在らぬ噂
空が白みはじめるとエトゥスは身を起こした。
その顔は疲れが見て取れ、目の下のクマは黒味を増している。
昨晩、屋敷に入ってからも続いたエトゥスとカティアの話し合い。
怒りを抑えながら屋敷の使い方や守って欲しいことを話すエトゥスに、淡々と反論するカティア。
側から見ればケンカをしてるかのような雰囲気だったが、ハングは夫婦に意思の疎通は大事だと目を細めていた。
客車の荷物を屋敷に取り入れ、「あの方はお客人。このことは内密にな」と村人に念を押すハングだったが、人の口に戸は立てられないもの。
豪華な馬車が領内を通った噂は美女が乗っていたと追加され、その日の晩には領内中に広まっていた。
一方、屋敷ではエトゥスとカティアの口論は終わりに差し掛かっていた。
「何も難しいことは言ってないだろ? 君は素直に『はい』と言えないのか?」
「あら、難しいか簡単かは私が判断することよ。貴方の言う素直とは貴方にとって都合が良いって意味でしょ?」
「――もう、好きにしろ。知らん」
「好きにさせてもらうわ」
エトゥスは大きな足音を立てて自室に戻り、ハングがカティアを使われていない部屋に案内すると、屋敷には静けさが戻る。
ベッドの上に体を投げ出したエトゥスだったが、怒りと今後のことが頭から離れず、ほとんど眠ることは出来なかった。
エトゥスが伸びと大きなあくびで眠気を散らして下の居間に降りると、すでにハングが朝食の用意を始めていた。
「おはようございますエトゥス様。もう少し寝ておられても大丈夫ですよ」
「おはようハング。眠気はあるが、横になっても寝れる気がしない。温かい飲み物をもらえるか?」
「かしこまりました」
ハングは火にかけていたスープを木製の椀に注ぐと、椅子に腰を下ろしたエトゥスに差し出した。
「これからどうするか……だな」
薄く味のついたスープをひとすすりしたエトゥスは、カティアを思い浮かべて頭を悩ませた。
「あの方なら大丈夫かと思いますが」
「そう思わなくもないが……。俺やハングの当たり前は一般常識では図れないからな」
そのままエトゥスが口を閉ざすと、床の軋む音が聞こえてくる。
廊下から姿を見せたのは身なりを整えたカティアだった。
「おはようクレスイア準男爵。ここに座っても?」
相向かいの席に手を向けたカティアにエトゥスは「どうぞ」と、短く答えた。
「私もスープを頂いてもいいかしら?」
「貧乏貴族の薄味スープだ。それでもよければどうぞ」
ハングから渡されたスープを口に含み喉を鳴らしたカティアは、「健康に良さそうな飲み物ね」と正直な感想を漏らした。
「今日、私はどうすれば良いのかしら。勝手に何かをすれば文句が出るのでしょ、クレイスア準男爵」
椀をテーブルに下ろし、昨晩、指図を受けた含みを持たせて淡々と言葉を述べる人形令嬢に、エトゥスは小さくため息をついた。
「エトゥスだ。君にクレイスア準男爵と呼ばれると居心地が悪い。俺のことはエトゥスと呼んでくれ。カティアは自身の荷物整理をしてくれ。くれぐれも外には出ないように」
「私は籠の中の鳥かしら」
「そのうち正式に領民に紹介する。それまでは外出を控えてもらいたい。在らぬ噂を立てられないようにお願いしたつもりだが」
「在らぬ噂……ね」
いちいち棘のある返事をするカティアに、エトゥスの語気も強くなっていく。
そこに雑穀を熾火で焼いた固いぼそぼそとしたパンと、焼いた卵を乗せた皿がテーブルに置かれる。
「して、エトゥス様。婚礼の儀はいつ頃になさいますか? 準備等を考えますと、一週間後あたりが適当かと思いますが」
不意をつかれたハングの発言に、思わずエトゥスは咳き込んだ。確かに領民への紹介となれば、妻として知らせる必要がある。もちろん結婚などせずに客人扱いを続けることも出来る。しかしこの地に来る行商からベイカル家に伝われば、さらに面倒を起こすことも考えられる。
だが、いまだにエトゥスは目の前の人形令嬢と夫婦になる感覚が持てなかった。
その話に食いついたのはカティアだった。
「婚礼の儀とはどんなものなの?」
「そうですな。王国では神に愛を誓う神前式が一般的かと思いますが、ここクレイスア領では親類やご近所の方など、世話になる人々を食事でもてなします。その方々に認められることが婚礼の儀と申しましょうか」
「素朴なのね」
クレイスア領の婚礼の儀は確かに素朴なものである。
ただ領主となるクレイスア準男爵となれば人数の規模が違う。文字通り領民全員を意味するからだ。
「ハング、ちょっと待て。そう急がなくてもいいだろ? それに……」
エトゥスはチラとカティアを見た。
「私は問題ないわよ。ずっと籠の鳥として家に閉じ込められるくらいなら、エトゥスの妻を選ぶわ」
「だ、そうですよ。エトゥス様」
名目上の結婚とはいえ、領民の前ではそれなりに夫婦として振る舞わなければならない。
それにしてものカティアの言い方だ。
エトゥスは諦めたように「ハングに任せる」と呟いた。
「では、準備に取り掛かります。そうですな、カティア様の準備もありますので……グレンダに婚礼の儀までの間、屋敷に来て貰うようにお願いしておきましょう。領土の方々への知らせと協力依頼は私めの方から」
グレンダはもともとこの屋敷に仕えていた女性。
前領主であるエトゥスの父親が亡くなって間もない頃、自身の結婚を機に使用人を辞めていた。もちろんそれはエトゥス一人ならば使用人はハング一人で事足りたという経緯もある。
領土の事情もよく理解しており、カティアの相手をさせるにはもってこいの人物だった。
すぐに屋敷は慌ただしくなった。
ハングの動きは迅速で、その日のうちにグレンダは屋敷に来て、カティアが着る婚礼の服の直しに取り掛かる。
「エトゥス様の奥様はとてもお綺麗なのね。衣装が見劣りしないように頑張らなくっちゃ」
「綺麗な衣装ね」
細かく煌びやかな刺繍の施されたローブを見せられて、カティアはグレンダに体を測られていく。
華奢なカティアの体に合うように、婚礼装束の調整を施すためだ。
「王都のような豪華なドレスではなくてごめんなさいね」
「ううん。とっても楽しみよ」
顔こそ無表情ではあったが、僅かながらもカティアの声は弾んでいた。
「エトゥス様、領民へエトゥス様の結婚の発表を行いました。婚礼の儀への手伝いも明日には揃うでしょう」
「なぁ、ハング。お前楽しんでるだろ?」
「それは当然でございましょう。生まれた時より仕えてきたエトゥス様の結婚。私めが喜ぶのも道理かと」
エトゥスは別の意味を込めたのだが、ハングの嬉しそうな顔を見れば、その思いも散っていく。
仮初の結婚とはいえ、まるで親孝行をしてるかのような、そんな気にエトゥスはなっていた。
「あとは……腹をくくるだけか」
エトゥスは窓からどんよりとした空を眺めて、そう呟いた。