領主失格
カティアがグレンダと外に出かけていた日、その手紙はクレイスア家に届けられた。
「エトゥス様、このような手紙が」
ハングから真っ白な封筒を受け取ったエトゥスは、その封蝋を目にすると顔を歪めた。
三つの剣が重なる印は侯爵家からの手紙を示している。
中身を見ずともカティアのことであり、不穏なものであることが窺える。
今更ながらカティアを断罪しようとするのか。そんな怒りを感じつつ開けた手紙には、驚くべき内容が書かれていた。
エトゥスはゆっくりと天井を見上げ目を閉じると、机に握り込んだ拳を力のままに叩きつけた。
「こんな! こんな馬鹿な話があるか!」
ハングが初めて見るようなエトゥスの激昂。
何度も、何度も、握りしめた手紙が血で赤く染まるほどにエトゥスは怒りを机にぶつけた。
「おやめ下さいエトゥス様!」
呼吸を荒げたエトゥスはハングに後ろから抑えられ、ようやく机を殴りつけるのをやめた。
「ハング、貴族とはなんなんだ? この手紙になんて書かれているか分かるか? カティアを侯爵家次男ギブルタスの妾にするから今すぐ離縁しろと、そう書かれているんだぞ。モンクレド子爵家はそれを了承したと……そんな馬鹿な話がまかり通るのが貴族社会だというのか!」
「……エトゥス様、まずは落ち着いて下さい」
「悪い冗談だろ? なんで……」
エトゥスは椅子にしがみつくように泣き崩れた。
どのくらい泣いていただろうか。
ハングはただ黙ってエトゥスの側にいた。
「ハング、領主として聞く。この話を断ればどうなる?」
「行商の停止……それだけでは済まない可能性が高いかと。モンクレド子爵家と口裏を合わせ、大義名分を持って実力行使をしてくる可能性もございます」
貴族社会とはいえ、他家の妻や娘を奪うことは出来ない。
だがモンクレド子爵家が侯爵家に都合の良い話をでっち上げれば、不義はクレイスア準男爵側となり、大手を振って奪うことが出来る。
すでにモンクレド子爵家はあちらの味方なのだ。
カティアが来た時と同じようで全く違う。
簡単に脅しに屈するほどエトゥスのカティアへの愛情は薄くは無かった。
「しばらく一人にしてくれ」
ハングは頭を下げてから静かに部屋を出た。
外から戻ったカティアがエトゥスに会いに執務室に向かおうとすると、ハングはそれを止めた。
「エトゥス様は大事なことを思案中ですので、今しばらくはご遠慮ください」
「そう。分かったわ」
執務室に閉じこもったエトゥスは夜になっても出てこなかった。時折聞こえる咆哮にも似た叫びと激しい物音。
不安を胸に抱いたカティアだったが、それでも気持ちを抑えて部屋でエトゥスを待っていた。
雲が星や月を覆い隠し、深い闇に世界が覆われた頃、雨音に紛れて部屋の扉が叩かれる。
「カティア様、夜更けに失礼します。エトゥス様がお呼びです」
「すぐに行くわ」
ハングが執務室の扉を開けてカティアが中に入ると、生気のない顔をしたエトゥスは耐えられないように顔を下に向けた。
本棚は倒れ、紙の束が荒らされたように投げ出されている部屋はエトゥスの心を映し出していた。
「どうしたのエトゥス。困ったことが起きたの?」
「そう……だな。本当に困った話だ」
ハングは外に出ようとしたが、エトゥスがそれを仕草で制止する。
「侯爵家の次男が君を妾に欲しいと言ってきた」
「あの男が? 私は貴方の妻よ。そんな戯言に付き合う必要はないでしょ?」
「残念ながら君の実家が認めたそうだ」
カティアはその事実に絶句した。
もとより家族としての情がないことは分かっていたが、ここまで身勝手とは思っていなかった。
「……断ればどうなるの?」
「どうもこうもないさ。あちらは30万もの領民を抱える貴族。こっちは1,000人にも満たないばかりか、交易で食い繋いでる貧乏貴族だ。簡単に取り潰されて終わりだな」
「そう。で、貴方はどうするの?」
「領主として……俺の気持ちだけで……領民を危険に晒すことは…………出来ない」
エトゥスは絞り出すように言葉を繋いだ。
「そう。それが領主としての答えなのね」
カティアがその言葉だけを残して部屋を出ていくと、エトゥスは机に肘をついて項垂れた。
「エトゥス様、顔をお上げください」
ハングの呼びかけにエトゥスが顔を上げると、部屋に乾いた音が鳴り響く。ハングはエトゥスの頬をはたいていた。
「御無礼は承知の上。目が覚められましたかな?」
「――ハング?」
「ご自身が侯爵家の次男と同じことをしてると分かっておられますか?」
「……あぁ」
エトゥスは理解していた。
自分のしていることは侯爵家の次男と同じ。
領民のためだとカティアを盾に突き出したのだと。
「どうしてご自分の気持ちに嘘をつくのですか? それほどまでに領民達は頼りないですか? エトゥス様の判断が領主として正しかろうが言わせて頂きます。カティア様はエトゥス様の妻なのです。それより大事なことがありますか?」
「……ハング」
「カティア様を差し出せば、一生後悔なさいますぞ。どうかご自分の心に正直であって下さい」
立ち上がったエトゥスはカティアの部屋に駆け出した。
ノックもせずに扉を開けると、背を向け荷物をまとめる女性の名を呼んだ。
「――カティア」
「まだ荷造りの途中なの。部屋から出ていって」
「カティア、すまなかった」
「これは必要ないわね。これはどうしようかしら」
ピシャリと拒絶したカティアはエトゥスの言葉が聞こえないように手を動かし続ける。
「すまなかった」
何度も謝るエトゥスに、カティアはようやく手を止めた。
「別に貴方の判断が領主として間違ってるとは言わないわ」
「いや、間違っていた。俺は領主である前に君の夫だ」
カティアの背中がピクリと動いた。
「そんなこと言ってどうするの? まさかお願いすれば侯爵家が手を引くとでも思ってるの?」
「思わないさ。お願いするのは領民達にだ。力を貸して欲しい、と」
「断られるわよ」
「そうかもしれない。もしどうしようもなくなったら……俺と一緒に死んでくれるかい?」
カティアは背を向けながら立ち上がった。
「最低な領主ね。死んでも何もいいことなんてないわ」
「でも、君の夫として死ぬことが出来る。世界中の誰を敵に回すことになっても……俺は君の夫でありたい」
振り向いたカティアは顔を見せることなくエトゥスの胸に顔を埋めた。
「エトゥスは、ううっ、本当に、うぐっ、馬鹿ね」
「あぁ、そうだな」
「領主、ううっ、失格よ」
「あぁ、そうだな」
「しばらく、このままで、ひっく、いさせて。ううっ、うっうっ」
カティアの震える体をエトゥスは優しく抱きしめる。
人形令嬢と呼ばれた令嬢がいた。
彼女はどんな時でも感情を顔に表すことがなかった。
その日、カティアは生まれて初めて顔をくしゃくしゃにして泣いていた。