一通の手紙
アスタレイア王国の東部。山間に囲まれた小さな平地に、クレイスア領と呼ばれる村がある。
人口が1,000人にも満たない小さな村落で、隣の街まで馬を走らせても7つの日をまたぐほど、交通の便が悪い。
独特な作りの民芸品が領土の収入源ではあるが、他にこれといった特産品や名所はなく、誰も好き好んで行くことのない、いわば離小島のような場所であった。
世襲貴族制をとる王国は、この小さな領土にさえも管轄する貴族を置いている。
治めているのはその領名が示す通り、クレイスア準男爵。
貴族とは言っても辺境の地。物資の流通を図るために隣の領土であるベイカル伯爵との繋がりがあるものの、他の貴族はそんな領土があることも知らない。
クレイスア準男爵は貴族社会から取り残された、名ばかりの貴族であった。
無駄に広い土地に孤立して建つ古びた屋敷の一室、卓上に置かれた紙の束と格闘しているのが領主エトゥス=クレイスアである。
ボサボサに伸びた黒髪の隙間から覗く吊り上がった鋭い眼が、数字の羅列された紙を睨みつけていた。
30歳手前の働き盛りとはいえ、あまり睡眠が取れていないせいか目の下にはクマが浮かび上がっている。
「あー、くそっ。予想よりも悪い。水路整備は当分延期するしかないか」
エトゥスは書類を投げ出すように立ち上がると、グッと伸びをして窓の外を見た。
雨期が始まる前の空は穏やかに晴れ渡り、疲労の溜まったエトゥスの心に僅かばかりの癒しを与える。
「エトゥス様、失礼致します」
執務室の扉が軽く叩かれると、扉越しに深い響きを持つ声がエトゥスの耳に届いた。
「入っていいぞ」
主人の了承を得て柔らかな物腰で部屋に入って来たのは、白いシャツに黒いベストを身につけ、髪には白いものが混じった初老の男。この屋敷に仕える執事――ハングである。
彫りの深い顔に穏やかな笑顔を浮かべ、ピンと伸びた背筋のまま、椅子に腰掛けたエトゥスの前で立ち止まる。
「今日は良い天気です。外に出られるのもよい気分転換になりますぞ」
「そうだな。もう少し書類を片付けたらそうさせてもらうさ」
「それがよろしいかと。エトゥス様もよいお歳。若い若いと思っていても体は老いているもの。たまには――」
「ハング、用があるのだろ? お前の話に前置きが長い時は困った案件が舞い込んだ時だ。どうした?」
己の癖を見抜かれたハングは苦笑いを浮かべると、スッと真っ白な封筒を主人の前に差し出した。
「エトゥス様には敵いませんな。……実は手紙が届きました」
「手紙か……」
エトゥスはあからさまに眉間に皺を寄せる。
領民から訴状が届くことはしばしばあるが、真っ白な封筒となれば話は別。藁から作られる一般的な紙とは違って高級品だからだ。
つまり差出人が裕福な者、貴族であることを示していた。
封蝋にはベイカル家を示す印。
交易の関係上、幾度かは手紙のやりとりをしたことはあるが、真っ白な封筒など今までに届いたことは無かった。
エトゥスは嫌な予感を覚えつつもナイフで封蝋を外し、中身を検める。
険しくなる主人の顔をハングは冷静に見ていた。
「……読むか?」
「では失礼して」
手紙を受け取ったハングは、主人とは逆に安堵の顔で読み終えた。
「これはこれは、あっ、いや、失礼しました。あのモンクレド子爵令嬢ですか」
主人の睨みに笑いを止め、それでもハングは好意的な声色を発した。
「あぁ、あのご令嬢だ」
貴族に疎いエトゥスでも知っている令嬢。
カティア=ウル=モンクレド。
つい先日、侯爵子息に婚約破棄された、今の貴族界でもっとも有名な令嬢である。
エトゥスが行商人から聞いた話では、婚約発表の夜会にて、婚約者である侯爵子息の鼻面に拳を打ち込んだ女性。
話を聞いた時のエトゥスは「剛気な女もいるもんだな」と笑っていたが、まさか自分にお鉢が回って来ようとは思いもしなかった。
「良いでは無いですか、エトゥス様もすでに30歳手前。今まで独身を貫いてきたツケが回ってきましたな」
「……好きで結婚しなかったわけでは無いがな」
クレイスア準男爵家は辺境の貧しい貴族。
自分の娘を是非妻にと、縁談を持ち込む貴族はいるはずもない。
大抵そのような領地の家は、家臣の身内や自身の親族となる従姉妹などと結婚することが多い。だがエトゥスに親族はおらず、家臣といってもハングが仕えるだけ。
いっそ領民と結婚してはとハングは進言していたが、エトゥスは独り身で困ることはないと断り続けていた。
「モンクレド子爵家の御令嬢といえば歳も17歳と若く、誰もが見惚れる美しさと聞き及んでおります。役得ではございませんか」
「本気で言っているのか?」
「もちろんでございます」
頭を抱えるエトゥスも笑顔を見せるハングも、事の真相を理解している。
己の失態で婚約を破棄された令嬢など少しでも家の利になるように、富豪の後妻か貴族の妾にあてがわれるのが通例。
わざわざクレイスア家に白羽の矢が立ったのは、貧乏貴族に送りつけることで侯爵家の溜飲を下げるのが狙い。何より侯爵家に喧嘩を売った令嬢を欲しがる家などない。
モンクレド家にしても置いておけば、さらに侯爵家の怒りを買うことも考えられる。そこで辺境の地に送り、縁を切ったと言い切るのだろう。
いわば陸続きの離島への島流しである。
エトゥスはチラとハングを見て、ため息を吐いた。
「断ればどうなる?」
「わざわざベイカル家を通じて手紙を出してきたのですから、断れば二ヶ月に一度の行商は停止されるでしょうな」
山に囲まれたクレイスア領は狩猟や山の恵み、領民の半数以上が農業を営むため、自給自足で生活することは可能である。
だが調理に欠かせない調味料は交易によって賄われているのが現状。
交易が止まり調味料の入手が出来なくなれば、領民の反発が起こることは簡単に予測される。
「しかしながらお受けすれば、行商の派遣回数を増やして頂くように進言することも可能でしょう」
「では受けた場合のデメリットはどうだ」
「エトゥス様の感情を除けば……ございません。他の貴族からは嘲笑の対象になるかもしれませんが、失礼ながらクレイスア家は貴族界とは隔絶された家。何も問題はありません」
「……分かった。明日の朝まで考えさせてもらう」
エトゥスが顔を上げ、力のない眼で天井を見つめると、ハングは一礼して部屋から出て行った。
領地のことを考えれば断る理由は何もない。
だがエトゥスは簡単に答えを出せなかった。
別に女が嫌いなわけではない。むしろ人並みの欲を持っている。
彼を迷わせているのは、この地の特殊な事情だ。
その事情に顔も見たこともない女性を巻き込むことを憂くのだった。