎたのでアメリは目を逸らしたまま、もごもごと答える。
「……そ、空から降ってきた的な……」
「ここって雨は降らないのに本は降るんだ? 教養が深まりそうだね」
白々しく返す。飴をしゃぶっている子どもだってもう少しマシな言いわけをしただろう。アメリはわっと声をあげると、机につっぷした。
「だって、だって! この本は古代語を解読するために一番大切な史料なのよ、それを処分すると言われたら、もう持ち出すしかないじゃない!」
「逆にどうやったんだよ」
「服の下に入れてきたの! 検問はみんな男の人だったから、服を脱がせたりしないじゃない」
「あんた貴族の娘でよかったね。平民なら普通に脱がされてたと思うよ。もし失敗してたら胴体の見納めだったね」
「火あぶりなら首から下も一緒よ」
「そういう問題?」
死んだら同じだろ、とノエは冷静に返した。
まあ成功しているのだから何を言っても今さらだ。度胸と根性だけは認めるしかなかった。