婚礼の儀
婚礼の儀が行われる朝。
窓から陽の光が差し込む部屋の中で、エトゥスは婚礼衣装に着替えると大きくため息をついた。
領地の問題を聞かなかったことにすると言ったカティア。今更考えたところで仕方がないのだが、そのまま振り返らずに部屋を出た事もあり、エトゥスの心は憂鬱だった。
「エトゥス様、そろそろ婚礼化粧を致します」
ノックの後の呼びかけに、エトゥスが「分かった」と返事をすると、いくつかの椀を持ったハングが部屋に入る。椀の中には赤や緑と言った塗料。
クレイスア領では婚礼化粧を施す。
婚礼衣装を汚さないように椅子に座ったエトゥスに布がかけられると、ハングは筆を椀の塗料につけて顔に細い線を描いていく。
「婚礼の儀といいますのに、浮かない顔ですな」
「……昨日、カティアに話した」
「それでカティア様はなんと」
「聞かなかったことにするとさ」
ハングは手を動かしつつ片眉を上げた。
「なぁ、ハング」
「おっと、喋るのは化粧が終わってからにしてください。エトゥス様の晴れ舞台。化粧がおかしければこのハング、一生後悔致しますぞ」
ハングは細かな模様を精巧な職人のように描いている最中。
しかし喋るなと言ったハングの口は動く。
「エトゥス様、カティア様ならなんの心配もございませんよ。もし本当に辛いと感じられていたなら……そう、エトゥス様はすでに殴られておりますから」
エトゥスは鼻で笑った。
「さっ、化粧は終わりました。カティア様がお待ちです。今日は忙しいですぞ」
「長い一日になりそうだな」
エトゥスが窓の外に目をやると、遠くにある広場に人だかりが見えた。
すでに会場には領民が待っている。
エトゥスは立ち上がると屋敷の一階へと降りていった。
玄関には婚礼衣装を纏ったカティアとグレンダが待っていた。
エトゥスと同じように顔に細い化粧を施されたカティア。
美しい婚礼衣装と相まって、エトゥスは一瞬言葉を失い見惚れてしまう。
「エトゥス様」
「あ、あぁ。カティア待たせてすまなかった。領民達も待っている。会場に向かおうか」
カティアはニコリともせず、そっと右手を前に出した。
「私はここの土地を知らないから、エスコートは任せるわ」
「あ、あぁ」
エトゥスは右手の意味を理解して、自身の右手を添え、いつもと変わらないカティアに感謝を込めて優しく握りしめた。
玄関を開けると、待ちきれない数名の領民がすでに待ち構えており、カティアの姿に感嘆の声を上げる。
「エトゥス様は女神様と結婚するのか?」
「俺、初めてエトゥス様を憎く思うぞ」
そんな領民の声を耳にしながらエトゥスは笑った。
会場に近づくにつれ賑やかさは増していく。
すでにお酒の入った領民もおり、目にした花嫁に驚きと賞賛を、花婿には野次を贈っていた。
広場の奥に設置された一段高くなった舞台に二人が上ると、盛大な歓声が広場に響く。
エトゥスが両手を挙げると、領主からの言葉に耳を傾けるべく領民達は声を潜めた。
「皆、今日はよく来てくれた。皆に知らせたように、私、エトゥス=クレイスアはここにいるカティア=ウル=モンクレドと、この時から夫婦となる。今日は大いに楽しんでいってくれ」
領主の言葉に再び歓声が上がる。
エトゥスとカティアは料理の置かれた席に着くが食べることは出来ない。
すでに席の前には長蛇の列が出来上がっているからだ。
クレイスア領での婚礼の儀は、花婿の言葉の後に全ての参加者と会話をしなければならない。
儀式自体はそれだけの簡単なものだが、参加者はおよそ1,000人。
領主であるエトゥスは、全ての領民と話をしなければならない。
「エトゥス様がご結婚なさるなんて。儂はいつ死んでも後悔ないわい」
「爺さんにはまだまだ長生きしてもらわなきゃ」
「なんて美しい奥様なの。カティア様、これからよろしくお願いしますね」
「ありがとう。これからよろしくね」
一人一人の会話は短いが、全ての領民との会話を終えた時には空はオレンジ色に染まっていた。
「カティア、お疲れ様。さすがに腹も減っただろ? もう食べても大丈夫だ」
「でも、まだあっちから人が来るわ」
カティアが指さした先に、こちらに歩いてくる者が見えた。
エトゥスは眉間を寄せハングを呼んだ。
「ハング、まさか知らせたのか?」
「当然でございますな。領主の結婚です。全ての領地の方にお声がけさせていただきました。皆様、長だけでも挨拶しに来られると快諾を頂いております」
初めにやってきたのは普通の人間。
いや、普通なのは上半身だけで、その下半身は獣のものだった。
「お主が結婚とは、人馬族としても嬉しい話だ。なんとも美しい花嫁ではないか。エトゥスに飽きた時にはいつでも来るがいい」
「間に合ってますから」
好色と言われる人馬族の長は、カティアの態度に口を大きく開けて笑う。
次にやってきたのは小動物を連想させる姿の女性だった。
「エトゥス、アタイに断りもなく結婚とはどうなってんだい! あーぁ、せっかくアタイの旦那の座を空けてたっていうのにさ」
「すでにその座には三人が座ってるでしょ?」
兎人族の長は豊かな膨らみを強調するように腕を組むと、カティアの顔から視線を下ろし「人族のペタンコに飽きたらいつでも来い」と片目を瞑った。
その後も大人の腰ほどの背丈しかない者や耳の長い者など、10を超える種族の長達が祝福に訪れた。
「もっと驚くかと思っていたよ」
「あら、これでも十分驚いているわよ」
確かに表情は変わらなかったが、一つ目の巨人が訪れた時のカティアの声は震えていた。
日が暮れて松明に火が灯る頃には、広場に残っている領民も半数になっていた。
酔いつぶれている者、まだ騒いでいる者。
そろそろエトゥスが引き上げようかと思っていると、一人の女性がこちらにやってくる。
赤い髪をした、エトゥスより少し歳上に見える女性が歩くたび、周りにいた領民達はえも言われぬ威圧感を感じて震えが起こる。
それはその女性がただの人ではないことを示していた。
カティアもまた本能が訴えるかのような警鐘に、エトゥスの手をギュッと握った。
「大丈夫だよ」
エトゥスはそう告げるとカティアの手を優しく握り返す。
「お久しぶりですアルマ様」
「久しいなエトゥス。そこにいるのが妻か?」
「えぇ、カティアと言います」
「カティアです」
アルマの視線受けて、カティアは震えながらも血のような赤い瞳を見つめ返した。
「ほう、なるほどな。エトゥス、これは我からの祝福じゃ。受け取るが良い」
差し出されたのは大人の腕ほどもある細い牙。
「我の牙じゃ。家宝にするが良い」
「ありがとうございます」
エトゥスが受け取ると、アルマは踵を返した。
「其方の役目は受け継いでいかなくてはならん。早ように子を作れ。子が出来れば、また我に知らせよ。我から子に祝福を与えてやろう」
そのまま去るアルマの背にエトゥスは頭を下げた。
姿が見えなくなり、震えていたカティアはようやく口を開いた。
「エトゥス、今の人は?」
「竜人族と呼ばれる種族の長だよ。とは言ってもほとんど交流は無いけどね」
竜人族とは竜の血を引くと呼ばれる御伽噺の存在。
クレイスア領を除く王国の誰に聞いても存在を知る者はいない。
カティアでも話だけなら信じないだろう。
だが、先程の恐ろしいまでの威圧感に巨大な牙を見せられれば疑う事も出来ない。
「エトゥス様、そろそろお戻りになられて下さい。私めとグレンダはここの片付けもありますので、今晩はお二人でごゆっくりお休み下さい」
ハングの言葉にエトゥスは腰を上げ、カティアに手を差し出した。
「さすがにどっと疲れたな。さっ、帰ろうか」
右手に松明を持ち、左手はカティアの手を引いて屋敷へと戻るエトゥス。
疲れからか二人は無言のまま歩いていく。
屋敷に戻ると風呂が用意されていた。
普段は温めた湯に布を浸けて体を拭く程度だが、今日はひどく疲れるだろうと、ハングが手配していたのだった。
「先に入るといい。上がったら教えてくれ」
「お言葉に甘えるわ」
エトゥスは自室に戻ると婚礼衣装を脱ぎ、そのままベッドに倒れ込んだ。
いつもと違う疲れに、瞼が重くなる。
微睡みを邪魔したのは部屋の扉を叩く音だった。
「お風呂空いたわよ」
「あぁ、ありがとう」
扉を開けて風呂に向かおうとすると、廊下にはカティアがそのまま立っていた。
「何度もノックしたけど、寝てたの?」
「すまない、寝てたみたいだ。カティアもかなり疲れただろ? ゆっくり体を休めてくれ。おやすみ」
「おやすみ、エトゥス」
エトゥスはカティアに手を振り、階段を降りていった。
エトゥスにとっても久々の入浴。
風呂に浸かるとドロドロとした疲れが溶けていくようで心地よかった。
少し残った眠気が散り出したエトゥスは、今日のことを思い返す。
ひどく疲れたが楽しくもあったと。
カティアならここでうまくやっていける。そう感じていた。
「早く子を作れ……か」
アルマの言葉を思い出してエトゥスは苦笑いを浮かべた。
あれよあれよと結婚したものの、エトゥスにとっては仮初の結婚。
エトゥスはカティアに好意を持ち始めていたが、おそらくそんな行為に及ぼうとすれば殴られるのがオチだろうと考えていた。
なにより……。
エトゥスは自分の肩に手を回し、硬くザラつく皮膚を触った。
――化け物と罵られないだけでもありがたいことだ。
エトゥスはお湯を顔にバシャりとかけた。
寝巻き代わりの布を羽織りエトゥスが自室に戻ると、部屋の扉が少し開いている。
閉め忘れかと思いそのまま中に入ると、エトゥスは驚きの声を上げた。
ベッドの縁に腰掛けたカティアがいたからだ。
「ど、どうした?」
「どうしたって、今夜は初夜でしょ?」
当然だと言い切るカティアにエトゥスは狼狽えた。
王国には結婚初夜をもって婚姻が完遂されるという風潮はある。
しかしエトゥスはこの事態を露ほどにも考えていなかった。
「ちょっと待ってくれ。その、カティアは夫としての俺を拒絶したんじゃないのか?」
「拒絶? いつしたのよ?」
「昨日、俺の背を見て『聞かなかった、見なかった事にする』って言っただろ?」
「それ? 私は貴方の弱音を聞かなかった、見なかったことにするって言ったのよ」
カティアは立ち上がると唖然としているエトゥスの後ろにまわり、背中を少しはだけさせた。
「綺麗な鱗ね」
エトゥスは肩に温もりを感じる。カティアが細指で鱗を撫でていた。
「……俺には亜人の血が混じっているぞ」
「あら、私は貴方を気に入っているわ。それ以外に言葉が必要?」
振り返ったエトゥスはカティアを強く抱きしめた。
「もう殴られても止められないからな」
「それは困ったわね。でも、せめて灯りくらいは消して欲しいわ」
そして部屋から灯りが消え、窓から入る微かな光が、一つに重なった影を作り出していた。