第1話 砂漠を越えるキャラバン
自分が歩いているこの道は誰かの人生の続きだ、と思うことがある。
顔も名前も知らない誰かが一歩ずつ進んできた道があって、ずっと遠くまで伸びている。自分はその途中にぽつんと立たされていた。道は誰かの願いとか後悔とか、たくさんのもので彩られていて──。
アメリは書庫のなかでふと息を止めた。
小さな指先でページをなぞる。
薄暗い部屋には小窓だけがあって、細い光が差しこんでいた。埃がキラキラと輝いて粉雪みたいだ。アメリは目だけで文字を追っていく。何度も何度も繰り返す。頭のなかに流れこんでくる情報。瞬きが遅くなっていく。
誰かがその一生をかけて見つけ出した答えは、アメリに一つの気づきを与えた。
時計の針がカチンと音をたてた。
小さな少女は一歩を踏み出すことになる。
どこまでも続くような道の一歩を。
ノエがその女に会ったのは今日が初めてで、まっさきに薄情だな、と思った。
帝都を出てから丸二日、ようやくたどり着いた国境。一歩踏み出せば砂漠が広がっているそこにはもう何頭ものラクダが集まっていた。背中には荷物がくくりつけられていて、商人たちが水を飲ませたりして世話をしている。
砂漠を越えるためのキャラバンは、属国である砂の国へ行く。
キャラバンに同行することになったノエは、あてがわれたラクダにゆっくりと触れた。ラクダはおとなしくて、撫でても鳴いたりはせず、岩のように立っているだけだ。独特なにおいがする。紐を握っていた男はノエの全身をじろりと見た。
「一人で乗れるか、ボウズ」
「問題ない」
十六歳になったばかりのノエは、ふてくされたみたいに返した。背も少しは伸びてきたけれど、まだまだ子どもに見えるらしかった。ただの子どもは剣なんて差していない、と毒づく。
ノエは傭兵で、今回の任務はとある歴史学者の護衛だ。
その学者というのが、二十四歳という若さでいくつもの発見をしている天才で、ノエも名前くらいは知っている。先帝にとても気に入られていて、勲章も授けられたことがあるそうだ。
とはいっても先帝はこの前の政変で捕らわれて、今は牢獄で処刑を待つ身だと聞いているけれど。
「こんにちは、初めまして」
すぐ後ろから話しかけられて、はっと振り返る。
日よけのマントを羽織っている女が立っていて、彼女はとても穏やかに微笑んでいた。
「私はアメリ・ブランシュといいます。あなたが傭兵さん?」
ぽかんとした顔で見つめ返してしまったノエは、思い出したように「そう」とだけ返す。
反射的に彼女を上から下まで見ていた。
ノエよりも少し小さいくらいの背丈、ウェーブのかかっている柔らかそうな赤髪。マントを止めているのは上等な金属のブローチだ。護身用の短剣は持たされているらしいが、もしかすると刃のついていない偽物かもしれない。
じろじろ見ながら黙りこんでいると、彼女は覗きこむようにノエを見返してくる。
陽だまりみたいに笑う女だった。
少しくすんだ緑の瞳には敵意なんて少しもこもっていない。ノエはあんなことがあったばかりなのに、と心の中で思った。
あれを見て、そんな風に笑っていられる理由がさっぱりわからない。薄情にもほどがある。
「……ノエ。砂の国であんたを護衛するように言われてる」
「遠いところまでありがとう。困ったことがあればなんでも言ってね、私にできることなら力になりますから。砂漠を越えるまでは大変だと思うけれど、よろしくお願いするわね」
「あんたこそ、護衛一人で属国に留学させられるなんて大変だな」
ノエはすかさず返す。ちょっとした嫌味のつもりだった。アメリにもちゃんと伝わっていたようで、彼女は困ったみたいに眉を下げた。
「皇帝陛下の命は絶対よ。この前の政変ではいろいろなことが動いたもの。先の陛下にお世話になっていた私は邪魔者ということでしょうね。私に付き合わせるみたいになって、ごめんなさい」
「別に。俺も邪魔者らしいから」
「……そう」
彼女は視線を下げて、それ以上は続けなかった。余計なことを言わないのは優しさだったのかもしれない。
ノエは傭兵団の副団長からたいそう嫌われていて、今回の任務だって嫌がらせなのだ。明るい未来なんてあるはずがない女学者の護衛なんて、誰もやりたがらない。だからノエが選ばれた。
邪魔者の学者に邪魔者の傭兵。とてもお似合いだとノエは鼻で笑った。
それでもノエにはいつか帰還命令が出されるはずだ。
ほとぼりが冷めるか、副団長がうっかり失脚してくれれば──息をひそめてただ待っているだけでいい。時間が解決してくれるまで辺境の属国で、この女の行く末を眺めているのだ。
遠くで号令がかかった。商人たちはいっせいにラクダにまたがる。ついに砂漠を渡るキャラバンが動き出すのだ。
アメリがぺこりと会釈をして立ち去るのを、ノエは黙って見送った。一つに結んだ赤髪がゆらゆらと揺れて、蜃気楼でも見ているような気分だった。
砂漠の日差しは強くて、首筋がじりじりと痛む。
ノエはフードをかぶって肌を覆い隠した。
ラクダの列は砂を踏みしめながらゆっくりと進んでいく。帝国がだんだんと遠ざかっていく。
アメリは名残惜しそうに何度も振り返っていた。
もうここには戻れないと気づいていたのだろう。
誰を連れていくことも、何を持ちだすことも禁じられた彼女には、その目に映したものだけがすべてだったのだ。