第2話
***
ドゴッ、ボカッと音が響く。
腹を蹴られ、山田は壁際に吹っ飛んだ。
「ハァ、ハァ……あースッキリした」
さんざん暴力を振るった後で、峯田は両手をぶらぶらさせた。
「峯田ぁ……。さすがにやりすぎじゃね?」
壁に背中をつけて動かなくなった山田に、友人がびくついた顔になる。
「は? お前、逆らうのかよ」
「そ、そういうわけじゃないけどさ。問題になったらヤバいだろ」
「こいつにチクる度胸なんてあるわけねーよ。なぁ、山田くん?」
動かなくなった体を軽く蹴り、峯田が嫌な顔で笑う。
「まあ、チクっても問題ないけど。あとでひどい目に遭うのはお前だしな」
「……チクらないよ、別に」
その時、普通に山田が答えた。
「な、山田!?」
「気を失ってたんじゃねーのかよ。なんだよお前……」
むくりと起き上がった山田に、彼らがぎょっとした顔になる。
「チクらないから、もう行っていい? 教室に戻らないといけないんだ」
硬直した彼らの横で、山田は制服の汚れをはたく。よく見ると、その体には傷ひとつついていない。
「てめえ……ふざけやがって!」
峯田が殴り掛かろうとした時、「こっちです!」と声がした。
「こっち、こっちです、早く!」
「お前ら、何してる!」
厳しい事で有名な体育教師が駆け寄ってくる。
彼らは「やべ」と呟くと、脱兎のごとく逃げ出した。その後ろを体育教師が追いかけていく。
「山田くん、大丈夫?」
「藤崎さん……」
どうやら教師を連れてきてくれたのは彼女らしい。
山田が無事だと知ると、ほっとした顔になる。
「間に合ってよかった。怪我、大丈夫?」
「平気だよ。ありがとう」
彼女の息は上がり、額に汗がにじんでいる。
自分が連れて行かれてすぐ、あちこち駆け回ってくれたのだろう。
やっぱり彼女は天使だ。むしろ聖女かもしれない。
「……藤崎さんは、なんでそんなに俺のことを気にしてくれるの?」
「え?」
びっくりした顔になったが、彼女は素直に教えてくれた。
「山田くん、いい人だもん。気になるよ」
「……それは、どういう」
「あ、って言ってもね? 変な意味じゃないよ? 助けたくなるだけ。だっていい人って、無条件で手を貸したくなるでしょう?」
だからだよ、と。
屈託なく笑う少女は、なんだか少しまぶしく見えた。
「……なるほど」
ところでと山田は問いかけた。
「最近、何かいいことはあった?」
「え、なんで分かるの?」
「なんとなく」
水を向けると、彼女は嬉しそうに話してくれた。
なぜか青信号が続いたり、読みたかった本が偶然借りられたり、電車やバスで席が空いたり。
「ひとつひとつは小さいんだけど、すっごくツイてるの。まるで、魔法でもかけられたみたい」
「……そうだね」
「山田くんにもいいことがあるといいね。それじゃあ」
手を振って去っていく彼女に、山田は背後から呟いた。
「……君に幸運がありますように、藤崎さん」
***
教室に着いたのは午後四時ぎりぎりだった。
いつも通り、不自然に人の姿はない。教室にいるのは山田ひとりだ。
誰かに見られる危険はない。あとは時間を待つだけだ。
その時、四時を知らせる時計が鳴った。
「……来た」
もう慣れたこの感覚。
空気が渦を巻き、教室の中央に魔法陣のような模様が浮かび上がる。
山田の体がふわりと浮き、魔法陣の中に吸い込まれた。
周囲の色が目まぐるしく変わり、光の洪水が押し寄せる。
太陽と星が浮かんでは消え、昼と夜が入り混じる。乗り物酔いをしそうなので、いつもは目を閉じている。
空間を渡る時はいつも、ファンタジーだなと冷静に思う。
次に目を開けた時、見慣れた世界は一変していた。
「おいでになられたぞ! 勇者ヤマダ様だ!」
耳をつんざくような歓声が沸き上がる。
きらきらした目でこちらを見つめる、人・人・人の数。
その中には人間だけでなく、動物の耳を生やした者や、トカゲや蛇の顔をした者もいる。
みんな簡素な服装だが、現代日本とはかけ離れている。
その中でひとり、ひときわ美しい衣装を身にまとった少女が駆け寄ってきた。
「ヤマダ様! よくおいでくださいました」
「姫様……人前で抱き着くのはおやめくださいと、あれほど申し上げたはずですが」
「だってだってだって! 寂しかったのです。ヤマダ様は短時間で帰ってしまわれるし、次にお会いできるのは七日後なんて! 長すぎます、どうにかして!」
「それはあっちとこっちの時間がねじれてるからで、俺としては毎日放課後に来ているつもりなんですが……」
「それでも嫌なのです!」
ぎゅうっとしがみつく美少女に、山田が困った顔になる。
輝くような金髪に、深い湖のように澄んだ瞳。
自分と同い年くらいだが、ここでの一年は数え方が違うので、生まれてから何日と数えた方が手っ取り早い。
それを見ている者の中から、「やれやれ」と声がした。
「相変わらず、姫様はこらえ性がないですわね。ヤマダ殿が困っておられるではないですか」
「……オーレリア」
「わたくしなら、ヤマダ殿を困らせるような真似はいたしませんわ」
赤毛に赤目、眼にも艶やかな甲冑を身にまとった美女が、色っぽい流し目を向けてくる。
甲冑と言っても、急所を守る以外は素肌で、なまめかしいラインが強調されている。さりげなく胸を押しつけると、オーレリアと呼ばれた美女は微笑んだ。
「そんな子供体型の姫様ではなく、わたくしと将来を誓ってくださいません?」
「オーレリア、またそんな!」
「恋愛は早い者勝ちです。まして、魔王を倒した勇者ヤマダ殿でしたら、国中の女性が夢中ですわ」
「……いや俺はそんなつもりは」
「お二人とも、何をなさってるんですか」
その時、氷のような声が周囲を凍てつかせた。
「またそんないやらしい恰好で! ヤマダさんもヤマダさんです。何鼻の下を伸ばしているんですか!」
「誤解です、エステラ」
「何が誤解ですか。どうせ私は色気もないし、胸だってない、しがない魔法使いですよ! ヤマダさんも私じゃなくて、そっちのお二人の方が好きなんでしょう!」
泣きそうな顔で杖を振っているのは、これまた雰囲気の違う美女だった。
透けるような銀髪に紫の瞳、たおやかな容姿はスミレのようだ。なんとも儚くて美しい。
「エステラの魔法授業には感謝してます。あと、色気は必要ありません。勇者の業務には不要なので」
「……そうなのですか?」
「はい、もちろん」
彼女の涙が引っ込んだところで、「あー、来てたのヤマダ!」と元気な声がする。
「おかえり、いらっしゃい! げんきだった?」
「元気だよ、ピスト」
飛びついてきたのは幼稚園くらいの少女だった。頭に獣の耳が生えている。
「会いたかった! ねえ、ピストおよめさんになれるくらいに大きくなった? ヤマダ年下好き? 獣人族好き? きょにゅう好き?」
「どこでそんな言葉を覚えてくるのか知らないけど、お嫁さんには小さいかな。年はどっちでも。獣人族は好きだよ。巨乳はノーコメント」
「じゃあもっと大きくなったら考えてね!」
栗色の髪と瞳を持つ愛らしい少女は、ぐりぐりと頭を擦りつけた。
――勇者ヤマダ。
この世界に初めて召喚された時、呼ばれた名前だ。
魔法陣を囲む魔法使いと賢者、そして国王に、あなた様は勇者ですと宣言された。
えぇー…と思って抵抗したが、帰る方法も手段もなく、仕方なく魔王を退治した。
魔王は峯田にちょっと似ていて、性格も相応に悪かった。おかげで討伐には力が入った。
ようやく魔王を倒すと、帰り道が現れた。
それでお役御免だと思っていたら、ふたたび魔法陣が現れた。
魔王を倒した勇者は、国を譲り受けるのが習わしだという。
さすがにそれは勘弁してほしかったので、あれこれ協議を重ねた結果、毎日一回、放課後の三十分だけ異世界に行く事を承諾した。
あちらでは三十分だが、こちらでは三日に相当する。
だが、帰れば山田の時間は戻る。
体感で言うと、ちょうど三日分の時間が巻き戻される感じだ。
その割に、翌日こちらの世界に向かうと、七日の時が流れている。
まあそんなものだと思う。異世界なので、深く考えてもしょうがない。
進む時間が違うので、永遠に一緒にいる事はできない。
だから山田はできる限り、この国のためになる事をしようと思った。
本を持ってこられれば手っ取り早いが、そういうズルはできないらしい。一度やったが、本だけが元の世界に置かれていた。メモリやデータは言わずもがなだ。
なので、この世界に知識を持ち込もうとした場合、とにかく自分が勉強するしかない。
「今日は人体の仕組みと、怪我や病気の手当てについて。こっちには獣人や竜人もいるから、全部同じだとは思わないでほしい。怪我の手当ても同様で、あくまでも知識の一環として、頭の隅にでも入れておいてください」
「分かってますよ、ヤマダさん」
エステラと呼ばれた儚い美女が、力強く頷く。
「ヤマダさんのおかげで、この国はずいぶんよくなりました。天体、地学、堤防や運河、街や城の防御まで。異世界の知識はすごいですね。知らなかったことばかりです」
「あっちでは書物も充実してるし、ボタンひとつで検索がかけられるので、便利と言えば便利ですかね」
「本当に魔法のようですね。魔法使いがひとりもいないなんて、信じられない」
「科学って言うみたいですよ」
俺も詳しくないんですがと言いながら、覚えた知識を書き留めていく。
こちらの文字ではないが、互いに勉強した結果、ある程度の読み書きはできるようになっている。
今回は図がメインなので、いつもよりも分かりやすい。
「ここが心臓で……こっちが腎臓。血液がここを通って、全身をめぐって帰ってくる……」
「回復魔法で一発ですが、こうしてみると不思議ですね。より理解が深まります」
「できれば死刑囚の解剖や、病気で亡くなった方の解剖を行えば、もっと正確なデータが取れます。昔はそうしていたみたいですよ」
「なるほど……。考えておきます」
剣と魔法の世界でも、病人は出るし死人も出る。
なまじ魔法が使える分、そうでない人間は力が弱い。勇者とはいえ、山田自身も魔法が使えるわけではなかったから、最初はものすごく苦労した。
エステラによる特訓の結果、簡単な初期魔法だけは使えるようになったのだが、魔王討伐には役に立った。あれがなければ負けていたかもしれない。
「そういえば、エステラに教わった特殊魔法。あっちでも使えました。ありがとうございます」
「それはよかった。幸運の魔法ですよね」
「まさかあっちの世界で魔法が使えるとは思いませんでした。まあ、使うこともありませんけど」
「ヤマダさんの力なら、ほとんど自力で叶いそうですもんね」
身体のダメージはほとんどない。
魔王討伐に当たり、防御魔法を徹底的に習得したのだ。
それだけでなく、地道な修行の成果も出た。峯田にやられたくらいではびくともしない。
異世界と言われて戸惑ったが、慣れれば悪くない世界だった。
この世界に暮らす人々が、幸せであってくれればと願う。
「……ヤマダさんは、いずれ異世界に定住するんですよね」
「そうですね、異世界人なので」
「こちらにいてくれるわけには……いえ、なんでもないです」
首を振り、エステラは話を打ち切った。
「異世界の知識をすべて吸収したいと思います。ヤマダさん、今夜は寝かせませんよ」
お読みいただきありがとうございました。勇者ヤマダ。こっちの世界ではモテモテ。