迫る危機
ギブルタスと集められた5,000人の兵士はクレイスア領の隣、ベイカル領にまで歩みを進めていた。
「いいか、目的は人形令嬢だ。絶対に傷つけるな。他の者はどうでもいい。なぶり殺すなり、犯すなり好きにしろ」
好き勝手して良いとお墨付きを貰った兵士達は色めき立った。
「ギブルタス様も一緒に行かれるのですか?」
ギブルタス直属の衛兵は、命令を出したギブルタスの横に来ると冷たい飲み物を手渡した。
「私が泣き叫ぶ姿を見るのはあの女だけでいい。ベイカル伯爵にはすでに私が滞在する屋敷を用意させている。そこでゆっくりと待つとするさ」
獲物を手に入れる為に我先へと駆けていく兵士達を見て、ギブルタスはほくそ笑んだ。
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「ハング、この手紙をどう思う?」
「悪戯とは思えませんが、差し出した方の真意は掴めませんな」
エトゥス達が侯爵家やベイカル領の動向を窺っていた中、一通の手紙がクレイスア家に届けられた。
差出人の名はなく、封蝋もされていない。
その中身は侯爵家の次男ギブルタスが数千の兵を集め、クレイスア領に向かっていることが記されていた。
「領民を連れて逃げることをお勧めする……か。ありがたい忠告だが逃げるわけにはいかない」
エトゥスとカティアだけならば逃げるという選択肢があったかもしれない。だが領民達と一つとなった今、それを選ぶわけにはいかなかった。
「ハング、皆に知らせてくれ」
「かしこまりました」
ハングが部屋を出ると、入れ違いにカティアが中に入ってきた。
「エトゥス、行くのね」
ハングの迅速な動きにカティアは察していた。
侯爵家が兵をこちらに向かわしていると。
「大丈夫、心配しなくていい。前に言っただろ、この領地の人間は亜人の血が混じった者が多いんだ。普通の人間より遥かに強いさ」
エトゥスはそうカティアを諭したが、血の薄まった領民達が日頃から鍛錬している兵士に敵うはずもない。唯一、利があるとすれば地の利だけだった。
エトゥスはカティアを安心させようと、優しく抱きしめる。
「震えてるわよ」
「カティアの震えが移ったのかな?」
気丈に振る舞おうとする二人だったが、それでも身体の震えは止められない。
エトゥスはカティアの頬に手を当て、真っ直ぐ見つめると精一杯の笑顔を作った。
「必ず戻ってくる。だからしばらく待っててくれ」
「そんなには待てないわよ」
「分かった。すぐに戻るさ。グレンダ、カティアを頼む」
「お任せ下さいエトゥス様」
カティアの頭を名残惜しそうに撫でたエトゥスは、久しく使われていない剣を持って屋敷を背にした。
広場に集まったのは約600人。小さな子供やその母親、かなりの高齢な者を除いた全ての領民だった。
戦うことを知らない領民達は武器代わりに農具を手に取り、エトゥスの話に耳を傾けていた。
「私の下に侯爵家が兵をこちらに向かわしているという手紙が届いた。まともに戦えば全滅だろう。しかし、地の利はこちらにある。兵の通る道に罠を仕掛け、一気に叩き潰す!」
「「おぉーーぉ!」」
拳を上げた領民達はあらん限りの声で応えた。
地形に詳しい領民を交え、エトゥス達は作戦を練っていく。
すると、どこからかざわめきが聞こえ始めた。
「カティア様」
「奥方様だ」
エトゥスが声のする方に顔を向けると、人込みが割れて出来た道を、動きやすい服装で身を包んだカティアが歩いて来ていた。
領民が見守る中、カティアはエトゥスの前で足を止めた。
「カティア、なぜここに!? 屋敷に戻れ」
「嫌よ。やっぱりどう考えても納得出来ないの。エトゥスは死ぬ時は一緒だと言ったわよね? なら私を残して戦いに出るのは約束が違うわ」
「でも――」
「でもじゃない。どうしても帰れと言うなら離縁させてもらうわ」
「離縁!?」
「そう離縁よ。それに私は侯爵家子息を殴り倒したこともあるのよ。エトゥスよりも強いと思うわ」
カティアはエトゥスの頬に向けて、ゆっくりと拳を打ち込むそぶりを見せた。
「これはエトゥス様、一本取られましたな」
ハングの言葉に領民達は笑い出す。
エトゥスはバツが悪そうに鼻の頭を掻くと、カティアの目を真っ直ぐ見つめた。
「分かった。帰れとは言わないが、無茶はするなよ?」
「あら、私がいつ無茶をしたの?」
「……いつもだ」
エトゥスはボソリと呟いた。
エトゥス達は村から西へ一日進んだ山あい、クレイスア領とベイカル領を結ぶ道の中で一際細くなった場所で罠を張る準備を始めていた。
穴を掘り、丸太を堰き止め縄を引けば道に転がり落ちるように設置する。
「これで引いてくれればいいが」
罠を作り上げたものの、どれだけ足を止めることが出来るかは分からない。
「時間との勝負ですな」
「……あとは王家を信じるしかない」
エトゥスとて領民達だけでカティアを守り切れるとは思っていなかった。
故にこの国の国王に陳情書を送っていた。
いかに理不尽なことを侯爵家が行っているか。どれだけカティアが酷い扱いを受けてきたか。
王家が侯爵家の顔を立てれば全てが終わってしまう。だがエトゥスは善王と呼ばれる国王の人の心に賭けた。
時間さえ稼げれば王国が止めてくれると信じて。
「エトゥス様! ここより先に軍勢を確認しました。歩の進みから見て、こちらに来るのは明後日の昼頃かと。おそらくこちらの10倍ほどの人数がいます」
「分かった」
探りに出していた若い領民の言葉に緊張が走る。
領民達の予想を遥かに超える人数。作り上げた罠だけでは到底太刀打ちできないと全ての者が感じていた。
「まだ時間はある。ここより少し東に向かい罠を作るぞ」
「では私めと数名がここに残りましょう。奴らが来たらこの罠で足止めしておきます」
「ハング、お前……」
「エトゥス様、ご武運を」
それは死を覚悟した男の顔だった。
エトゥスの唇が震える。
ずっとエトゥスを支え、親同然のように感じていた執事。だがここで涙を流すわけにはいかない。
「ハング、危ないと思ったら逃げなさい。これは命令よ」
「カティア様……承知致しました」
カティアの声が気丈に振る舞っていると気づいたのは、エトゥスとハングだけ。
ハングは改めて、己の全てを捧げた主人の伴侶がカティアである喜びを噛み締めていた。
「それではこれから東にーー」
エトゥスの上げた大声がピタリと止まる。
樹々の間から見えるいくつもの影。
待ち構えていたはずのエトゥス達は囲まれていた。